衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年08月24日    土曜日     第1 回の開示 合計1862回の開示

ただ正見を貴び、行履を説かず

潙山が仰山に問う:「涅槃経四十巻、どれほどが仏説で、どれほどが魔説か」仰山曰く「総て魔説なり」潙山曰く「後世汝に対処できる者あらじ」仰山曰く「慧寂は一期の事柄に過ぎず、行履(修行の実践)は何処にあるや」潙山曰く「只だ汝の眼正しきを貴ぶ。行履を説かず」

仰山禅師の師への返答は特異であった。涅槃経四十巻全てが魔の説であり仏説ではないと断じた理由は、真仏は口を持たず説法せず、口で説法するものは真仏に随伴する仮の仏(化身)に過ぎぬからである。師の潙山禅師はこれを激賞し「後世真に汝に対峙できる者はいまい。汝の智慧は卓越している」と述べた。仰山が「現に知見は具足したが、真の菩薩行は如何に体現すべきか」と問うと、潙山は「見地が純正であれば、菩薩が備えるべき行履は自然に建立される」と答えた。

仰山は既に明心見性し般若智慧を具足していたが、菩薩の行持を速やかに具現し、身口意の行いを清浄に保ち、菩薩の規範に完全に適合する真の菩薩たらんと志した。これに対し潙山は、真に明心見性すれば行持は漸次転換し、従前の身口意の行いが清浄となり、煩悩断絶は自然の成り行きであり、慈悲喜捨の菩薩行は次第に具足すると考えた。潙山の見解は極めて妥当であるが、「眼正しき」とは即ち意根(第六識)の正しさを指す。意根が正しければ身口意は自然に正道を行い、無明煩悩の断絶も菩薩の慈悲喜捨も必然的に成就する。実際、仰山禅師は後に禅宗三関を突破し初地(歓喜地)に至り、夢中で弥勒内院に昇り弥勒菩薩の前で説法した。

古人の修行は真修実証であり、明心見性は曖昧さなく真実であった。明心後は智慧が泉の如く湧き出で、行持も漸く清浄となり菩薩の規範に適い、衆生の依止処となった。然るに現代は偽菩薩が蔓延り、身口意の行いは世人の唾棄すべき対象となり、真菩薩とは雲泥の差がある。故に偽りの明心を自称する者に菩薩行を論ずる資格はない。

——生如法師の開示
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