衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2019年09月27日    金曜日     第3 回の開示 合計1940回の開示

意根の無明を打破することこそが成就である

三千大千世界において、無明を抱き、誤った知見と執着を有する末那識が仏となることが果たして可能でしょうか。実相の第八識(阿頼耶識)を見ずに我見を抱く末那識が菩薩となり、さらには識を智に転じることができるのでしょうか。

仏は四智を円満に成就されます。いかなる四智か。第一に意識が究極的に識を智に転じて妙観察智となり、第二に末那識が究極的に識を智に転じて平等性智となり、第三に五識が智に転じ成所作智となり、最後に第八識が智に転じて大円鏡智となるのです。

初地の菩薩に至れば、意識が初めて識を智に転じて妙観察智となり、末那識が初めて識を智に転じて平等性智となります。末那識がどうして識を智に転じ得るのか。それは我見を断じ、我執を滅し、法界の実相たる真如の心を証得し、一分の法執を破り、大智慧を具えるに至ってこそ識を智に転ずるのです。さもなくば末那識がどうして智に転じ得ましょうか。

意識のみを修し末那識に至らなければ、何を成就できましょうか。使用人に食事を与えず主人にのみ与えれば、主人が餓死してなお使用人が存在し得ましょうか。戦場において参謀が地図を見て将軍に見せなければ、いかにして戦を進め、誰が指揮を執りましょうか。

仏道修行において意識のみが単独で活動し、末那識が一切の無明を抱えたまま我見さえ断たれずに仏となることが可能でしょうか。それは無明の仏ではありますまいか。生死輪廻が意識によって主宰され、解脱が意識によって成し遂げられ、末那識が何ら関与しないということがあり得ましょうか。臨終の際に末那識が無明のままならば、いかなる胎に生を受けることができましょう。聖胎に生じることはできましょうか。涅槃に入る際に末那識が一切の無明を抱え、我見を具足し、三界に貪着したままで、涅槃に入ることができましょうか。末那識がなお三界にありながら六識が滅しただけで涅槃が成就するなどということがあり得ましょうか。

或る人々は常に意識を主人や将軍とし、一切の法を意識の判断に委ねようとします。これは可能でしょうか。もし可能ならば、私たちは皆そう望むでしょう。意識が主宰する仏道修行は安楽であり、仏となるまで数劫も要さず、火矢よりも速やかであることでしょう。意識が思索し理解するだけで仏地を悟り仏となる。しかしこれは絶対に不可能なことです。ゆえに努めて末那識を修行し、末那識が理を明らかにして無明を破り執着を断つべきなのです。

——生如法師の開示
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