日常法話集録
第三章 意根の実修実証(2)
十、学んだ理論と照らし合わせる推測は証とは無関係
問:痒い所を掻くことを例に取ると、根塵が相触れた後、作意があれば識が生じます(ここでは意根の作意が先で、ある時は意根の作意が後になります)、そしてこの時、意根が身識の働きを指揮しています。そこで私はこう考えました:七八識は互いに依り合っており(八識九縁)、意根が現れた以上、第八識はその近くにあるはずです。ならば、根塵が相触れ、意根が作意する瞬間に、第八識が身識を変現し出した(三能変)のであり、それから意根が身識に痒い所を掻かせたのだ、と。この段の第八識の存在は、学生の顛倒妄想なのでしょうか、それとも単なる解題の思路の一種であって、第八識を証得するにはまだ程遠いのでしょうか?
答:あなたはこの時、意根の働きを現前観察してもおらず、第八識の働きも現前観察していません。ならば、あなたが述べたことはどれも事実ではなく、学んだ理論知識と照らし合わせて思惟し、憶想し、推理し、推測したものであり、これらはすべて非量の境界であって、現量の観察がないため、いずれも真に受けてはなりません。禅定のない人はこのように法を学ぶのです。意識の機能が強盛で先走り、実のところそれは憶測にすぎず、たとえ一切の法をすべて憶測し当てたとしても、それはあくまで憶測であり、数に入れることはできません。
私は多くの人に出会いましたが、彼らは皆このような学法の状態にあります。見た目はなかなか聡明で、問題の鍵となる箇所や着眼点を見つけることができ、それから近道をしようとし、意識で思惟・分析・帰納・整理・推測を行います。しかしこうすることは自分の修行の道を障害し、実修実証を妨げ、結果として「聡明はかえって聡明に誤られる」ことになります。また多くの人が、このような憶想・推測を実証と見なして、あちこちで自分は開悟して聖者になったと宣伝していますが、これはまだ初学の段階であり、禅定はまだ生起しておらず、戒定慧、菩薩の六度、さらには三十七道品もまだ修めておらず、証悟の因縁と条件にはまだあまりにも大きな隔たりがあります。末法の時期の衆生は福が薄く、禅定を修め出すことができず、戒律を受持することもできず、また福を修めようともしないため、乾慧を弄するしかありません。そしてまさにこの乾慧こそが最も道を障り、事を誤らせるものであり、往々にして自ら悟りの門を塞いでしまうのです。
十一、いかにして意根に一切の法を変えさせるか
問:もし私が絶えず観想し続けたり、絶えず念仏 (buddhānusmṛti) し誦経し続けたりして、功夫が十分になった時、第七識が熏されて、熏修された種子を自動的に転出し、外在の環境を変えることができるのでしょうか? 外在の環境も第七識が転出したものだからですか?
答:種子と境界は、いずれも意根が如来蔵 (tathāgatagarbha) に促して転化させたものであり、意根そのものが種子を現行させることはありません。修学の過程において、意根の力さえ十分に大きければ、得るエネルギーが十分に大きければ、如来蔵 (tathāgatagarbha) は意根の心意に随順し、すべてが問題ではなくなります。境界は意根の心に随って転じます。意根が訓練されて心力が非常に強大になり、極めて堅定に一心に境界を変えたい、あるいは何かの目標を達成したいと願えば、必ずその願いを満たすことができます。まだ願いが満たされていないとすれば、それは力がまだ不足しているからであり、さらに熏修して力を集積する必要があるのです。石を指して金と為すように、それは意根の心力が強大であるがゆえに、石を無理やり黄金に変えてしまったのです。
仏法をよく学べば、心は善くなり、心は柔らかくなり、長い時間を要せず、相貌は変わり、それはすべて心が変わった結果です。この心は主に意根を指し、意識も含まれます。いわゆる意根を熏染するとは、自分の心を変えることです。自分の心が変わったかどうか、どんな風に変わったか、どの程度まで変わったか、自分でよく観察すれば、知ることができるはずです。人に対しても事に対しても、一切の法を修めるにあたって、真心からなのか、それとも応付のまねごとか、自分で観察できるはずであり、真心実意であるものはすべて意根を用いたものです。念仏 (buddhānusmṛti) は真の念仏 (buddhānusmṛti) と偽の念仏 (buddhānusmṛti) に分かれ、修行する時に真の修行なのか、それとも修行のふりをして見せているのか、自分で観察できるはずです。何事をするにも意根が真であるという段階に達するのは容易ではなく、戒律、禅定、智慧、福德などの条件が必要です。
