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日常法話集録

作者: 更新時間:2025-07-13 23:32:25

第十一章 弟子たちの観行体験(2)


六、意識の知には多くの段階がある

君若蘭の観行:観行において意識が末那識に作用する過程の共有。

目を閉じ、静かにする。意識は見聞覚知が自分ではないと理解している。これは容易に理解できる。そこで意識は一言を投げかける:「見聞覚知は自分なのか?」この意識が理解している言葉がゆっくりと落ちていく。無限に大きく堅固なエネルギー体の上に落ちる。そのエネルギー体は無始劫以来、見聞覚知を自分であると考えてきたことに気づく。その執着はあまりにも堅固で、まるで一つ一つの細胞に染み込んでいるようだ。

ゆっくりと落ちていくその言葉が、そのエネルギー体の心をわずかに揺るがせたが、それでもその執着から離れることはできない。「見聞覚知は自分なのか?」意識はそう問い続ける。すると心に恐怖や疑問、諦めきれない気持ちが湧き、背中が微かに震え始め、涙が出そうになる。これほどの大きな情緒的感覚が現れた時、当初はこれが完全に末那識の現れだと思った。しかしさらに深く観行を続けると、この感覚には末那識の触発もあるが、より多くは意識の感覚であることに気づいた。

なぜなら、再び心を静めてその巨大なエネルギー体を感じ取ると、やはり見聞覚知を自分だと執着していることに気づくからだ。この執着は言語や文字で表現されるものではなく、一種の感覚として現れている。この時、私たちはしばしば末那識を大きく触発したと思い込み、強い感受体験があっても、実際にはより多くが意識の感受であることを理解した。末那識の無始劫以来の執着は骨の髄まで刻み込まれ、細胞に染みついている。一度の観行で容易に大きな変化が起こるはずがない。

この発見は上記の観察の通り、大きな感覚が現れた後、再び心を静めてその巨大なエネルギー体を観行すると、その執着が依然として存在し、しかも深く重いことに気づく。おそらくそれはわずかに触発されているが、そのわずかな触発は全体的な執着に比べれば、大きな変化をもたらすには不十分だ。

この文章を共有するのは、このような触発を伴う観行は一度きりではなく、無数に繰り返し行う必要があるということを伝えたいからだ。大きな感覚体験が現れたからといって、安易に末那識が完全に正しい認識を受け入れたと思ってはならない。私たちには愚公山を移すような精神が必要であり、過度に楽観的になったり自信過剰になったりせず、しかし止まることなく前進し続けなければならない。なぜなら、末那識の執着は私たちが深く観行するにつれて、少しずつ減少していくからだ。

講評:意識の智慧の認識には多くの段階がある。禅定が深まるにつれて、意識の智慧の認識は絶えず強化され、深まり、具体化し、細分化され、適切な位置に収まる。意識の真の智慧も悟りの後の智慧であり、それ以前は不徹底で、変化し修正される。禅定が深まるほど、意識はより智慧を持ち、末那識に対してより染め啓発する作用を持つ。意識の認識がより具体的で証拠と証量があればあるほど、末那識への染め啓発作用は大きくなる。したがって、意識の表面的な知はあまり効果がなく、靴の上から痒いところを掻くようなものだ。深く知って初めて末那識を触発できる。

末那識の智慧の認識にも多くの段階がある。禅定が深まり、意識の智慧が完成されるにつれて、末那識の智慧はますます深まる。一定の深さに達すると、断固として以前の認識を断ち切り、徹底的に知見を転換し、見地に変わる。これが悟りである。多くの人は意識の知が浅い段階で自分は悟ったと思い込むが、実際には悟りには程遠く、おそらく何劫も経てようやく悟りの縁に立つことができる。知っておくべきは、意識の深い智慧も容易には現れないということだ。

