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日常法話集録

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 456

第九章 意根訓練篇

一、観行、観想、観察と想像の区別

観とは、一般的に客観的な観察を指し、現前にあるものをそのまま観ることをいい、現観や直観とも呼ばれます。一方、想像とは現前にはないものを妄想し、現前の境や事実から離れた空想であり、現観や直観とは反対に、意識の思惟活動であり、修証における大忌です。

先日、日常生活における意根の訓練について述べた際にも触れましたが、香の先端を凝視するのは意識の働きであり、それは意根を香の先端へと観察させる牽引のためです。意識はあれこれと妄想せず、何かを想像したり、心の中に映像を描いたりせず、意根の観察を妨げてはいけません。香の先端一つに、何を想像する必要があるでしょうか? ましてや映像など浮かべる必要がどこにあるでしょうか? 意識の妄念が止まらなければ、意根も静まらず、心が定まらなければ観ることはできません。禅定がある状態を観と言い、禅定がなければそれは意識の雑念に過ぎません。意根を訓練すると同時に、意識も訓練し、まず意識を妄念・妄想のない状態に訓練します。雑念がなくなれば、意根はほぼ訓練されたと言え、その時初めて観について語ることができます。意識心念を動かさない観、すなわち参(深い考察)へと入り、その後三昧に入り、観行と参究が成就するのです。

四念処観において、観身不浄(身体の不浄を観る)には、観呼吸や白骨観が含まれます。呼吸は現前に存在する法であり、観とは観察・観行を指します。白骨は現前に見える場合もあれば見えない場合もありますが、白骨は誰もが見たことがあり、それが何であるかを知っています。想像する必要はなく、観呼吸や白骨観も観察・観行と呼べ、観想とも呼べます。

観受是苦(感受は苦であると観る)において、受とは自らが実際に感じるものであり、現前に存在するか自ら経験したものです。想像は不要であり、観受における観は観察・観行・観想と呼ばれます。

観心無常(心は無常であると観る)において、心とは自ら現前に存在し活動している妄心であり、自ら感じ取れるものです。想像は不要であり、観心における観は観察・観行・観想と呼ばれます。

観法無我(諸法は無我であると観る)において、法とは私たちが修める四聖諦の理、三十七道品、五蓋、五蘊十八界などであり、これらは現前に存在する法です。想像は不要であり、観法とは観察・観行・観想です。

しかしながら、智慧が不足していると、現前に存在する法を正しく認識できず、意識の思惟や想像に頼ることになります。そうなると現量(直接知覚)による観行は不可能となります。呼吸のような単純な現象でさえ、多くの人は現量で観ることができず、意識の思惟や想像に頼ってしまいます。意識が動き出すと意根を覆い隠し、現量の観や思が働かなくなり、得られる結果は虚偽となります。

観像念仏(仏像を観て念仏する)では、目の前に一尊の仏像を置くか、あるいは仏像を描きます。意識は仏像を見つめ、意根は直接に観ます。禅定が不足している時は、意識が意根の観を補助し、多少の思惟分析が入ります。禅定が十分になると、意識の分析を取り除き、意根が単独で現量を観ます。三昧が現れると、意根の観行による現量境が現前し、証量が出現し、観像念仏は成就します。この時は、意識が仏像を思おうが思うまいが、仏像は現れ、意識に左右されません。身心ともに三昧の中にあります。意識が制御・指揮できないものは、すべて意根の現量境であり、真実で信頼できます。

『観無量寿経』の十六観には参照物がなく、観るのが非常に困難です。これは自らの願力と阿弥陀仏などの諸仏菩薩の加被力に頼る必要があります。第一観の日観には落ち日という参照物がありますが、後の十五観には一切の参照物がなく、意識による思惟や想像も使えません。極楽世界の一草一木でさえ想像できず、ましてや多くの景観や宝物は聞いたこともなく、地球上には全く存在しないのですから、どうやって観ればよいのでしょうか? しかし、第一観の日観さえ成就し、心が三昧の中にあれば、意根の思(深い思惟)が開かれ、それに諸仏菩薩の加被が伴って、第二観、第三観の成就が望めるようになります。第三観が成就すると、いかなる状態にあっても三昧は永遠に消えず、臨終の時まで保たれ、その三昧の中で極楽世界へ往生します。そして三昧の境界を永久に保つのは、諸仏菩薩の加被の結果であり、そうでなければ保つことはできません。したがって、第一観が成就しないうちに直接に後の幾つかの観を修めようとしても、それは並大抵の困難ではなく、どうやって修めるか想像すらできません。

