衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年09月28日    土曜日     第1 回の開示 合計1941回の開示

観想している時に妄念がますます増えていると感じるのはどういうことでしょうか

虚妄の念(妄念)は本来虚妄です。虚妄を対治する法を用いることで、対治する心自体も虚妄となります。対治する際、心は清浄ではなくなり、さらに対治する心を滅しようとすれば、もう一層の虚妄が増えます。こうして妄上加妄、いつ終わるのでしょうか?

佛像を観想することは心の目標であり、正行です。目標のみに专注し、目標以外のものを顧みない。例えば、本来東京に行くはずが、途中の景色に迷われ、路旁の景色を不断欣赏すれば、いつ東京に到達できるのでしょうか?

禅定がない時、心は散乱します。心が散乱だから、自身の心の散乱を発見できません。一旦心を少し收回し、静まれば、原来自身の心が散乱且清浄ではないことを発見できます。発見があるこそ、自身の心が觉悟したことを示します。妄念を発見できない心は觉悟がない。妄念を発見するのが良いか、発見できないのが良いか?

愚痴の人永遠自身の愚痴を知らない。他人がその愚痴を指出しても、承認しないだけでなく、嗔心を起し、口を開けて罵人します。これでは更愚痴ではないでしょうか?愚痴の人一旦觉悟すれば、原来自身がこんな愚痴であることを発見し、自身の愚痴を知れば、対治の方法を考え、聪明になります。自身の愚痴さえ知らない人、いつ少し聪明になるのでしょうか?

人が自身の種種の不好と種種の過程を承認すれば、觉醒の人となります。一旦觉醒すれば、自身の缺点と过错を慢慢改正し、進步を始めます。过错さえ承認しない場合、どうしてその过错改正を指望できるでしょうか?そうすれば、过错を一直持ち、一错到底となります。

——生如法師の開示
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