問:意根には常人に知られざる特異な習性があります。それはよく瞋恚の味わいに貪着することです。例えば他人の優れた点を見るに忍びず、自分より優れている者を見ればすぐに瞋心を起こす者がいます。さらに甚だしい場合は、衆生の命を害して自己の快感を満たす者さえいます。
意根はまた二面性を持ち、一面は染汚、もう一面は清浄です。このため唯識宗では染浄依と呼びます。その一方が第八識如来蔵に、もう一方が六転識に接続しているからです。依り所となる如来蔵は常恒にして清浄ですが、依り所となる六転識は常に転変して染汚しています。この縁故により、唯識を学ぶ者は意根を染浄依と知るのです。以上の説は妥当でしょうか。
答:意根のほとんどの習性は常人に知られていません。常人には定慧が不足しており、意根を証得できないからです。仮に証得した者でも、煩悩の障りが転識得智されていないため、意根の運作を観察できず、その心行を正確に了知できないので、誤解が極めて多いのです。煩悩を断じていない者、転識得智していない者の意根は一切の煩悩を具えており、最大の煩悩習性は貪欲と瞋恚です。もし意根が貪りの心行を生じるなら、必ず貪る対象が自己に有益で好ましく、快適で喜びを感じ、自己の嗜好・利益・虚栄を満たすと認識します。
瞋心が現行し怒りを生じる際に「味わい」があるという説は奇妙です。瞋は心所法であり、識心の心行です。意根が自らの心行に貪着するという理屈は成り立ちません。瞋自体が身心を損なう行為であり、むしろ不愉快なものです。誰が自ら不愉快を好み、自分を苦しめるでしょうか。自虐症でない限り、普通は瞋を好まず、可能な限り避けようとします。たとえ他者に復讐しようとしても、人を七分傷つけ自らは十分損なうもので、普通はこれを好みません。故に意根が瞋の味わいに貪着するなど、決してあり得ません。また味わいとは、識心が色声香味触法の六塵境界に対する感受であり、識心は特に快楽・快適な感受に貪着し得ますが、自ら怒る時の不愉快な感受を貪着する道理はありません。
瞋恚心の強い者は頻繁に瞋行を起こし、心中の怒りを外に発散させ他者に及ぼすことで、自ら平静を取り戻します。このため瞋心の特に強い者は他者に暴力を振るい、自らの瞋恚を発散させ、心を落ち着かせたり喜びを感じたりします。発散対象を見出せない者は自らを傷つけたり物体を破壊したりして心情を平静にします。ごく少数の特殊な者がそうするだけで、大多数はそうではありません。しかしこれも瞋の味わいへの貪着を意味しません。瞋は瞋、貪は貪であり、瞋を好む者はいません。しかし意根には瞋心が具わり、時折発作的に現れるのです。
染浄依の解釈は誤りです。真意は、意根が六識の清浄・染汚の依止処かつ源流であり、六識の染浄は意根によって定まるということです。意根は作主識として自らの心行に従って六識の造作を指揮するため、六識の心行は意根次第です。意根が染汚なら六識は染汚業を造作し、清浄なら清浄行を造作するか、六識の活動を抑制します。
意根は無始劫来ずっと如来蔵に依って生起・運作し、如来蔵を通じて諸法を見ますが、如来蔵の清浄性に依って自ら清浄になることはありません。常に染汚のままです。故に如来蔵は意根の清浄所依ではありません。如来蔵を真に証得して初めて、その清浄性に依止し、自らの染汚心行を次第に転換し清浄へ向かうのです。
また意根は六識を依り所として六塵を了別し身口意行を造作しますが、その染汚性は先天のもので、六識の薫習無しに存在します。六識が無くとも意根は常に染汚です。逆に六道輪廻において、意根は絶えず自らの染汚を六識に薫染し、六識に貪瞋痴を教導します。六識は輪廻で染汚環境に触れ、薫習された貪瞋痴を再び意根に伝え、意根の貪瞋痴染汚性を増長させます。故に意根の染汚性は六識依存で生じるものではありません。ただし意根が清浄に転ずるには、六識による仏法薫習が要ります。六識が清浄なら意根も次第に清浄化します。逆に意根が清浄なら六識は染汚環境に薫染され難く、必然的に清浄を保ちます。
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