君若蘭のこの状況は、智慧をもって定を引く(慧引定)に属する。超強力な意識の智慧を用いて、心を今観行している法に定め、気を散らさず雑念を入れず、意識の法に対する認識を徐々に深く透徹させ、末那識の認識を引き起こし、さらに意識と末那識の認識を強化し、それによってさらなる智慧が生まれる。これを層層遞進(段階的に進展する)という。智慧が強い人は智慧をもって定を引くことができるが、智慧が弱い人は順を追って定を修め、その後観行して智慧を生むしかない。しかし智慧が弱いため、心を定めるのが容易ではなく、反復して引っ張り合う必要があり、ようやく一時的に定めることができる。したがって、智慧さえあればどうにでもなるが、前提として福徳が必要だ。福徳はあらゆる修行の基礎である。

七、観行は貪瞋痴の根源をも内観せよ

君若蘭の観行:ここ数日不公平な出来事に遭遇したため、観行を始めた。公平が得られず、瞋心が起こるのは法執(規則への執着)である。なぜ規則に執着するのか?それは自分の利益を損なわないようにするためであり、これは貪心を満たそうとすることだ。色受想行識はすべて空なのに、何を貪るというのか?

観行中、初めは意識の参与が多かったが、最後の一文に至ると意識の思惟が動かなくなった。ただ純粋な覚知だけが存在し、その時一つのイメージ「私」が見えた。身体が軽く漂う半虚像がそこにある。その後、その半虚像のイメージも存在しなくなり、ただ一種のふわふわとした感覚だけが終わりまで続いた。観行が終わった後、この出来事を再び考えてみると、心が非常に平静であることに気づいた。現実で感情を揺さぶる出来事があるたびに、時間を割いて観行する。観行すればするほど、自分の末那識の問題が実に多いこと、我執が深く重いことに気づく。

講評:君若蘭の観行は非常に的を射ており、智慧が優れていることを示している。慧が強い。禅定が慧と同じくらい強いかはわからないが、やや弱いように感じる。しかしこの速度でいけば、禅定はすぐにさらに強化され、三昧が現れた時、修行は大きな転機を迎える。よく把握して見道(初地)を期せ。

誰の貪瞋痴にも源起、つまり根源がある。この根源とは何か?それは「私」である。我見があるため、自我を守り、自我を満たすために、自動的に貪瞋痴が生じる。したがって貪瞋痴の現象は、客観的に心中の我見と我執を反映している。初果や二果の人はすでに我見を断じているが、まだ完全には断じきれていない。そのため貪瞋痴の煩悩は降伏しているが、根絶はされておらず、初禅定の後、三果に至って初めて貪瞋の煩悩が根絶される。しかし痴の煩悩はまだ根絶されていない。この痴とは三界内の法に対する痴を指し、大乗の法に対する痴を指すのではない。

貪瞋痴の煩悩を降伏させ根絶するには、有効な観行の後、特に三昧が生じた後でなければならず、その効果は非常に顕著である。意識で無理に煩悩を抑え込む必要はなく、煩悩は自然に起こらない。観行の過程で、末那識が五蘊身心の虚偽不実を一旦理解すると、思想観念が変わり、色身を大したこととは思わなくなる。欲界の粗重な貪りは自然に現れず、衣食住などの六塵境界は自然に徐々に心にかけなくなり、こだわらず気にせず追求しなくなる。瞋心も自然に降伏し、すべてに対しどうでもよいと感じる。「どうでもいい」の一言で多くの葛藤が解ける。

修行とは理論で実際を指導することである。実際とは五蘊の現在の各環節、各身口意行(身体・口・意の行い)である。修めるのは身心の身口意行であり、これが最終的な着地点であり、最終目標である。各人の修行効果を観るには、その身口意行を観、その五蘊活動の各細部を観なければならない。細部が成否を決め、効果を決める。なぜ五蘊の細部と身口意行を観察するのか?思想観念が身口意行を決定し、五蘊活動の細部を決定するからだ。理論が適切に実行されて初めて観念は転換する。理論が適切に実行されなければ、それは単なる理論に過ぎず、語るに値しない。

八、白雪香による法相の解明

瞋恨心、傲慢心、嫉妬心、煩悩心。さあ、これらの心はどのように生じるのか?例を挙げよう。嫉妬心と傲慢心は、実は同類の心である。他人が「私」より優れていると、私は非常に不快に感じる。これが嫉妬心だ。「私」が何らかの点で他人より優れていると、これを傲慢心という。

