本質境は共相分であり、すべての如来蔵に共通する相分である。実四大種子によって変造されたもので、色法の中で最も真実なるものである。その後、個々の如来蔵が鏡像を現じ、見分を通じて本質境を外相分として顕現させ、意根が縁づくことができるようになる。この像は本質境とは大きく異なる。外相分の六塵は帯質境であり、如来蔵が本質境に依って顕現した影が鏡像である。七識が縁づくことができるのは常に種子現行の結果のみであり、種子そのものではない。
意根は六塵境を縁じることができ、五塵上の法塵のみを縁じるのではない。第一に、意根は作主識であり、一切法の現起に際して意根がまず主導的に選択を行わなければ法は生起しない。もし意根が五塵を縁じないならば、五識は如何にして五塵を了別することができるようになるのか。誰が五識を生起させ、特定の五塵を了別することを主導するのか。意根が五塵相を了別すると決めなければ、如来蔵は眼識を生じて色を見、耳識を生じて声を聞くことができず、眼根や耳根なども境に趣くことができない。つまり五識は本来自主識ではなく、自らの生起と存在を決定できず、必ず作主識の決定が必要であり、五識は意根が特定の五塵境を見ることを生じるのである。故に意根は必ず五塵を縁じ、五塵相を知らなければならない。
意根は六識に対して主導的推進作用を有し、意根が六塵を了別しようとしなければ六識は生起しない。睡眠時には内六塵が絶えず勝義根に現れるが、意根が了別しようとしなければ衆生は目覚めることができない。五根が存在する限り、如来蔵は必ず五根を通じて外六塵を伝導し、勝義根の中で内六塵を顕現させる。昏迷時も同様であり、禅定中も同様である。そうでなければ定から出ることも目覚めることもできない。まず根と塵が存在し、後に識が生じる。識があれば必ず塵があるが、塵があっても必ずしも識があるとは限らない。
意根が前世の屍骨を縁じ、西方極楽世界の蓮華を縁じ、過去世の人事物を縁じることができるならば、意根は勝義根の外にある外六塵境を縁じることができると言うべきである。もし外六塵が勝義根の中の内六塵に変現された時のみ意根が縁じるとするならば、勝義根の外にある無数の法を意根が縁じることができず、意根は一切法を黙容する識ではなくなる。これは仏陀の聖教に背き、事実にも合致しない。
如来蔵が本質境を縁じる時、その見分は本質境を見ることができる。その後同じ鏡像を顕現させ、意根がこれを縁じる。意根は如来蔵の見に依って自らの見性を有し、外六塵相を見ることができる。しかしこの外六塵相は如来蔵が本質境を見た後に幻化した鏡像であり、両者の見る所は異なる。意根が鏡像を了別しようとすれば、如来蔵に六識を生起させて鏡像を了別させることになる。ただし六識が了別するのは勝義根の中で如来蔵が再び顕現した鏡像であり、外六塵の鏡像とは異なる。
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