衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年11月07日    木曜日     第2 回の開示 合計2017回の開示

真の三昧とは定慧の等持である

真実の三昧は定慧等持であり、定も慧も備わった、実証後の境地である。修行方法や段階が異なれば、禅定の深浅も観行の智慧も異なり、成就する三昧も異なる。観行の智慧を要する禅定は全て未到地定あるいは初禅定を必要とし、初禅定における観行が最も効果的である。初禅定がなくとも未到地定が十分に備わり、初禅定に近ければ近いほど良い。未到地定がなければ観行はできず、心が非常に粗雑で浅薄なため、何らの法も観察し得ない。未到地定が不足すれば観行も力強くない。

二禅以上の定中では意識に念がなく観行思惟できず、必ず禅定から出て初めて意識による観行思惟が可能となる。禅定が高まるほど出定後の定力も優れ、観行思惟はより細密深透となる。ただし意識が観行の法を既に意根に伝達し、意根がそれを究明しようとする場合を除き、二禅以上の禅定中に意根は単独で思量参究でき、干渉を受けない。諸仏が四禅定において悟道したのは、おそらく意根が独立して悟道し、意識の作用が大きく関与していないためであろう。

禅定を具足し観行を学べば、多くの修行者は自ら着手処を得て、如何なる法をも証得し得る。これは極めて重要な修行方法であり道程であると同時に、現代の学仏者にとって突破困難な瓶頸でもある。意識が仏法を理解した後、深く観行して証を求め、法義が意根に至れば、意根が法義と疑点を思量し、思量が通達した後で初めて完全に確信し、法を疑わなくなる。その心境は非常に安らかで愉悅に満ち、解脱とはまさにそのような状態である。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

色身への執着を減らすことこそ我見を断つ道である

次の記事 次の記事

意根の無明を断じることは非常に難しい

ページのトップへ戻る