よく観察すると、必ずある出来事、ある出来事に対する認識がある。他人が自分よりうまくやると嫉妬し、自分より劣ると傲慢になる。これをどう解決するか?「私」を捨て去るのだ。世の中の出来事について、世人に「森羅万象」という成語がある。華厳経には「海印森羅」という形容がある。つまり世の中の出来事はあまりにも多すぎる。専門分野はそれぞれ異なり、他人がうまくやれば称賛すべきであり、自分がうまくやれば謙虚であるべきだ。なぜなら自分よりうまくやる人は大勢いるからだ。傲慢になったり誇ったりする価値は何もない。事柄そのものには何の情緒もない。情緒を生み出すのは人の想像に過ぎず、空幻で実体がない。事柄そのものもまた瞬時に変化し生滅する。誇ったり嫉妬したりする必要がどこにあるのか?

さらに注意深く観察すると、私が言う「私を捨て去る」とは、ほら、私が情緒を生み出し、情緒を捨て去る。実は捨て去るのは空幻なものに過ぎず、実際には何も捨て去ってはいない。事柄には増減がなく、どんなこともするのに差し支えなく、非常に平静である。

さきほど様々な心に触れたが、心には様々な分別があり、様々な分別があるから様々な心がある。これを森羅万象という。森羅万象は鏡に映った影のようなもので、これを心法ともいい、法界ともいう。鏡が森羅万象を映し出すのは、鏡が本具する機能である。仏教経典の用語で法爾如是(自然のままであること)という。この機能を性といい、見性ともいう。森羅万象を分別する機能は識である。識を細分すると八識になる。鏡を如といい、その中の物象を来(去)という。この鏡にはもう一つの機能がある。映した後、ネガを残すことができる。カメラのネガのようなもので、これを種子という。種子のネガを留める機能を蔵(cang)といい、全体を如来蔵という。知らず理解せずに用いるから蔵(cang)といい、理解し大悟すれば宝蔵(zang)となる。

世人の言う「私」と仏菩薩の言う「私」は同じものではない。世人の言う「私」は役割であり、世の中の様々な役割である。列挙してみよう。例えば父、母、息子、娘、上司、部下、買い物客、売り手、運転手、アメリカ人、中国人、信者など無数無量の役割だ。「私」は様々な役割を演じることができるが、役割は私ではない。何を使ってこの役割を演じるのか?答えは身体だ。身体を使って役割に入る。だから私たちはいつも身体を「私」だと思い込む。これが理由だ。身体はあたかも物のようで、思想の支配を必要とする。だから私たちはまた思想を「私」だと思い込む。思想は役割の台本であり、身体は役割の小道具である。

思想という役割は心法である。一念の無明が三細(微細な三つの状態)を生む。業相、転相、境界相である。師父の法義をよく読みなさい。唯識はこれらの分類を非常に詳細に解釈しており、本当に人を世間から離脱させる大法要である。師父が末那識の重要性を強調する前提は、意識上でこれらの脈絡をはっきりと理解し、その後末那識を用いて証得することである。実は私たち普通の人も末那識には証量がある。例えば世間の名利や情に非常に執着するのも末那識の証量である。ただ歪んでいる。あたかも歪み鏡のようだ。そうでなければそんなに証得が難しいはずがない。末那識の認知を転換する。末那識は転ずる前は混乱している。正しい認知を得た後、末那識の認知を修正する。転じた後は清涼である。

評:これは純粋に実証によって得られた見地であり、非常に智慧に満ちている。世俗界の名と色の法相を解明しており、その程度は浅くない。これで五蘊の法相も解明された。法相を解明して初めて、五蘊の法相から解脱し、法相に束縛されなくなる。解明するには法相の苦・空・無常・無我性を実証しなければならない。意識の理解の作用は非常に微細で、具体的な事柄に直面すると全く役に立たない。

