衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年11月08日    金曜日     第1 回の開示 合計2018回の開示

意根の無明を断じることは非常に難しい

五蘊無我の法義は、意識で考えればおおよそ明らかになりますが、意根は明らかにできません。意根が理解しない限り、何も変えることができません。ではいかにして意根を薫染させ、意根にも理解させ、我見を断つのでしょうか。それは禅定を修め、定中で意識が法義を明らかに思惟し、法義を意根にかけておくことです。定中で一念も生じさせず、意根に思量させます。意根の思量が活発であればあるほど、受ける衝撃が大きければ大きいほど、やがて意根の固有の知見を覆し、五蘊が無我であることを確認して我見を断つのです。

もし定中で依然として意識に依拠して思惟するなら、第一に禅定が浅いことを示し、第二に法義が意根に伝わっておらず、意根が薫染を受けていないことを示します。意根が法義を思量できないため、意識の思惟に頼らざるを得ません。もし意識が一念も生じず、意根も思量しなければ、枯定に入ってしまい、観行の智慧が生じず、般若の大智慧が現れません。

禅定のない人は往々にして証果が速く容易だと感じますが、それは意識の思惟的理解によるもので、当然意根の思量より何倍も速いからです。禅定ある人は証果が速く容易とは感じません。意根の無明が重く、真理を受け入れるのが比較的遅く、法義を思量するのも遅いため、意根の無明を断除するのは非常に容易ではないからです。

念仏を例にとると、禅定がない時は意識で大声を出し高く念仏しますが、少し念仏の定が現れると、念仏の声は小さくなります。定が深まるほど念仏の声はより小さくなります。深い定に入ると声を出して念仏できなくなり、心で念仏するようになります。口で念じるのでなく心で念じるのです。さらに定が深まると、意識の心念もできなくなり、定中に入ります。もし意根が薫染を受けていれば、意根で念仏するようになります。意根が念仏する時、意識の口称や意識の心念はありませんが、心の深層では確かに仏を縁として念じており、空になることはありません。念仏が意根に薫染されるとはこのようなもので、ゆえに禅定がなければ仏法修行は真髄に至れず、靴の上から痒いところを掻くようなもので、何の問題も解決できません。仏が「修行には戒・定・慧の三大法宝を具足せよ」と説かれた所以であり、仏語を信じ仏教を尊んでこそ成就できるのです。

——生如法師の開示
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