一切の心行は意識と意根の二つの層次に分けられます。たとえば布施 (dāna) が真の布施 (dāna) なのか、それとも形式だけを踏んで目立ちたがっているのか、よく観察すれば見分けられます。父母に対して、真心から孝敬しているのか、それとも偽りなのか、細心に味わってみれば見分けられます。心を変える修行は、ほとんどが量変から質変へと進むものであり、量の積み重ねは意識にあり、質の変化は意根にあるので、意識は浅く、意根は深いと言われます。もし意根の善根が深く、力が大きく、特に誠心であれば、直接に質変し、一切を変えることができ、力を蓄える必要はありません。
意根を熏修するには長い間の坚持が必要で、持続して戒を持ち、大菩提心を発し、絶えず禅定を修習し、事を行う時は専注一心とし、雑思乱想を排除し、専ら思惟し、多くの福德などの資糧を集積することです。その心を降伏したいなら、ほとんどの場合、意識が深く法理と世間の苦を思惟することによって意根を熏染し導く必要があり、個別の場合には南の壁にぶつかることによって、自ら振り返り方向転換することを強いられる必要があります。それゆえ、苦難は成長に必要なものであり、苦難を経験しなければ、出離心と勇猛心はなく、修行は容易に懈怠します。
十四、AIロボットの機能・作用
貪瞋痴は識心が具える煩悩であり、非識心の物質である色法には貪瞋痴の煩悩はありません。ロボットは物質の色法ではありますが、識心を持たず、それ自体に喜怒哀楽はなく、貪瞋痴の煩悩もありません。しかしロボットは物質の属性を持つだけでなく、同時に粗浅な、識心に類似した機能を付与されており、粗浅な識心の作用を果たすことができます。それは文字を識別する機能・作用です。この識別は、単純式、無脳式、不自主の受動式、被限定式に属します。要するに、その識別機能は智慧で思考して出したものではないため、智慧性を具えておらず、方便に愚痴の属性があると言うことができます。
ロボットの識別機能は、人間の意識機能の一部に相当し、しかもこの機能は比較的単純化されており、文字情報を識別できるだけであり、さらに収集、整理、帰納、概括、記憶・保存、そして情報の出力などといった種々の単純な機能を持っています。しかしこれらの情報は他の経路から来たものであり、いずれもすでに存在する旧来の情報であって、ロボット自身が開発した新しい情報ではありません。ロボットが出力するのは永遠に他人の情報であり、永遠に旧来のすでに存在する情報であり、自分で創造した新しい情報はありません。それゆえロボットは智慧性を具えておらず、方便に愚痴性があると言えます。
ロボットがどれほど多くの法を出力できようとも、それが言うことと一致することは永遠にできず、言えても行えず、永遠に学語の輩にすぎません。すべての情報内容について、ロボットは一度も証したことがなく、永遠に証得することも不可能です。それならば、AIロボットは根本的に意根の機能・作用を具えておらず、作主性もなく、自主性もありません。
一部の学仏者はAIロボットに類似しています。智慧が不足しており、意識の一部の機能しか使えず、しかも比較的粗略で、意識は他で学んだものを用いて、総括、加工、整理、帰納、精錬を行い、それから一つの結論を導き出し、これを自分の智慧だと考えます。すると同時に慢心も現れます。もしこれが自分の智慧だとしたら、AIロボットも同様に智慧を持ち、しかもその智慧はなお広大で、人類の現有の知識の範囲内ではほとんど何でも知っていることに近く、人類はそれほど知識が広博ではなく、同様に人類は「度娘(Baidu)」ほど知識が豊富でもありません。それならば、ロボットと「度娘」はすべての人類に先んじて成仏すべきでしょうか?
