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日常法話集録

作者: 更新時間:2025-07-13 07:55:52

第九章 意根の修練篇(2)


八、旋見循元は意根円通の法門である

楞厳経第五巻原文:阿那律陀。即座より立ち上がり、仏足を頂礼し、仏に白して言う。我が出家の初め、常に睡眠を楽しむ。如来、我を呵りて畜生の類と為す。我、仏の呵りを聞き、啼泣して自ら責め、七日間眠らずして両目を失う。世尊、我に楽見照明金剛三昧を示す。我、眼に因らずして十方を観見し、精真洞然として、掌中の果実を観るが如し。如来、我に印可して阿羅漢を成ぜしむ。仏、円通を問う。我が証する所に如く、旋見循元、これ第一と為す。

釈:阿那律は眼根より修を起こし、その修行の心得は旋見循元である。旋とは、回転、反転の意であり、眼根の見を本来の外向きから反転させて内向きとし、見の来たる処、すなわち根本の処に循って落とす。本来は身外心外に色法を見ていたが、今は反転して、能見の根本の処を見るのである。根本の処とは何処か。見の機能を引き起こす根源の処であり、誰が眼根の見を導き決定しているのか。一つは意根、二つは第八識、最も究竟の処は第八識である。

意根の処に落とすのは大阿羅漢であり、第八識の処に落とすのは大菩薩である。世俗界の角度から見れば、意根は一切の法を見る機能を有し、内外の六塵界をも見る。しかし無明のため意根の法を見る機能は制限され、六識が五根から見ざるを得ない。もし無明を除去し、意根の最大の功用を回復すれば、六識が五根から外向きに法を見る必要はなくなり、意根単独で法を見ることができ、五根を休ませ、六識を休ませることができる。

阿那律は世尊の教えられた楽見照明金剛三昧を修習し、意根を用いて法を見る訓練をし、眼根を用いずに内向きに見た結果、十方世界を見ることができ、非常に明晰で了然、真実そのもの、まるで自分の手のひらの果実を見ているようであった。旋見循元は、なんと意根円通の法門であった。誰が意根は五塵境を見られないと言ったのか。大阿羅漢阿那律の意根は十方世界を見ることができ、精真洞然として、色声香味触法をことごとく見、意根によって三昧を証得し、意識は用をなさない。それならば、意識を発明して証果を得るなどというのは天大的な笑い話である。

九、心地平らかなれば世界の地も平らなり(持地菩薩の証した円通法門)

楞厳経原文:時に国の大王、仏を饗応し斎を設く。我この時、地を平らげて仏を待つ。毘舎如来、頂を摩して我に謂う。心の地を平らぐべし。すなわち世界の地、一切ことごとく平らかならんと。我すなわち心開け、身の微塵を見る。世界を造る所有の微塵と等しく差別無し。微塵の自性、互いに触れ摩せず。乃至、刀兵もまた触るる所無し。

釈:持地菩薩は無量劫の最初の出家時、常に道を修め橋を架け、人の通行を助け、ひたすら黙々と見返りを求めず大衆に便宜を提供し、有為法に熱心で、心地を悟らなかった。中間に無量の仏が世に出現し、無量の福徳資糧を積み、見道のための極めて堅固な基礎を築き、中間にたぶん何度か悟道したが、悟りは深透ではなかった。

毘舎浮仏に遇うに至り、仏のために通る地面を平らげた時、仏が摩頂加持し、言われた。お前は自らの心地を平らぐべきである。もしお前の心地が平らかになれば、世界の一切の土地はことごとく平らかになる、十方世界の土地をも含めて。持地菩薩は仏の加持のもと、仏の教えを聞き、たちまち心地が開けて悟道した。即時に色身を構成する微塵と、世界を造る微塵が、ともに等しく差別ないことを見た。これらの微塵の自体性は空であり、形も相もないため、互いに相触れる性質がなく、互いに融合せず、乃至戦場の兵器刀剣もこれらの微塵にはどうすることもできず、少しも触れることができなかった。

心が平らかになれば地も平らかになるとはどういう意味か。万物はすべて心より起こり、平らかでない心は平らかでない地を見、世界の起伏を見、天地の悠久を見、善悪是非美醜を見る。もし心を平らかにすることができれば、何を見てもすべて菩提であり、何を見ても七大種子の顕現であり、何を見ても平等に差別なく、高低上下がない。したがって、心地を平らかにすれば真相を見ることができ、無上菩提に直達する。

仏が心地を平らぐ道理を説き終えた後、持地菩薩は無量劫に修持してきた無量の善根と福徳、および甚深の禅定によって、たちまち三昧の中に証入した。自らの色身の中の微塵と、世界を造るすべての微塵が、平等に差別なく、すなわち構成する元素と成分が同じであり、同じ要素で構成されていることを見、即時に身と世界が無二であることを証得した。そして微塵の本質は空であり、色身と世界を構成する微塵は五大からなり、五大は形も相もなく、構成される微塵は相があるが、相は空である。