二、意根に思考と問題解決を訓練する方法

私たちが問題に遭遇した時、焦ってすぐに意識で思惟分析し結論を下してはいけません。もし事柄が特に緊急でなければ、心を静め、雑念をできる限り排除し、心をただ現在のこの事柄に集中させます。意識による分析、推理、判断、ましてや意識による結論を下してはいけません。他の念頭を空(くう)にし、この問題に集中します。心の中に言語や文字があってはいけません。心の声(独白)があってはいけません。静かにこの問題に集中しますが、心は空ではなく、この問題を考えていないわけではなく、意根が心の中で静かにこの問題を懸け、密かに思量している状態です。

意識は思惟分析していませんが、意根はこの問題に向き合い、言語や文字、音声なしに思考し、思量しています。経験がない時、心が細やかでない時は、意根に心理活動があると感じられませんが、実際には非常に多くの心理活動があり、ただ意識の活動に覆い隠されているだけです。ある人は意根のエネルギーが非常に微弱で、思考力も微弱です。なぜなら雑念が多すぎて、細々と散らばり、エネルギーが分散してしまい、心力が不足し、一つの問題に集中して思考することも、問題を完璧に合理的に深く解決することもできません。

衆生の智慧が劣弱である重要な原因の一つは、雑念が多く、心の中が乱雑で、一本の明確な主軸がなく、重点がないことです。それはあたかも戦闘チームのメンバーがそれぞれ勝手なことをし、チームの力が分散し、一つの巨大な力に集まって勇敢に敵対勢力に立ち向かい成功することができず、結果としてどの敵対勢力に対しても敗北してしまうようなものです。もう一つの重要な原因は福が薄く、福徳が深刻に不足し、福徳の支えがないことです。これはひとまず置いておきましょう。

では、智慧、特に意根の智慧を高めるためには、雑念を排除し、心念を集中させ、ごく少数の重要な、鍵となる問題に注意を向ける能力が必要です。これを行うには、意識を抑え、意識をあまり使わず、意識の言語・文字・音声をできるだけ動かさず、いつも心の中に声(独白)があってはいけません。時々心の中に意識的な独白があっても構いませんが、それに加えて、意根による集中した思慮があるべきです。意識が独白しながら、意根も思慮し、両者が注目する事柄は同じであるべきです。この時、意根のエネルギーは大きくなり、力が集中し、心の内なる暗闇と無知を突破し、問題の根源を見つけ、根本的に問題を解決します。

意根が思慮を明らかにすれば、根本的に問題を解決できます。一方、意識が考え抜いた問題は、解決したとしても徹底せず、確実でなく、安心できず、しかも問題を解決しにくいものです。なぜなら、意根は主導する識(作主識)であり、自ら考え抜いた問題は、解決した後に後悔せず、意識の分析に従うと、後悔しやすく、心や考えを変えやすいからです。移り気な人は、意識による思惟に慣れ、意根を使わない人であり、比較的浅はかな人です。自分の考えがない人、他人に依存するのが好きな人は、意根で問題を考える習慣がなく、意識を使う習慣がある人です。自分の意識が当てにならないため、仕方なく他人に依存するのです。