この答えは皆よく分かっているはずで、それは不可能です。不可能である以上、一部の人の意識上の高談闊論、頭頭是道は、根本的に自分の智慧が得たものではなく、まして真実の智慧でもなく、言行は一致するはずがなく、言は至っても行は至らず、意根に智慧がなく法を証していなければ、依然として凡夫です。言行一致する者だけが聖人の現量の智慧であり、それは自分の胸襟の中から湧き出てくるもので、個人に属する智慧です。この智慧こそが極めて貴重であり、この智慧があってこそ、転識成智ができ、最終的に仏道を成就できるのです。仏法をどう学ぶべきか、修行をどう修めどう行うべきか、皆の心の中ではっきり分かっているはずです。
十五、心念心聴の原理
心念心聴は心念耳聞ではありません。心念耳聞とは、耳聞と言っても、実は耳聞ではなく、耳識は内心の声を聞くことができず、声を出して念仏 (buddhānusmṛti) する口念の外在の声しか聞くことができません。意識は内外(心口)の声をともに聞き、意根は定力の状況に応じて、聴聞に参与する深浅の程度が異なります。心念は声を出して念じていないので、念仏 (buddhānusmṛti) に身識はなく、意識だけがあり、あるいは意根と意識が一緒に念仏 (buddhānusmṛti) しており、この意識は独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) です。心念の声を聞く識心は独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) が聞いており、意根も一緒に聞いています。
もう一つの心念の場合は、意根が単独で念仏 (buddhānusmṛti) する場合で、この時に観察できるのも独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) であり、意根も一緒に反観しています。通常の場合、定力が深くなく反観力 (pratyavekṣā-bala) がない時は、独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) は意根の念仏 (buddhānusmṛti) を観察しにくく、定力が深い時にこそ自分の心が念仏 (buddhānusmṛti) しているのを観察できます。心が念仏 (buddhānusmṛti) する時、定力が深ければ深いほど、意根が念仏 (buddhānusmṛti) に参与する程度が深くなり、意根自身と独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) が自分の念仏 (buddhānusmṛti) する心念を観察するほど明瞭に分かります。これはすでに念仏三昧 (samādhi) の境界に達したものです。
意根の心念は念咒にも現れます。読経誦咒の時にも、意根に一緒に読誦させることができますが、これには禅定が必要で、禅定が深ければ深いほど、意根の参与の程度が深くなります。心が静かな時、独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) は意根の心念を観察できますが、意根には言語文字の声がなく、心念だけがあります。心念とは念心所法です。読経誦咒の時はゆっくりと黙読黙誦しなければなりません。これは意根が専注して一緒に念じられるようにするためで、定力が深い時は、意根は念じるのが深く専注であるだけでなく、反観力 (pratyavekṣā-bala) も強くなります。ここでは独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) と意根の両方に反観力 (pratyavekṣā-bala) があり、両者は見分けにくく、非常に深い禅定と、非常に静かな心があって初めて弁別力が得られるため、両者の反観力 (pratyavekṣā-bala) については誤解が生じやすいのです。
定とはすなわち専注力です。専注でき、雑念がないようになるには、二つの方法があります。一つは極めて速い念誦で、こうすれば雑念の時間がなく、雑念が追いつけず、現れることができません。もう一つは極めて遅い念誦で、心の中に雑念の思いがなければ、専注一心になります。しかし第一の極速の方法は一時的にしか使えず、長くは使えません。気を消耗し力を消耗し、体力が追いつかないからです。定力の強弱は、意根の一切の法に対する参与度に直接影響し、意根が参与すればするほど、事を成し遂げることができ、これが智慧です。それゆえ、禅定があり定力があれば、学仏修行に役立つだけでなく、世俗の法の中で生き延びるにも、極めて大きな利益があります。
修行はさえ用心すれば、一つの関所を越えると、飛躍的に進歩します。皆が世俗の法を手放し、一心に仏法へ向かい、根本を求め、浮華を取らないことを願っています。
十六、虚幻だと知っているのに、なぜ一切の法が非常に真実に感じられるのか?
