衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年09月27日    金曜日     第2 回の開示 合計1939回の開示

意根は一体非量なのか

非量の定義とは何かを考察する。もし誤見、誤解、誤執を非量と定義するなら、意根は非量であり、同時に六つの識も非量である、なぜなら全てに誤見、誤解があるから。もし想像、幻想、仮設などを非量と定義するなら、意根は非量ではなく、完全に現量の認知である。意根が意識のような非量を持つなら、仏を学び修行は容易になり、世俗法の中で生活も容易になり、仏法に出会えば容易に正解を得、修定、参禅、参究、観行に力を費やす必要なく、成仏も三大阿僧祇劫を要しない。これほど長時間修行で成仏するのは、意根の智慧不足により、長期熏染が必要で、事実を述べ道理を講すから。

もし一切法への誤見、誤解が非量の定義なら、意根確かに非量である、無明により、一切法祂は誤見、誤解以致誤執するから。仏を学び修行とは、意根の無明を破除し、意根の一切誤見、誤解を纠正する。無明断尽し、全て正解となり、一切誤執も断尽し、衆生は成仏する。

意根の誤解を纠正するには、意識の正解に依赖する。意識が正解を得ようなら、仏経を学び、深く正確に仏経を理解し、その後正思惟し、意根を熏染し、意根が意識の正解に随順して正思量し、从而意根に正解と正見を持たせ、前からの誤知、誤解及び誤行を導正する。最初に破除すべき意根の無明とは、意根の我見であり、その後意根の我執を断尽できる。

再次に破除すべき意根の無明とは、祂に第八識を法界の主人と認させ、自己ではなく。その後意根の法執を断尽し、法執断尽すれば、衆生は成仏する。

故に仏を学び始から終まで、意根を修す。目的は意根の無明を断除断尽し、完全に自性に回归し、再颠倒ない。この中には、意識の引导が必要。故に意識まず無明颠倒見を破除し、才能意根を解脱の正途に趣向引导し、最終徹底大解脱を得。再故に、修行意根は正修であり、只修意識、主仆を知らず、是颠倒見、修不到位、解脱を得不能。

——生如法師の開示
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意根の無明を打破することこそが成就である

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