無記性とは、心の性質が善にも悪にも帰属せず、不善不悪の性質に属することを指す。末那識は主体となる識であり、衆生の身口意の行いを主宰している。もし末那識に善性がなければ、衆生の身口意の行いに善行が存在し得ず、世界に善人は存在せず、天界も存在し得ない。衆生が仏法を学んでも善人には成れず、仏法を学ぶ意味が失われる。もし末那識に悪性がなければ、六識に命じて身口意の悪行を行わせることもなく、世界に悪人は存在せず、三悪道も存在しない。しかし現実はそうではない。六道輪廻が存在するのは、末那識に善悪の心行があり、六識に善悪の行いを造作させるからこそ、世界に善人と悪人が存在し、衆生が善道と悪道を生死流転するのである。
もし末那識が不善不悪であれば、末那識には煩悩心所法も善十一心所法も存在せず、衆生は元来煩悩を持たず、仏法を学ぶに当たって煩悩を断じる必要がなくなる。衆生が元来不善であれば、仏法を学んでも善人乃至仏陀には成れない。もし末那識に善悪性がなく無記性であるならば、世界の善人は全て不善不悪の中性者が善法に染まって変化したものであり、悪人は全て中性者が悪法に染まって変化したことになり、生来の善人も悪人も存在せず、全て後天の意識による善悪法の薫習によって形成されることになる。しかしこれは不可能である。
さらにこのような善人は意識が善をなす偽善者であり、悪人は意識が悪をなす偽悪者となり、真実の善人も悪人も存在しない。仮に意識が如何に善悪の環境に染まって善悪に変化しようとも、末那識は意識の影響を受けず善悪に変化しないならば、善人も悪人も存在しない。末那識が善悪心所法と相応せず、善悪を持たず無記性であり、永遠に無記性であるならば、衆生は如何に修行しても仏陀になることができず、善悪業の種子を蓄積することもなく、六道における生死輪廻も不可能である。
このような状況では、末那識は主体識ではなくなり、五蘊の活動は末那識の支配下に置かれず、末那識と意識が各自の方針で行動し、五蘊は混乱に陥る。末那識が主体となって無記業を造作し、意識が主体となって善悪業を造作するならば、末那識が東を目指し、意識が西を目指す場合、最終的に色身はどちらに向かうのか。意識が仏法を学ぼうとしても、末那識が仏法を学ぶことを望まないならば、五陰身は如何に行動すべきか。二つに分裂するわけにもいかない。統合失調症や人格分裂は、意識と末那識が深刻に不一致・不調和を起こし、互いに膠着状態となり、末那識が極度の苦悩に陥り、崩壊寸前となることで生じる。もし意識と末那識がそれぞれ業種を持つならば、二つの業果報が存在し、意識は天国に昇り、末那識は地獄に堕ちる場合、最終的に五陰身は天国に行くのか地獄に堕ちるのか。よって末那識は善悪性を有し、善悪心所法を具え、単なる無記性ではないのである。
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