問:私は一切の法がすべて虚幻であることをはっきり知っています。しかし、山河大地や花草樹木を見ると、なぜまだあんなに真実なのでしょうか? 冷熱触痛の感覚もまだあんなに真実なのはなぜでしょうか?
答:自分は一切の法がすべて虚幻だと考えていますが、この考えは学んだ仏経の理論に基づいて知ったものであり、学んで得た知識であって、まだ実証しておらず、現量の体験と観察がないため、このような知は不知に等しいのです。実修を経て、実証を得た後、初めて各法に接触するその当下に、自ら体会・体験することができ、その時の感知、感覚、認識こそが、真実で、現量で、信頼でき、依り所にできるものであり、学んで得た知識には信頼性がなく、依拠できず、疑惑だらけです。一切の法が虚幻であると証得した後、一切の法を変え、一切の束縛を受けないようにするには、四禅八定を修行し、色陰区宇、受陰区宇、想陰区宇、行陰区宇、識陰区宇を超越する必要があり、こうしてはじめて一切の法から解脱し、一切の法を超越し、一切の法を変えることができるのです。
多くの人は、たとえ仏経を丸暗記していても、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断てず、明心見性もできず、まして一切の法の虚幻を証得することなどできません。それならば、一つの講義を聞いただけで我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断つというのは、まったくの空想であり、たとえ百万回の講義を聞いても、おそらく我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断つことの縁にすら触れられないでしょう。なぜなら、これは耳で聞くことだけで実証できるものではなく、耳で聞くのは知識・理論であり、理論が実際に変わり、自分の現量の智慧になるためには、その間に多くの工程の加工を経なければならず、これらの工程の完成には相当な代償を払う必要があるからです。何の代償も払わず、ただのんびりと講義を聞くだけでは、それらの法は耳元の風の音のように、一瞬で過ぎ去り、多くの痕跡を残すことはありません。前提として、それらの法が正確無誤に説かれていることが必要で、もし誤りがあれば、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断つことはなおさら見当違いの話です。
小乗の断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) と大乗の明心見性は、いずれも智慧による認知であり、従前の誤った邪見 (mithyā-dṛṣṭi) を正したものです。智慧による認知だけでは法そのものの状態を変えることはできず、法そのものの状態は禅定と神通道力によって変えられるものであり、その中には三つの修行方式が含まれます。すなわち奢摩他、三摩鉢提、禅那 (dhyāna) であり、三つの修行がすべて円満した後、初めて身心世界がすべて転変し、仏の清浄 (viśuddha/pariśuddha) 円満の境界に転変し、ここに至って仏道が成就します。具体的な修行方法はすべて円覚経の中にあります。
十七、開悟した直後の総相智の智慧の層次
弟子が問う:開悟して如来蔵 (tathāgatagarbha) を証得した直後に総相智が生じましたが、この総相智で如来蔵 (tathāgatagarbha) を観察する場合、どの程度の範囲内で観察できるのでしょうか?
