虚妄の念(妄念)は本来虚妄です。虚妄を対治する法を用いることで、対治する心自体も虚妄となります。対治する際、心は清浄ではなくなり、さらに対治する心を滅しようとすれば、もう一層の虚妄が増えます。こうして妄上加妄、いつ終わるのでしょうか?
佛像を観想することは心の目標であり、正行です。目標のみに专注し、目標以外のものを顧みない。例えば、本来東京に行くはずが、途中の景色に迷われ、路旁の景色を不断欣赏すれば、いつ東京に到達できるのでしょうか?
禅定がない時、心は散乱します。心が散乱だから、自身の心の散乱を発見できません。一旦心を少し收回し、静まれば、原来自身の心が散乱且清浄ではないことを発見できます。発見があるこそ、自身の心が觉悟したことを示します。妄念を発見できない心は觉悟がない。妄念を発見するのが良いか、発見できないのが良いか?
愚痴の人永遠自身の愚痴を知らない。他人がその愚痴を指出しても、承認しないだけでなく、嗔心を起し、口を開けて罵人します。これでは更愚痴ではないでしょうか?愚痴の人一旦觉悟すれば、原来自身がこんな愚痴であることを発見し、自身の愚痴を知れば、対治の方法を考え、聪明になります。自身の愚痴さえ知らない人、いつ少し聪明になるのでしょうか?
人が自身の種種の不好と種種の過程を承認すれば、觉醒の人となります。一旦觉醒すれば、自身の缺点と过错を慢慢改正し、進步を始めます。过错さえ承認しない場合、どうしてその过错改正を指望できるでしょうか?そうすれば、过错を一直持ち、一错到底となります。
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