実証した者だけが煩悩がない。意識で解き明かしたものは、煩悩の問題を解決しない。だから小乗の観行と実修を飛び越え、禅定と戒律も飛び越え、直接大乗の如来蔵を解明しようとする人が少なくない。たとえ解明できても、五蘊を打破する智慧はなく、五蘊が破れなければ依然として元のままで煩悩が重く、悪業も造り続け、解脱の影さえもない。真の修行はいかなる段階も飛び越えず、いかなる法の修行作用も軽視せず、ましてや自分の智慧を過大評価せず、事実に基づき着実に歩む。そうして初めて何かを成し遂げ、真の智慧が現れ、心が世俗界から離脱して解脱できる。

九、意識の見覚と末那識の見覚には大きな差がある

弟子唯識の念仏体験:夜、一時間念仏するつもりだったが、結果として三時間近く念仏しても止めるのが惜しく、最後にまだやるべき課題があると思い強制的に止めた。感想を報告する。

1. ゆっくり念仏すると心を制しやすい。2. 初めは自分と無量の衆生が一緒に念仏していると想像した。時には一緒に念仏し、時には私が先に念仏した。その後、他の念仏の声が聞こえなくなり、自分の念仏の声がはっきりと聞こえるようになった。3. 家の騒音はまだ聞こえるが、心には留まらない。普段自分をかき乱す様々な念いが、今回は非常に弱く感じられ、念いが起こるとすぐに捨てられた。念仏の声だけが止めるのが惜しい。心中に歓喜がある。4. 最後のしばらくの間、念仏が一字一字力強く感じられた。一字念仏すると、耳に多くの反響が聞こえ、その反響が消えるまで待って次の字を念仏した。一字一字に力があると感じた。

評:これは念仏が少し糸を引く(集中が持続する)ようになった状態だ。禅定の趣きであり、法喜ともいう。喜覚支が現れている。仏力加持の効果である。心が定まると、色身の四大と磁場が調和し、快適に感じられ、喜びが現れる。心がその状態に浸り、現在の快適な境界から離れたくなくなる。少し貪りのようだが、仏法に貪るほど修行の効果は良くなり、三昧も早く現れる。

定力がある時、念仏が一字一字力強く感じられるのは、末那識の感覚が多い。定力がない時、淡々と感じるのは意識の感覚が多い。ここから末那識と意識の二者の見る所覚える所は異なることがわかる。普段は意識の見覚が多いため、淡々として平凡で、無明煩悩が減らない。末那識の見覚が多い時は、普段の感覚とは異なり、おそらく完全に逆の場合さえある。したがって見道(初地)の時は必ず末那識が見道する。末那識の見覚を基準とし、意識はそれに従う。

定力がない時は、雨の音を聞いても、目覚まし時計のカチカチという音を聞いても、念仏の声を聞いても淡々と感じ、心に何の波紋も影響もない。しかし定力が非常に強い状況では、雨の音や目覚まし時計の音が耳を震わせ心に響き渡り、呼吸や心拍の音さえも大きく感じられ、念仏の声はなおさら耳から離れなくなるかもしれない。もしさらに観を続けると、塵境(外界)には一連の変化があり、心境もそれに伴って変化することに気づき、その後見道できる。定があるかないかで見る塵境は同じ一つのものであっても、見える結果は大きく異なる。これは末那識と意識の智慧が生じるためである。

念仏の効果が非常に良い時は、好機を逃さず引き続き念仏し、念仏の功夫を深めるべきだ。他の課題のことを考えてはいけない。どちらがより重要か見分け、目標を心に明確にし、形だけの課題をしてはいけない。

弟子如春の話:私は楞厳呪を非常に速く唱える時も、一種の浑然忘我(無我に没入した)の状態に入る。ただ二枚の唇がぱくぱく動いているだけに感じられ、目は少し文字をちらっと見るだけでよく、意識が完全に文字をはっきり見るのを待たずに口がその一行の文字を滑るように唱えてしまう。その感覚も非常に面白い。

念仏や読経が非常に速いのも一種の定である。なぜなら雑念を思う時間がないからだ。しかし気を消耗しやすく、長時間維持できない。この状況は呪文がすでに非常に馴染み深く、ほとんど暗誦できるため、あまり意識を使って読み取る必要がなく、末那識がほぼ自動再生できるからである。経文や呪文を暗誦できるようになったら、意念(意で念じる)を学ばなければならない。つまり末那識で念じる。経文呪文が頭の中を流れ、言語や文字、音声はなく、音もなくひっそりと暗誦する。そうすると入定は非常に速く深くなる。

