衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年10月25日    金曜日     第4 回の開示 合計1981回の開示

我執を真に断じたかどうかを如何にして判断できますか?

問:五蘊の無常・苦・非我を次第に観察し、受想行識において再び我見・我所見を起こさなくなった後、さらにどのように向上できるのでしょうか。その後の方向性は何でしょうか。あるいは、この作為のない寂止の状態をしばらく保てば、自然に「生は尽き、所作すでに作り、後に受くることなし」と自証できるのでしょうか。実践過程において、出定後短時間(1~2時間)で猿心が戻り、再び執着と作為を欲するため、この循環を繰り返しています。どこかで仏陀の教法と完全に接続できていないのではないかと考えています。

答:自ら「我が生は尽き、所作すでに作り、後に受くることなし」と証することは、四果の大阿羅漢に至って初めて証得できる境地です。我々はまず初果を確実に真実のものとすべきです。初果でさえ、前世から我見を断ち切れなかった者にとっては極めて困難な達成です。

五受蘊の苦・空・無常・無我を観察する際、真に五受蘊が苦空無常無我であると認めているか否かを正しく判断することが極めて重要です。これは最も肝要な点であり、自己流に無我と認めるだけでは不十分です。

観行思惟の時は心が清浄に思えても、出定して観行しない時もなお我執が残り心が清浄でないなら、真に我見を断じたのではなく、真の無我に至っていない証左です。その場合は再び観行を続け、工夫を重ねる必要があります。

——生如法師の開示
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