空相には実質的な微塵というものはなく、互いに触れ合い組み合うことはできない。それゆえ身と身の間には妨げや障害がなく、互いに重なり合わず、互いに衝撃せず、あたかも空と空の交融のようである。身と世界の間、世界と世界の間も互いに妨げず阻まず、互いに重なり合わず衝撃せず、あたかも空と空の交融のようで、まったく触れ合わない。このようであるならば、無量の神通が即時に顕現し、障害なく、身が一切の境に入ることは虚空に入るが如く、一瞬たりとも費やさず、微塵ほどもかからない。

原文:我、法性において無生忍を悟り、阿羅漢を成ず。心を回して今、菩薩の位に入る。諸の如来の妙なる蓮華を宣べ、仏の知見の地を聞く。我、先ず証明して上首と為る。仏、円通を問う。我、諦観すること身界二塵、等しく差別無く、本より如来蔵、虚妄より塵を発し、塵銷えて智円成し、無上道を成ず。これ第一と為す。

釈:持地菩薩は言う。私は微塵の法性において無生忍を悟り、阿羅漢を証成した。心を大乗菩薩道に回入し、諸仏が微妙な蓮華経を宣演し、仏の具足する見地を聞く。私は先に仏の説かれた法を証明し、これをもって第一とした。仏が私の修めた円通法門は何かと問われ、私は仔細に色身と法界の二種の微塵を観察し、ともに同じく差別なく、本来の如来蔵より生じた微塵であることを見た。三昧の中で微塵が心中より消散して存在しなくなると、智慧は円満を得、無上の道果を成就した。これが私の第一の円通法門である。

持地菩薩のこの自述も、修行成就の鍵である。持地菩薩は我が仏の説かれた微妙甚深の法理を聞いた後、自ら実践し、ついに真実に仏法の真実性を証明したのであり、仏の説かれた法を信受するのみに止まらなかった。信と実行は二つの異なる次元であり、信ずるだけではまだ仏陀の真の弟子ではない。仏陀の説かれた法を実践してこそ真に仏陀に孝を尽くし、真に仏意を理解し、真の仏子である。もし修行しなければ、信は何の役に立つのか。理を学び知識を得るのは何の役に立つのか。

我々は上述の道理を知ったが、身心と世界は無碍になったか。まったく無碍にはならず、障害は依然として障害であり、業障は依然として業障であり、煩悩は依然として煩悩であり、無明は依然として無明であり、事態に何の益もなく、役に立たない。この理に依って、着実に修行し、微塵無二を証得した後、初めてそれらの障害は解除され、業障と煩悩は消除され、身心世界は円融し、無量の三昧、神通道力が出現する。理は実践を指導するためのものであり、もし実践したくないならば、理が山のように積み上がっても、事態に何の益もなく、知識は人を救うことはできず、実践と実証のみが人を水火から救う。したがって知識の量を能事とする者は早く目を覚ますべきで、美夢を見てはいけない。知識が修行力に転化できなければ、有ると無いとは差別がない。

ある者は長年にわたり、絶えず私に様々な表を送り続けている。誰がまとめ整理したかわからない楞厳経の大綱で、長年大綱の上で文章を書き、楞厳経の脈絡を研究し、楞厳経の説く方法に従って自らを指導し実修しようとせず、理論を実践に付そうとしない。このような研究は、せいぜい学者、理論研究員に過ぎない。学者や研究員とは何か。文字を弄ぶこと以外は何者でもなく、たとえ文字の中でさらに十億年流転しても、依然として何者でもない。

十、大迦葉菩薩の意根円通法門

楞厳経中大迦葉菩薩が自らの修証した円通法門を述べる:我、世間を観るに六塵は変壊し、惟だ空寂を以て滅尽を修す。身心はすなわち能く百千劫を度るも、弾指の如し。我、空法を以て阿羅漢を成ず。世尊、我を頭陀第一と説く。妙法開明し、諸漏を銷滅す。仏、円通を問う。我が証する所に如く、法因を上と為す。

釈:大迦葉は言う。私は世間の六塵の境界が絶えず生滅し、無から有へ、有から壊れ滅し空へと至り、すべて依止すべきでないことを観察し、ただ空の寂滅の心をもってこれらの法を空じ、身心を常に滅尽法の定中に置いた。この三昧の境界の中で、身心は百千劫の長い歳月を経たが、まるでわずか一弾指ほどの短い時間にしか感じられなかった。私は六塵の境界法をすべて空じたことによって、阿羅漢となったのである。

