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日常法話

2019年08月26日    月曜日     第2開示 合計1872開示

意根はなぜ勝義根の外にある外六塵境を縁することができるのか?

本質境は共相分であり、すべての如来蔵 (tathāgatagarbha) に共通する相分であり、実の四大種子から変造されたもので、色法の中で最も真実なものです。その後、単一の如来蔵が鏡の如く像を現し、さらに見分 (darśana-bhāga) を通じて本質境を顕現させて外相分とすることで、意根ははじめて縁することができます。この像は本質境とは大きな隔たりがあります。外相分の六塵は帯質境であり、如来蔵が本質境に依って変現した影は鏡像です。七識が縁することができるのは永遠に種子現行の結果であって、種子そのものではありません。

意根は六塵境を縁することができ、五塵上の法塵だけを縁するのではありません。第一に、意根は作主識であるため、一切法の現起に対して、意根は必ず先に作主して択一し、はじめて法が生起します。もし意根が五塵を縁することができなければ、五識はどのようにして生まれて五塵を了別することができるのでしょうか。誰が作主して五識を生まれさせ、特定の五塵を了別させているのでしょうか。もし意根が五塵相を了別すると決定しなければ、如来蔵が眼識を生じて色を見、耳識を生じて声を聞く、ということはあり得ず、眼根・耳根などもまた境に趣くことができません。つまり、五識はもともと自主識ではなく、自分の出生と存在を自分で決定することができず、必ず作主識の決定があって、はじめて五識が生まれて意根の特定の五塵境を見ることができるのです。それゆえ、意根は必ず五塵を縁して、はじめて五塵相を知ることができるのです。

意根は六識に対して主導・推動の働きがあり、意根が六塵を了別したくなければ、六識は生まれることができません。眠っている時、内六塵は絶えず勝義根 (indriya) の中に現れていますが、意根が了別したくないだけなので、衆生は目を覚ますことができないのです。五根が存在する限り、如来蔵は必ず五根に依って外六塵を伝導し、勝義根の中に内六塵を変現します。昏睡状態の時もそうであり、定 (samādhi) の中でもそうであり、さもなければ出定することも、目を覚ますこともできません。先に根と塵があり、後に識が生まれます。識があれば必ず塵がありますが、塵があっても必ずしも識があるとは限りません。

意根が前世の屍骨を縁することができ、西方極楽世界のあの蓮華を縁することができ、過去世の人・事・物を縁することができるのであれば、意根は勝義根の外にある外六塵境を縁することができると言うべきです。もし外六塵が勝義根の中の内六塵に変現された時にのみ意根が縁できるのであれば、勝義根の外にある法はそれほど多くあるのに、意根はどれも縁することができないことになり、意根は一切法を黙容する識ではなくなってしまいます。これは仏陀の聖教に反するばかりでなく、事実とも合致しません。

如来蔵が本質境を縁する時、その見分は本質境を見ることができ、その後には同じ鏡像を変現しなければなりません。意根が縁する時、意根は如来蔵の見に依って自分の見性を有し、外六塵相をも見ることができますが、この外六塵相は、如来蔵が本質境を見た後にさらに幻化した鏡像であり、両者の見るものには違いがあります。意根が鏡像を了別しようとすれば、如来蔵を促して六識を生まれさせ、鏡像を了別させますが、六識が了別するのは勝義根の中で如来蔵が再度変現した鏡像であり、外六塵の鏡像とはまた異なるものになります。

——生如法師の開示
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