非量の定義をどう捉えるかによる。もし誤った見解・誤解・執着を非量とするなら、意根は非量であり、同時に六識も全て非量となる。それらはすべて誤った見解や誤解を持つからである。もし想像・幻想・仮定などを非量とするなら、意根は非量ではなく完全な現量認知となる。もし意根が意識のような非量を持つならば、仏道修行は遥かに容易となり、世俗の生活も容易になり、仏法に出会えば正しい理解が得られ、苦労して禅定や観行に励む必要もなく、成仏に三大阿僧祇劫を要することもない。これほど長期間の修行を要するのは、意根の智慧が不足しており、長期間の教化と事実の提示・道理の説明が必要だからである。
もし一切法に対する誤った見解・誤解こそが非量の定義であるなら、意根は確かに非量である。無明の故に、一切の法を誤って認識し誤解し執着するため、仏道修行とは意根の無明を打破し、全ての誤った見解と誤解を正すことに他ならない。無明が尽きれば全てが正解となり、一切の誤った執着も尽き、衆生は仏となる。
意根の誤解を正すには、意識の正しい理解に依拠しなければならない。意識が正しく理解するためには仏典を学び、深く正確に理解した上で正思惟を行い、意根を教化して意識の正しい理解に順じた正しい思量を行わせ、意根に正解と正見を持たせ、従来の誤った知識・誤解・誤った行いを矯正する必要がある。最初に打破すべき意根の無明とは意根の我見であり、その後初めて意根の我執を断尽できる。
次に打破すべき意根の無明とは、第八識を法界の主人と認めさせ、自己をそうでないと悟らせることである。その後初めて意根の法執を断尽でき、法執が尽きれば衆生は仏となる。
よって仏道修行は始めから終わりまで、意根を修めることにあり、その目的は意根の無明を断除し尽くして完全に自性に回帰し、もはや顛倒しないことにある。この過程においては意識の導きに依拠する必要があるため、意識がまず無明の顛倒見を打破して初めて、意根を解脱へ向かう正しい道へ導き、最終的に完全なる大解脱を得られるのである。ゆえに意根を修めることが正しい修行であり、意識だけを修めて主従を知らぬのは顛倒見であり、修行が不十分で解脱を得ることはできない。
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