三千大千世界において、無明を抱え、誤った知見と誤った執着を持つ末那識を有する者が仏となることは可能でしょうか。我見を持ち実相の第八識を観ることのない者が菩薩となり、さらには転識得智を成し遂げることは可能でしょうか。
仏は四智円明であり、その四智とは何でしょうか。第一に意識が円明となり究竟的に転識得智を成し、第二に末那識が円明となり究竟的に転識得智を成し、第三に五識が円明となり転識得智を成し、最後に第八識が円明となり転識得智を成すのです。
初地の菩薩に修め至ると、意識が初めて転識得智して妙観察智となり、末那識が初めて転識得智して平等性智となります。末那識がどうして転識得智を成し得るのでしょうか。それは我見を断じ、我執を断ち、法界の実相たる真如心を証得し、一分の法執を破り、大智慧を具えるに至って初めて転識得智を成すのです。そうでなければ末那識がどうして転識得智を成し得ましょうか。
ただ意識を修めるだけで末那識に至らなければ、何を修め得るというのでしょうか。使用人に食事を与えても主人に食事を与えなければ、主人が餓死してなお使用人が存在し得るでしょうか。戦場において参謀が地図を見た後、将軍に見せなければ、この戦争は如何にして進められ、誰が指揮を執るのでしょうか。
仏道修行において意識のみが単独で活動し、末那識がすべての無明を抱えたまま、我見すら断たれていない者が仏となるのでしょうか。無明の仏となるのでしょうか。生死輪廻はいつ意識が主宰し、解脱は意識が主宰し、末那識は逆に発言権を持たないのでしょうか。死の際に末那識が無明のままならば、どのような胎に転生し得るでしょうか。聖胎に転生し得るでしょうか。涅槃に入る際、末那識がすべての無明を抱え、我見が満ち、三界への貪着があるならば、涅槃に入ることができるでしょうか。末那識がなお三界にありながら六識が滅しただけで涅槃に入れるというのでしょうか。
ある人々は常に意識を主人や将軍とし、一切の法を意識の判断に委ねようとします。これは可能でしょうか。もし可能ならば、私たちは皆そう望むでしょう。意識が主宰し、仏道修行が楽に愉快に進み、仏となるまで数劫も要さず、ロケットよりも速く達成できるでしょう。意識が思索し理解し、仏地を究竟的に悟れば即ち仏となる。しかしこれは絶対に不可能なことです。故に依然として末那識を修行し、末那識が理を明らかにして無明を破り執着を断つことが必要不可欠なのです。
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