滅尽定の中で六塵の境界をすべて心中より滅し空じ去る。これは何を説明しているのか。六識もそれに伴って滅し、再び生じることができなくなることを示している。六塵は六識が生じる一つの縁であり、縁が具わらなければ識は生じない。六識がもし滅すれば、ただ意根と如来蔵だけが残る。大迦葉はやむを得ず滅尽定の中にいる。では大迦葉は定から出るのか。世俗界の人事に対応するのか。対応する必要がある時はどうするのか。大迦葉は法を滅尽するまで修行し、滅尽定に入ることは非常に容易いが、大菩薩として利生の責任があるため、いつも滅尽定の中で何もしないわけにはいかない。滅尽定を出てもなお滅尽法の三昧の中にあり、かつ一切の利生事業を行う。これは不可思議である。法がすべて空なのに、どうして利生事業を行うのか。利生事業もまた法ではないか。

楞厳経にはまた一段ある:摩訶迦葉、久しく意根を滅し、円明に了知して心念に因らず。 この段は大迦葉が普段どのように事を処し人事に対応しているかを述べている。どのように事を処し応じるのか。意識の心念を用いずに円満に清清しく明らかに六塵の境界を了知する。

普通の人にとって、この境界はあまりにも玄妙で不可思議ではないか。意識を用いずに六塵の境界を知ることができ、しかも普通の人より円満で清らかに透徹して知る。それはどうやって知るのか。それは意根が知るのである。意根が六識の了別性に取って代わり、言い換えれば意根自身が直接了別し、六識の補助を用いず、主人自らがすべての事を行い、助手をすべて追い払う。これは主人の精力が充実し、能力が向上し、すべての事を自分一人で対応でき、助手を必要としないことを意味する。このような意根はなんと強いことか。これは普通の人が有する意根なのか。正確に言えば、このような意根を持つ人は、普通の人であり得るのか。それは八地菩薩に相当する大迦葉である。

文中に言う久しく意根を滅するとはどういうことか。大迦葉がとっくに意根を滅したのか。ここでの意根は主となる第七識を指すのではなく、意識が生じる根源を指す。もし第七識が滅すれば、無余涅槃に入り、もはや大迦葉という人が世の中に存在せず、円明に了知することなどあり得ない。

では意識が生じる根源とは何を指すのか。意識が生じるにはいくつかの縁が必要であり、そのうちの一つの縁が欠けても意識は生じない。いくつかの縁の中には法塵境が含まれ、主なものは意根第七識の作意である。法塵境が現れた後、意根が作意して弁別し了知しようとせず、境に心がなく、境に対して心がなければ、意識は生じることができない。これが修行の最も重要な鍵である。意根がもし六塵の境界に対して了別する心がなければ、六塵と万法を空じ、六識はすべて生じることができない。したがって意根が境に対して心なきところまで修めれば、意識が生じる根を滅し去る。これが大迦葉の久しく意根を滅する三昧の境界である。

しかしながらまた円明に了知できる。意根がすでに心がなく、もはや境界を了別しようとしないのに、どうして了知でき、しかも円明に了知できるのか。これは意根の自然な無心任運の了別機能である。あたかもカメラが作動していれば、一切の景観が自然にカメラに入るように、意根もまたそうである。了別する心がなくても、塵境は自然に現前する。もし意根というカメラが作動しなければ、無余涅槃に入る。菩薩はそうしない。作動させればついでに衆生を利益する事業を行うことができる。一切の利生事業は意根が単独で行う。では意根に善心所の法はあるのか。意根の智慧は強大ではないのか。決して劣弱ではあるまい。特に初地菩薩以後、意根は識が智に転じ、意根の慧がどうして劣弱であり得ようか。たとえ凡夫の意根でも、時に智慧があることはあり、劣弱ではない。意根の機能はかくも殊勝である。我々はどうして努めて修め訓練しないことがあろうか。

十一、意根が「患得患失」という成語を思量する手順

第一歩、深呼吸し、心を静め、さらに静め、雑念が次第に少なくなりついには無くなるまで。

第二歩、眼識はこの成語を凝視し、意識はおおよそを明らかにし、思惟分析せず、念を動かさず、ぼんやり、呆然、放心した状態にある。この過程は成語の情報を意根に伝送することに相当し、袋の中のものが満杯だが、まだ入れるものがある場合、袋の中のものを押し込み、頓(つん)とさせ、空間を空けて残りのものを入れるようなものである。押し込むことと頓とは、ものを袋の口から袋の底へ送ることである。送るほど、空く空間は大きい。袋の口は意識に相当し、袋の底は意根に相当する。

第三歩、情報がすべて意根に伝えられた後、意根は情報の処理を開始する。この時は放心、呆然、ぼんやりした状態を保ち延長し、意識は念を動かさず、むしろ目を閉じて神を養うべきである。