意根で問題を考え解決することは、確実で信頼でき、徹底的で究極的であり、根源に直截に迫れますが、往々にして比較的遅くなります。なぜなら、思考が深ければ深いほど遅くなり、思考が浅ければ浅いほど速くなるからです。井戸を掘るのと同じで、深く掘れば手間がかかり、掘るのは遅くなります。浅く掘れば手間がかからず、掘るのは速くなります。しかし、遅く掘れば水が出ますが、速く掘っても水は出ません。ですから遅いことは速いことであり、速いことは遅いことなのです。効果が異なるため、速度を求めてはならず、質を最優先とすべきです。私たちが問題を考え、解決するのも同じで、深く考え選択するには多少の時間が必要ですが、丁寧な仕事は良い結果を生み、結果は完璧です。深く考える習慣がある人、意根を使う習慣がある人は、一般的に思惟が比較的遅く、物事を行うのも比較的遅いですが、相対的に効果が良く、間違いを犯しにくく、後悔しにくいものです。

物事を行い問題を解決する効果を良くしたいなら、速さを求めず、熟慮し、意根による思考と選択を多く用い、意根の思考力を多く訓練し、言語・文字・音声のない集中力と観察力を多く練習すべきです。訓練を長く続け、意根の使用に熟達すると、意根で思考することは非常に味わい深く面白く、非常に魅力的であり、考えれば考えるほど止めたくなくなり、孤独を好み、邪魔されたくなくなり、智慧はますます深まり、問題解決はますます自由自在になります。一人の人間の意根がよく訓練され、使い慣れると、その人は非常に深沈として見え、内包と特質に富み、思想が深遠で、見解が独特で、能力が高く、肝心なのは落ち着いて信頼でき、常に心変わりしないものです。

三、道と術の関係

意根の訓練は術の範疇に属します。もし道の高さが達していなければ、術だけではどうあっても見道(真理を悟る)ことはできず、術を世俗の法に応用して生活を立てることしかできません。一方、道がある程度の高さに達していれば、術は訓練する必要がなく、自然に具わります。なぜなら、道は根本であり、術は枝葉末節です。道は心であり、術は心によって成り、心の一つの状態です。心が成就すれば、術は自然に成就し、影が形に従うように付いてきます。もしある法を深く渇望し、心をその一点に集中し、他の考えがなければ、その法は必ず骨の髄まで深く入り込み、意根の心に刻まれます。たとえ星移り気が変わろうとも、朝夕揺るぎなく、術は求めずとも自ずと現れます。

意根の精力と注意力が高度に集中し、しかも単独で物事の道理を考量・衡量できる時は、誰もが身をもって経験しています。ただその点に気づいていないだけです。例えば、意根が特に好きで、特に興味を持ち、特に気にかけ、特に驚き、特に恐怖し、特に驚喜し、非常に感動し、非常に怒り、憤慨する時は、すべて意根が一心になっている時です。意識は参加できず、意根は意識に何かをさせる必要がなく、一心に現在の状況に没入し、深く感知し、深く体験し、思量しています。この時は意識心念を動かさず、意根が単独で受け取った情報や接触した塵境(感覚対象)を消化しており、往々にして呆然自失し、ぼんやりし、驚き呆れます。この時、意識は思惟せず、あたかも愚者のようであり、意根自らが速やかに深く思量します。意根は以前には発見できなかった事実と真相を発見し、発見した後、意識は「なるほど」と感じ、問題の真相も知るのです。日常生活で遭遇するこのような事柄をまとめ、抽出し、自らの修証を導く方式方法を形成すれば、修行はさらに深い段階へと入ります。

抽出・要約された経験には、道と術が含まれています。道とは心、すなわち心の状態であり、仏教の修行から見れば菩提心であり、仏法に対する態度であり、善根福徳です。術とは功夫(修行の技量)と技巧であり、道の後に培養訓練を通じて具わり、その後は成果が出るのを待つだけです。

道に関して菩提心を発することについては、私は非常に少なくしか話していないため、弟子の大部分は菩提心を発することへの認識が不足しており、術に力を入れることが多く、進歩は速くありません。菩提心を発することは基礎的な修学内容に属し、私と共に修学する弟子はすでに具わっているはずで、私が特に教える必要はありません。私の精力は初級の衆生の要求を顧みることを許さず、衆生の修学に必要な全ての内容を引き受ける余裕はありません。

四、四念処経における意根の訓練方法(意根訓練篇)

