原文:跋陀婆羅(ばつだばら)並びに其の同伴十六開士(かいし)、即ち座より起ち、頂礼して仏足に礼し、仏に白して言く、我等は先に威音王仏(いおんのうぶつ)に於いて法を聞きて出家す。僧を浴する時に於いて、例に随って室に入る。忽ちに水因(すいいん)を悟る。既に塵を洗わず、亦体を洗わず。中間安然(あんぜん)、無所有を得たり。宿習忘るる無く、乃ち今時に至るまで、仏に従って出家し、今無学を得たり。彼の仏は我を名づけて跋陀婆羅と曰う。妙触宣明(みょうそくせんみょう)、仏子住(ぶっしじゅう)を成ず。仏、円通を問う。我が証する所の如く、触因を上と為す。
釈:跋陀婆羅とその同伴十六名の菩薩大士が座より立ち、仏足を頂礼し、仏に申し上げた。我々は威音王仏の時代に仏法を聞き出家修行し、ある時僧侶たちが沐浴する際、順番に浴室に入りました。その時突然水の因縁を悟りました。水は塵を洗い落とすこともできず、身体を清めることもできず、沐浴の過程では何事も起こらず、水は水、塵は塵、身体は身体のまま互いに触れ合うことも妨げ合うこともなく、一切法空(いっさいほうくう)を証得し得るものは何もありませんでした。私は一切の法を空と観じる習慣を身につけ、生生世世忘れることなく、あらゆる法を空と観じ続け、今世に至って仏陀に従い出家修道し、四果無学の位を証得しました。仏は私を跋陀婆羅と名付けられ、沐浴時の妙触によって心が開明し、仏子の位に住するに至りました。仏が円通法門をお尋ねになったので、私が証得したところでは触塵(そくじん)を最も優れた円通法門とします。
何故水は塵も身体も洗えないのでしょうか。諸法に自性がなく、無情物の色法は更に自性がないため、水には塵や身体を洗う機能作用が本来備わっていないからです。塵が洗い流されるのは水の功徳ではなく、身体が清浄になるのも水の功徳ではありません。水と塵は全く触れ合わず、水と身体も全く触れ合わず、同様に身体と塵も触れ合いません。色法の間に本来境界が無いため、互いに何かを変えることはできないのです。しかし結果として塵は確かに洗い流され、身体は清められます。これこそ不思議なことで、跋陀婆羅は諸法の本性を証得し、この不思議を妙触と称し、その証量を宣明して人々に知らしめ、衆生がこの妙触を証得できるよう導いたのです。
但しこの妙触を証得するには深甚な禅定が必要です。禅定を離れては何ら証量がなく、思惟分別による理解には実際の功徳受用がありません。禅定が深まるにつれ疑情も深まり、常に疑情の中にあって相応する縁に遇えば、念を収めて深く思惟し悟りを開くことができます。その後、その所以を知り、三昧が現前し大智慧が生起し、大神通さえも顕現するのです。実証者には皆このような境地があります。
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