すべての人の修行体験を総合すると、非常に明らかにわかる。意識で果を証する、意識で明心(心を明らかにする)とは一体何なのか?何でもない。人を愚弄する芝居に過ぎない。この芝居を仕掛けた者に禅定があるか、修行があるかは、智慧ある人なら一目瞭然だ。

十、安然の楞厳呪読誦の自身体験

昨夜、楞厳呪を読誦していた時、師父の法義に木魚を叩きながら読んでもよいと書いてあったのを思い出し、私はペンで机を叩きながら読んだ。初めは普通だったが、数分後、自分の発音、リズム、イントネーションが普段と完全に異なり、まるで自分が読んでいるのではないように感じた。これらの変化は自分の意識が操作したものではなく、自動的に出てきたようだった。当時、自分の意識は非常に弱く、目はほとんど開けられず、かろうじて文字が見えた。しかし読誦は非常に滑らかで速く、韻律は詠唱のようだった。読み終えた後も意識は非常に弱く、机に寄りかかりながら自分でベッドに横になった。しばらく休んでようやく意識が正常に戻った。

評:これが諸仏菩薩の加持力である。不可思議である。本来、読誦や音声は意識のなすところだが、この時自分の意識は何もせず、無力だった。ではこの読誦は意識が主導する行為ではない。この読誦は、一つには諸仏菩薩または護法神に摂持加持されたものであり、二つには自分の末那識に制御されたものである。つまり末那識が主導する読誦、言い換えれば末那識自身の読誦である。一つ目は理解しやすいが、二つ目はどう理解するか?末那識はなぜ意識を制御し、さらには意識の読誦に取って代わったのか?ここには禅定の力が関わっている。加持力は確かにあるが、一時的に置いておく。末那識が楞厳呪の重要性を認識し、意識の読誦に参与し、しかも非常に馴染み深いため、自主的に読誦し、意識に取って代わる。意識は無力になる。これは軽い念呪三昧の状態であり、その後さらに深い三昧も現れ、その後の修行は非常に速く順調に進む。三昧が現れたため、末那識が自ら登場し、楞厳呪の暗誦は非常に容易になる。意識の思い出しや回想は必要なく、意識はわずかに参与すればよい。

もし実例が示されていなければ、普通の人は信じないだろう。ある人は言うかもしれない:末那識がどうして読誦や暗誦ができるのか?全くでたらめだ。では暗誦と三昧の原理は一体何なのか?暗誦と三昧は末那識のなすところであり、末那識が主導する。他に原因はない。なぜなら意識は明らかに無力で、制御できず、なぜそうなるのかもわからず、文字さえはっきり見えず見えないのに、どうやって読誦できるのか?

この境界は私がかつて楞厳経を打った(集中して読んだ)時期、楞厳経を念じていた時の状態と全く同じだ。当時私は非常に速く読誦していたため、思惟する必要がなく、読んでいるうちに目は経典の文字が見えなくなり、口は非常に速く読誦していた。他の人はもうついていけなかった。これは暗誦と言った方が正確だろう。当時心は空しく静かで、水のように動かず、まるで入定したようだった。ただ木魚が止まらなければいい、経文が終わらなければいい、読経が永遠に続き止まらなければいいと願った。それ以来、私はわざわざ暗誦しなくても自然に楞厳経を暗誦できるようになった。

ここから、楞厳経・楞厳呪および大乗経典を受持読誦することに対する諸仏菩薩の加持力がいかに大きいか、感応がいかに殊勝か、修行の進歩がいかに速いかがわかる。楞厳呪の読誦暗誦の功徳は不可思議であり、その功徳利益はすべて楞厳経第七巻に詳細に述べられている。修行がまだ正軌に乗れない人は、楞厳呪を修する心を発し、楞厳呪をよく用いて道業の進歩を促進してほしい。

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