縄を見て蛇と見なすのは、非量に属するのか、それとも比量なのか。正しく縄を弁別せず、またありのままに蛇を認識しないため、いずれも誤った弁別であり、事実に合わない故に非量である。驢馬に乗りながら驢馬を探すのは何量か。自ら乗る驢馬を認識せず、驢馬を驢馬として認めず、さらに別の驢馬を探すのは、正しく驢馬を認識できない非量である。自己の五陰身全体が第八識であるのに自ら理解せず、別に第八識を探し求めるのは何量か。同じく非量である。凡夫が父母を見て父母と認め、子孫を見て子孫と呼ぶのも現量ではなく、非量である。故に仏陀は阿闍世王に「父なる人は存在せず、父を殺すという事実もない」と観行を教え、五蘊空無我を証得させ、非量の認知を滅し現量に帰入させ、父殺しの罪業を滅除させた。
阿羅漢の証得した五陰非我不異我、生滅変異空は何量か。阿羅漢の証得した五蘊空無我は現量ではあるが半現量であり、未だ究竟ではない。故に大乗法を修学し究竟法を証得する必要がある。菩薩たちが第八識を証得した後、各種の智慧を獲得するのは何量か。阿羅漢と菩薩の証得した法は現量証ではあるが、相対的現量であり、完全な現量ではなく非量の成分を残している。
観自在菩薩が五蘊皆空を照見するのは何量か。もし観自在菩薩の五蘊皆空の照見が完全な現量であるなら、修行は究極に達し成仏したことになり、続けて修行する必要はない。等覚妙覚菩薩の証得した法さえ未だ究竟でないため、最後の一品の無明を破らねば完全成仏できず、無明破尽して初めて完全な現量智慧となる。
厳密に言えば、仏陀の智慧認知のみが完全な現量智慧であり、究竟的で疑いのない、現実と真理に完全に符合するものである。その他の菩薩たちの智慧認知には異なる現量成分が存在し、未だ究竟ではない。阿羅漢や辟支仏の智慧認知は菩薩よりも究竟せず、空の程度も不十分である。凡夫は完全に非量であり現量を持たない。たとえ山を見て山とし、水を見て水とし、父母を見て父母とし、怨敵を見て怨敵とし、一点の錯乱もなくとも、これらすべて非量であり、迷妄倒錯である。非量の認知は精神錯乱の認知に相当し、衆生は程度の差こそあれ皆精神病を抱え、健全ではない。
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