衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年08月23日    金曜日     第3 回の開示 合計1861回の開示

六塵縁影は鏡中の像の如し

六塵の縁影は鏡の中の像の如し。我々が見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、触れるもの、想うもの、行うもの、これら全ては鏡の中の影に過ぎません。鏡の影を見る時、その影にどんな感慨を抱き、どんな考えを巡らせ、その影をどう造作しようとも、結局それは影であって実体ではありません。我々が分別するのは鏡の中の影に過ぎず、この影は善くあの影は悪いと、絶え間なく執着し掴み取ろうとしますが、結局何も掴み得ず、全ては影に過ぎず実体なく、空しいものです。川面に映る木影のように、どれほど賞賛しようと実在するものではなく、川の月影のように、猿が必死に掬い取っても一片も得られないが如し。実体なき月影だからです。

我々が触れる一切の境界も同様で、何かを享受したように思えど、実は何も得ておらず、全て影との戯れです。意根が六識を指揮して絶えず作意し、触れ、受け、想い、執着しますが、実際には何も掴んでおらず、影との戯れに過ぎません。己すらも影の一つ、幻法が幻法に対すれど、何の真実がありましょう。しかし我々はこの事実から脱出できず、真相を了知できません。薄福と無明の故です。仏世尊は衆生を憐れみ、種々の説法と譬喩をもって教化されました。戒・定・慧を修し、覆いを除き、事実を認めよと。この世に実に一法も得るものなく、心を休め妄想を除けば、即ち真実相が見えると。衆生が仏語に依り真に修行する時、初めて影を見極め、自性に帰り、解脱を得るのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

福徳・定・慧における悟りの次元の違い

次の記事 次の記事

ただ正見を貴び、行履を説かず

ページのトップへ戻る