世尊が説かれた四念処経の観行方法は、まさに意根を訓練する方法です。まず観呼吸から見ると、世尊は弟子たちに如実に観るよう教えられました。現前の呼吸がどのような状態であれば、その状態を観るのであり、意識の思惟や想像を加えてはいけません。意識はただ意根を呼吸という事柄に牽引する役割を担い、それ以外は関与せず、念を動かさず、余計なことをしてはいけません。意識はどのようにして意根を呼吸に牽引するのでしょうか? 意識はただ注意力を呼吸に固定し、呼吸を見つめればよいのです。言語・文字や独白を使ってはいけません。この時、意根は意識を指揮できず、他の法(対象)に攀縁(執着)できなくなり、意識の焦点に沿って呼吸を観るしかありません。

観呼吸の中で、意識は呼吸の出入りや長短などの状態を知りながら、一切の加工をせず、意根も次第に諸縁を排し、意識と共に専心して呼吸を観察し、一瞬一瞬の呼吸の状態を知ります。次第に習慣となり、自動化されたかのようになり、行住坐臥(歩く・止まる・座る・臥す)においても呼吸を観るようになります。習慣を身につけることは非常に重要です。習慣が一度身につけば、それは主導権を握り、長い年月を経て因縁が成熟すると、呼吸の真相、色身の空(くう)や無我の真相を発見します。他の法を観るのも同様に観ます。意根という野馬を繋ぎ止め、その念を今ここに置かせます。心が髪の毛のように細やかになると真相を発見します。もし意根を繋ぎ止めなければ、意根は心猿意馬(心が猿や馬のように落ち着かない)で注意力が散漫し、智慧が生じず、真相を発見できず、生死の流れに従って流転を続けるのです。

四念処経は非常に優れた経典であり、その修行方法は大乗・小乗に通じます。その用功方法とは、ひたすら観ること、如実に観ること、他のことを考えず、加工せず、意識が意根を牽引し、意根が意識の妄想を抑制し、共同で協力して五蘊無我を証得することです。この行門(修行の門)は一切の法の観行と修証に通じ、後世の修行にも通じます。後世で再び仏法に出会っても、自動的にこのように観行し、修証は容易になります。四念処経で教えられた観行方法、すなわち意根を訓練する方法は、意根を導き牽制し、観行の習慣を身につけさせます。その後は自然に水が渠(水路)に至るように成就し、あたかも無功用行(努力せず自然に行う修行)となり、任運自然(自然のままに働く)となり、必ず智慧を開くことができます。

五、楞厳経における意根の訓練方法 鼻端白を観ずる(意根訓練篇)

楞厳経原文:孫陀羅難陀即ち座より起ちて。仏足を頂礼し、白(もう)して言う。我、初めて出家し、仏に従い道に入る。戒律を具えながらも。三摩地に於いて。心常に散動す。未だ無漏を獲ず。世尊、我及び拘絺羅に教えて。鼻端白を観ぜしむ。我、初めて諦観す。三七日を経て。鼻中の気を見る。出入り煙の如し。身心内明なり。世界を円洞し。遍く虚浄と成る。琉璃の如し。煙相漸く銷(き)え。鼻息白と成る。心開け漏尽す。諸の出入る息。化して光明と為り。十方界を照らす。阿羅漢を得。世尊、我に記別して。当に菩提を得べしと。仏、円通を問う。我は銷息を以てす。息久しくして明を発し。明円くして漏を滅す。斯れ第一と為す。

釈:孫陀羅難陀(スンドラーナンダ)が最初に出家した時、心が散乱していたため、三昧を修めることができず、無漏の道果を証得できませんでした。世尊は彼と拘絺羅(クティーラ)の二人に、自らの鼻先の気が白くなるのを観るよう教えられました。孫陀羅難陀はわずか二十一日観ただけで、自らの鼻の中に入る気と出る気が煙のように見え、身心世界も清く明るくなり、世界がすべて空虚で清浄となり、まるで琉璃のように明るく澄んでいることを円満に洞察できるようになりました。そこで鼻の出入りする気の煙のような相が次第になくなり、白くなりました。この三昧の中で智慧が開け、煩悩が断尽し、鼻先から出入りするすべての気が光明に変わり、十方世界を照らし、阿羅漢果を証得しました。世尊は彼に将来無上菩提を証得するであろうと授記されました。彼の円通法門は鼻先の出入りする気を消し去り、時間が経つにつれて智慧が生じ、円満に至って煩悩を滅尽することです。

