いかなる者も仏経の真意を誤解する可能性はありますが、自らの見解を断定的に表明しなければ、大きな過失には至らず、他者を誤導する必然性もありません。仏道を学ぶ過程では、誰しも誤りを重ねるもので、重要なのは自己の見解に対する態度と、どの程度まで自説を正しいと確信するかという分寸を見極めることです。完全無謬なるは仏のみであり、弥勒菩薩の説法さえも仏は全面的に肯定されません。悟りを開いた菩薩の説法にも誤りはあり、未悟時の説法はさらに誤謬が多くなります。一般的な誤りは問題ありませんが、肝要な点で過ちがあってはなりません。なぜなら核心部分は、随学する衆生が悟りを証得できるかという重大問題に関わり、これが衆生の生命の転換点となるからです。この転機においては絶対に誤りがあってはならず、目標と方向性に問題がなければ、他の些細な誤りは修正可能です。我々が仏道を学ぶ目的は、ひたすら悟りの証得に勤めんとするにあり、一旦悟りを開けば、学ぶ法に随って修め、修するごとに得るところ多く、往々にして事半功倍の効果を得るのです。
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