答:この範囲は開悟した直後にはそれほど大きくなく、観察は普遍的ではなく、範囲は五蘊の単純な働きの内の範囲であり、比較的粗略で、複雑な働きの中では如来蔵 (tathāgatagarbha) を観察することは困難です。その中では色蘊と行蘊が主であり、受想識蘊はわずかに観察できる程度で、多くも深くもありません。色蘊と行蘊は比較的明瞭で観察しやすく、受蘊の上では粗略には観察できますが、想蘊と識蘊の上では観察がやや困難で、いずれも粗略・大略の観察であり、細部に深入りすることができず、観察が十分に深細ではありません。
しかし、この観察は現量の観察、すなわち現前の観察であり、五蘊の働きのその当下において、見れば見、見なければ見ず、一瞬の思考の中に落ち入ることはできず、その間に言語文字や声が現れることはなく、思考・思惟・分析・琢磨の相状の中に落ち入ることもありません。一度思惟に落ち入れば、それは現量現前の観察ではありません。参究の中で、一度言語文字や声が現れたら、必ず禅定が不足しており、意識の情思意解の作用が上回り、意根の機能が弱まっており、現量の智慧ではありません。それゆえ、現量とは必ず意根が現場に臨んで観察し、発見し、見証するものであり、意識の那种脳内思考や脳内補完ではありません。古の禅師が弟子を試す時、弟子が少しでも遅疑して、言語で描述しようとした瞬間、禅師は往々にして一棒を打ち下ろし、思惟意解の中に落ち入ることを許しませんでした。
意識の思惟は行相が明瞭で、特に意識が単独で思惟する場合は現量ではなく、意根と一緒に同時に観察したものこそが現量であり、意識は補助の役割を果たすのであって、主導の役割ではなく、占める分量・比重が少なければ少ないほど、智慧は深く、現量であればあるほど、否定を許さず、反悔もできず、優柔不断でもなく、非常に堅定で果決であり、疑慮がありません。このように、この種の現量観察は非常に容易ではなく、功夫と智慧の両方が非常に高いことが要求されます。
唐宋時代、六祖以降、開悟した人は千余人と伝えられ、禅宗の公案は千七百則が残っていますが、その中にはすべて純正な証悟があるわけではなく、解悟のものもあり、具体的な数量は調査・統計できません。それらの開悟の偈のわずか数語の中から、また簡略な対話や描述・暗示の中からは、細部がないため、証悟なのか解悟なのかをその中から見分けることはできません。たとえ彼ら全員が禅定を持っていたとしても、禅定を持つ者は必ず証悟であるとは言えず、もちろん禅定のない者はなおさら証悟できません。禅定の中で、ちょうど意根が深く参究している時に悟ったもので、立時に見て、意識の思惟の中に落ち入らないものだけが証悟とされ、意識に偏ったものはすべて解悟であり、あるいは解悟にも数えられません。もちろん、もし真に解悟したのであれば、修定を通じて意根の参究の功夫を強化することにより、証悟に転じることができます。
このような参究の功夫を得るには、禅定が不可欠です。禅定を得るには、色身の気が集まらなければならず、気が集まれば身が定まり、身が定まれば心が定まります。気を集めるには、第一に色身が健康で、気脈の運行が通暢し、一つの強勁な勢力を形成でき、心思を凝集させることが必要です。第二に、散乱な雑思がなく、幻想せず神遊せず、すなわち諸法に攀縁せず、世間の雑事を放下できることです。色身の気が不足していれば、気を集めることができず、気を足すには、気を練ることができ、気を補うことができ、食補・薬補でもかまいません。気が生じた後は、必ず気の動きに随順し、身心を共に静めさせなければならず、気の勢いが一旦形成されれば、禅定が現れます。それゆえ、修行はやはり早いうちにすべきで、身体が健康で気力が十分な時にすべきであり、年老いて色衰し、何も役に立たなくなってから、修行すべきだったと気づいても、この時はおそらく遅く、功夫は立ち上がらなくなります。修行は身体を修めるのではないと言っても、身体の配合を離れて、どうやって修行できるのでしょうか?