孫陀羅難陀が得た三昧の成就は意根の観の成果であり、修証によって得られた成果です。意識の思惟分析によって得られた成果ではありません。意識のいかなる作用も事物の真相や本質を見ることはできず、したがって成果を出すことはできません。成果は意根の修証によってもたらされます。なぜなら意根は事物の真相、大千世界の真相、五蘊の空相を見ることができるからです。これらの真相は意識の想(想像)では考え出すことはできません。なぜなら意識が触れる法は、意根が触れる法と一層隔たりがあり、一層虚偽だからです。意根は如来蔵と緊密につながっており、触れる法は帯質境(本質を帯びた対象)であり、直接に本質境から来ており、その間に移行する法はもうありません。一方、意識が触れる法は、意根が触れた後に再び変現されたものであり、意識が真相を見ようとするのは非常に非常に難しく、意根に頼るしかありません。

この法門は私が修めたことはなく、具体的な修行過程と殊勝な結果については詳しく述べられませんが、大まかな修行の着手点は客観的な観であり、意識による気への思惟分析作用を加えず、意根の直感で直接に鼻先の気を感知し、次第に専一となり、定慧等持(禅定と智慧が等しく保たれる)して三摩地に入ることです。いかなる観行法門においても、意識の思惟などの機能が一度働き出すと、観の状態ではなくなり、当境(現在の対象)から離れ、不如実となり、結果は信頼できず、三昧の境界は現れません。意識を多く使えば使うほど、意根の観に対する遮障が大きくなり、道から遠ざかります。

したがって、意根の観を訓練するには、直観の方法を用い、意識の思惟を消し去り、意識に牽引の役割だけをさせ、残りはすべて意根に委ねます。意根の観は客観的で実際的な観であり、現実から離れた非量(誤った認識)の想像がなく、境界の変化を主導し、境が心に従って転じ、心が境に転じることがなく、それによって身心世界を変えることができます。着手点は簡単に見えますが、実際には功夫(修行の技量)が難しいものです。その原因を究めると、心に掛かり妨げとなる人や事柄が多すぎ、心が絡み合って静かで専一な観行の状態に入れず、定も慧も現れず、当然修証の果について語ることはできません。

六、貪淫を滅除する観行の妙法

楞厳経第五巻原文:(烏刍瑟摩)我、常に先ず憶う。久遠劫の前。性、多く貪欲なりき。仏出で世に現じ、名を空王と曰う。多く淫する人は、猛火聚(もうかじゅ)と成ると説く。我に教えて遍く観ぜしむ。百骸四肢の諸の冷暖の気を。神光、内に凝り。多く淫する心を化して、智慧火と成す。是より諸仏、皆な我を呼びて、名づけて火頭と為す。我、火光を以ての故に。三昧の力に成る。阿羅漢を成ず。心に大願を発す。諸仏、道を成ずるに、我は力士と為り、親しく魔怨を伏す。仏、円通を問う。我は諦観を以てす。身心の暖触、無礙に流通し。諸漏既に銷(き)え。大宝焰を生じ。無上覚に登る。斯れ第一と為す。

釈:烏刍瑟摩(ウッチュシーマ)は、自分が久遠劫の昔、貪欲の心が強かったことを思い出しました。空王仏は彼に言われました。心性が多淫の人は、淫欲が多いため、毎日あたかも猛火が集まる部落の中にいるようであり、自らの身心を燃やし、絶えず身心の焦がれるような苦しみを感じ、安らぎを得られない、と。この焦がれる苦しみから逃れるため、仏は烏刍瑟摩に貪淫を対治する妙法を教えられました。それは毎日、全身の百骸四肢(百あまりの骨と四肢)の中の冷気と暖気を、頭から足まで、足から頭まで、すべて観行するというものでした。

これは火大(四大の一つ、熱エネルギー)から着手する観行です。火大が色身に現れるのは体温であり、冷たさや熱さで、全身の上下内外、すなわち百あまりの骨と四肢の中に遍く存在します。仏は烏刍瑟摩に全身の冷たさと暖かさをすべて観行するよう教えられました。烏刍瑟摩は観行をしばらく続けた後、身心に巨大な変化が現れました:神光内凝(精神の光が内に凝集し)、化多淫心(多淫の心を転化し)、成智慧火(智慧の火となる)。神光とは何でしょうか? それは精神、精力、注意力、心力であり、主に意根の精神的な力を指します。六識の注意力が外に散らなくなるだけでなく、最も重要なのは意根の精力が外に漏れ出て淫欲を発散しなくなり、身体の内に凝集され、身体の中の冷気と暖気を観ることに使われることです。本来なら発散されるはずだったこの精力とエネルギーは内に向かって転化され、観察力と智慧力に変わり、智慧の光を生み出し、心の火は慧光となりました。

仏教の方法は、強引に淫心を抑えて起こさせないのではなく、巧みに転化し、移行させることです。同じ一筋の精力と情熱を別の場所に移し、智慧を開発するため、解脱のために使うのです。これはどれほど巧妙でしょうか? 抑圧は苦しみや葛藤を引き起こし、賭博や麻薬をやめるように耐え難いものです。一方、転化は火を元に帰らせ、別の場所で使うことです。十分に活用した後、火光三昧が生じ、身心ともに活気に満ちあふれ、煩悩が漏尽し、清涼寂滅となり、心は大自在を得て、阿羅漢となります。烏刍瑟摩が修めた円通法門は:一心に身体の百骸四肢のすべての冷暖の触(感覚)を観行し、身体中の火大が妨げなく全身に流通運行し、もはや淫欲によって妨げられず、淫欲の中に停滞することがなくなり、ここから一切の煩悩が滅除され、三界世間を解脱する大智慧が生じ、無上覚の道に登ったことです。

地水火風空の四大から着手して観察するのも同様に観ます。すべて身(身体)と触根塵処(触覚の対象)を観るのです。貪淫は火大に帰属し、広範な貪欲は水大に帰属します。身体の内なる水界と身体の外なる水界が等しく差別なく、すべて空に帰することを観て、貪欲を滅除し、煩悩を漏尽することができます。瞋恚(いかり)も火大に帰属し、同様に心の火が空に帰することを観て、瞋恚を滅除し、解脱を得ることができます。五蘊の中のいかなる法も観行の所縁(対象)とすることができ、すべて道に入り、煩悩の漏を滅除し、涅槃を得て解脱することができます。

七、どのように観行すれば見道できるか?

楞厳経第五巻原文:(周利槃特迦)仏、我が愚を愍(あわ)れみて。我に教えて安居し。出入の息を調う。我、時に息を観る。微細にして窮尽し。生住異滅。諸行刹那なり。其の心豁然として。大いなる無礙を得。乃至漏尽す。阿羅漢を成ず。仏の座下に住し。印して無学と成す。仏、円通を問う。我が証する所の如く。息に返り空に循(したが)う。斯れ第一と為す。

釈:仏は周利槃特迦(チューラパンタカ)に一箇所に安居(一定期間定住して修行)し、出息と入息を調えるよう教えられました。調えることと同時に出入息を観察することです。周利槃特迦が出入息を観ている時、最後には自分の出入息が非常に微細で、微細なあまり途絶えそうになっていることを観察しました。さらに出入息の生(発生)、住(暫留)、異(変化)、滅(消滅)という微細な過程も観察し、出息と入息が刹那刹那に運行していることさえも察知できました。つまり入息と出息は一刹那一刹那の過程であり、連続した完全な過程ではなく、分割可能な機械的な過程とプログラムであり、組み合わさり寄せ集められたものでした。