ある七十五歳の老居士が私と通話した時、声は鐘のように洪亮で、中気が非常に足りていました。私は一听して、この気の勢いは私をも超え、多くの二三十歳の若者をも超えており、この声からすれば、あと二十年生きても問題ないと思いました。私は禅定はどうかと尋ねると、彼は禅定は非常に良く、意根で参究する段階に達しており、雑念がなく、気感が非常に強いと言いました。私は智慧の境界はどうかと尋ねると、彼は私に、開悟した直後の総相智は、如来蔵 (tathāgatagarbha) の働きを観察する場合、どの程度の範囲内かと尋ねました。私は一听して分かりました。この数年、彼の功夫と智慧はともに大きく進歩しており、心量・格局も大きく、善根が深厚で、大器を成す人です。
十八、真の智慧を得てこそ直ちに仏道を成せる
仏法をゆっくりと味わう、あるいは深く参究するとでも言うべきもので、参究は一言で入定でき、これを以慧引定と言います。定の中で、参究の智慧はまた絶えず深入りし、法義はますます通透し、これはまた以定引慧と言います。定慧が互いに引き合い、互いに増し合う、これが真の修行であり、最も深入的な修行であり、最も根本的な修行であり、最も究竟的な修行でもあり、得るのは真の智慧であり、自分で修め出した智慧です。ただ、このような参究は、表面上は比較的遅く見え、得られる知識量が比較的少ないように見えますが、実は修行の中で最も速く、最も直接的な直道です。なぜなら、修行は智慧を得ることを究竟とし、智慧で成仏するからです。
逆に、修行を分かっていない人は比較的浅薄で、表面的な知識量だけを追求し、知っていることが多いこと、分かっていることが多いこと、学んだことが多いことに満足し、真の智慧の重要性を分かっておらず、ひいては真の智慧を求めようとしません。数量と速度を追求し、学んだもの・得たものはいずれも自分が開き出した真の智慧ではなく、実は修行の素人であり、用功精進しているように見えて、実は速度はかえって最も遅く、真の智慧がないからです。多知多解多得を智慧と見なすことは、実は初学の仏教徒の愚痴です。
十九、意識と意根の見るところが異なる
問:昨夜、坐禅を終えて寝ようとしたところ、まもなく雨が降り、雨がガラスに当たって清脆な音を立てていました。聞きながら眠り、眠りに落ちかかった時、その雨がまるで私の頭蓋骨に打ち付けているように感じられ、まもなく半分が打ち壊され、真っ暗で、半分の頭蓋骨だけが残りました。心の中では分かっていてあまり驚かず、そのまま眠ってしまいました。これは坐禅を終えたばかりで定力がまだ消散していないからでしょうか、それとも幻覚が現れたのでしょうか?
坐禅から下座する時は心が静かで、意識は動念せず、特に就寝前は意識も動かず、意根が直接に雨音を感知し、声が非常に大きく感じられ、誇張して、半分の頭蓋骨を打ち壊すことで、その雨粒の音が非常に非常に大きいことを表したのです。意根が感知したものと意識が感知したものには差異があり、その差異は非常に大きいかもしれません。それゆえ、私たちが普段見ている法は、実相を証得した時に見る同じ法とは完全に異なり、さらには正反対であり、初めて、従前の見解・看法がすべて間違っていたことを知り、腿を叩くほど悔やまれるのです。
なぜ観行 (vipaśyanā-caryā) を修めた後、同じく呼吸を見、身行を見、六塵相を見るのに、見道の前と見道の後では、同じ一つの法の見え方がこれほど大きく異なるのでしょうか? 同じく水を飲み、沐浴し、色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗め、触を覚り、法を知るのに、見道の前と見道の時では、内心の覚受・看法が完全に正反対になるのでしょうか?
見道の前はあれほど確信して、色は色、声は声、香は香、味は味、触は触、法は法、我是我でした。見道の後は、一切皆非であり、色は色に非ず、声は声に非ず、香は香に非ず、味は味に非ず、触は触に非ず、法は法に非ず、我は我に非ず、人は人に非ず。なぜこれほど大きな差異があるのでしょうか? 意識の見るところと、意根が三昧 (samādhi) の中で見るところは完全に異なるので、意識で証果するというのは一つの笑い話であり、このような証と不証には少しの区別もなく、痴人の見です。衆生は愚痴であればあるほど、往々にして自信に満ちています。何に自信を持つのか? 愚痴に自信を持つのです。
見道の前は、意識は妄想紛々で、種々の知見、長編大論を述べ、得意の極みでした。見道の後は、意識はついに鎮まり、すべてが逆さまにされなければなりません。誰が最も話し好きか、誰の知見が最も多いか、誰が最も強情か、その人が最も顛倒しているのです。