この時点で、豁然として出入息が空であり虚妄であり、真実でないことを発見しました。そこで周利槃特迦の心は豁然と開け、頓悟して自身の五蘊が空であり無我であることを悟り、もはやこれらの生滅法に妨げられることはなく、ただちに煩悩が断尽し、四果の大阿羅漢を証得しました。周利槃特迦の観行の体得は、出入息の来る所と去る所を反観し、ついに来る所が空、去る所も空であることを発見し、出入息の生住異滅の全過程が空であり、了不可得(全く捉えどころがない)であることでした。

観出入息は観呼吸の過程の後半部分です。観呼吸の最初の部分は鼻孔から出入りする気を観ることであり、この部分は比較的粗く、観やすいものです。気が身体の中に入った後、次第に脈絡とつながった息(微細な生命エネルギー)に変わり、この部分は比較的微細になり、非常に微細な息は鼻孔の呼吸気とは関連しなくなる可能性さえあります。それは身体自体が自動的に運行する息脈であり、たとえ呼吸が止まっても、外からの気が鼻孔から身体に入らなくても、この息脈は依然としてゆっくりと微かに運行します。これが四禅で呼吸が止まる境界であり、人は死にません。では息はどのように発生するのでしょうか? 人の身体には毛孔があり、外の気は毛孔を通って身体の中に入り、再び息に変わり、身体の血液の流れを促し、生命活動の基本的な要求を維持します。

もし四禅定の中にいなければ、これほど微少な気では血液を速く流れさせることはできず、身体が必要とする血液の養分の供給は不十分となり、息苦しく耐えられないと感じます。四禅定は捨念清浄定であり、心念がないため、それほど多くの気血を消耗せず、毛孔呼吸が提供する養分で十分に足ります。

息の本拠地は丹田にあり、丹田から全身に向かって運行します。観出入息は主にこの丹田部分の息を観ます。丹田が一つ上がり一つ下がるのが一息です。精力が十分で心がさらに細やかになると、息が全身に運行するのに従って全身の息を観るようになります。息には粗いもの細かいもの、急なもの緩やかなものがあります。観る時はただ淡々と、客観的に息の運行状況を感じるだけで、いかなる心や考えも加えません。禅定が深まり、心が非常に細やかになると、息の運行が非常に微弱で緩やかであり、一区切り一区切りで運行し、前後のつながりがそれほど密接ではなく、あたかも寄せ集められたようで、あまり真実とは感じられなくなります。

これはちょうど火の輪を観るようなものです。普段は火の輪は火の輪であり、一本の松明が速く揺れ動いてできたものであり、火の輪など全くないことは分かりません。これは錯覚であり、見誤った感覚です。心が細やかになった後、注意深く観察すると、火の輪などどこにもなく、松明が固定された円形の軌道に沿って一点一点移動しているだけだと分かります。そこで豁然と開け、心は大悟し、火の輪は全くなく、松明も空であり、心は瞬時に空となり、解脱します。これ以降、火の輪に縛られることはなく、毎日火の輪の周りをぐるぐる回って落ち着かなくなることはありません。

観出入息、およびすべての法を観るのもこの原理であり、観究めると、ついにはその事、その物、その人、その法は全く存在せず、すべて空であることを発見します。そうすれば見道します。ただ如実に法の生住異滅を観察しさえすれば、一気に見道できます。観行の指す方向を理解し、正しい観行方法を掌握し、功夫(修行の技量)が所定の位置に修まれば、見道は難しいことではありません。難しいのは心が修道にないことであり、世俗の法を依然として重視し執着し、手放そうとせず、思想観念が決定的な作用を果たすことです。

衆生は愚痴ゆえに、心が非常に粗雑で、禅定力がなく、何を見ても錯覚であり、世間の一切法を一切法そのもの、真実そのものと見なし、少しも疑いません。だからこそ、必死に絶えず一切法を掴み取ろうとし、頭を割られ血を流し、傷だらけになり、命さえも捧げながら、なおも頑強に戦い、美名を「努力奮闘」「大志を抱く」「積極進取」「事業心がある」「理想・責任・担当がある」と言い、根本的に人も事もない空の法のために一切の代償を払うのです。本当に愚かとしか言いようがありません。

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