目を閉じるのは眼識と意識が目を閉じて色を見ないことであり、養うのはもちろん意根という神識である。意根が休むべきと感じ、目を閉じて色を見ないと決定すれば、二識は決定に従い目を閉じる。もし意根が色を見たいと思えば、二識はどうしても目を閉じられない。もし意識がこの色は本当に良い、もう少し見ようと言い、意根がそれではしばらく見ようと同意すれば、二識は色を見て目を閉じない。何事も意根が主となって決定する。たとえある事は意識が提案しても、意根が意識の提案に同意し、主となって決定する。二識が目を閉じて造作しなければ、意根は色を見ることに気を遣う必要がなく、心を省き、あるいは別の重要なことを思量する。

意識が安定し、情報がすべて意根に伝えられた後、意根は思量を始める。音もなく、動きも静けさもなく、静かで意識はその存在と運行を発見し感じることが難しい。それゆえ普通の人は意根を馬鹿者や飾り物と言い、何の実質的な機能も作用もないとするが、実際には五蘊の最も主要な機能作用はすべて意根のものであり、意根が大黒柱の役割を果たす。

第四歩、意根はまず「患」という字を思量する。意識は分析せず、干渉せず混乱を加えず、意根の気を散らさず、また意根が成語の思量から離れないようにする。意根が思量すべき対象から離れないように保つのは意識の仕事任務である。もしうまく遂行できなければ、意根の思量結果に影響するかもしれない。もし意根がすでに思量に熟練していれば、意識が督促する必要はない。意識は結果を急いで出そうとして関与してはならず、決して思惟作用があってはならない。そうでなければ意根は智慧を出すことができず、意識が思惟して出した結果は真の智慧を代表せず、用いることができない。

最初のうちは、おそらく意識は督促せず、意根も思量せず、両者とも努力して学ぶ必要がある。この段階を過ぎれば、自在に修観を始めることができる。意根がしばらく思量し、患には過患、心配、恐れ、こだわりなどの意味があることを知る。いったいどれの意味かは、後の字句を見てから決定する。そこで「得」という字を思量する。得の意味があまりにも多いため、得失の二字を連ねて一緒に思量し、得と失の意味を限定する。次に何を得て何を失うかを思量し、五蘊世間法の財色名食睡、家親眷属、権勢地位など、人間界のこれらの生滅する空法仮法へのこだわり執着であることを知る。最後に四字を総合して思量し、患得は得られないことを心配し、患失は得たものを再び失うことを心配し、こだわり執着がひどく、何も見破れず放てず、まったく我見我執が騒いでいることを知る。これは生死凡夫の心理状態であり、なんと哀れなことか。

最後に何を思量するか。それは各人の意根の智慧と観念による。意根は人生全体の得失を振り返り、智慧を持って得失はどちらも得られず、何も得られず、何も失わず、事もないのに無駄に騒ぐだけであり、まったく愚痴であると思量すべきである。もちろん大多数の人の意根はこの段階まで思量できないが、ゆっくり練習して思量すれば良い。

智慧が不足し、方法が熟練せず、禅定も不足しているため、最初に思量を練習する時は非常に遅く、必ずしも正しく思量できないが、問題ない。いつか熟練する日が来る。意根が一旦理にかなった思量観行を学べば、その智慧は湧き出て止まらなくなる。

以前、意識の聞思を重視し、広く学び多く聞き、時間を様々な大部の唯識論著に費やしてきた人は、今見ると損をしているのではないか。数十年意識で唯識論著をかじり、何か結果を出したか。今は基礎を補い、一歩一歩実修に着手すべきではないか。しかしある者は意識の聞思に慣れているため、実修の際に意識が素直に静かにならず、実修への障害が非常に大きく、禅定はなかなか修まらず、観行はおろかである。理論が強盛な人と、実修を重視し理論と実際を結合した人との間の修証の差は非常に大きく、あちらは数年で三昧を修め、すでに初果二果であり、いつでもどこでも如来蔵の空性を証悟できるのに、自分は理論すら通じておらず、禅定は影も形もない。

この対比により、理論が実際と結合しなければ、空論は往々にして国を誤り、理論が実処に落ちなければ、実証は天に登るほど難しいと知るべきである。実処とは何処か。実処は意根の処であり、眼で見る処であり、事実の真相に接触できる処である。一方、意識は虚処であり、耳で聞く処であり、事実の真相に接触できない処である。

十二、如何に経典を読めば最大の利益を得るか

多くの人は般若空の基礎がないのに、唯識を津津に語り、学べば学ぶほど有に執着し、ますます空でなくなり、道に背く。本来唯識はすべて一切法空を指しているが、多くの人が研究すればするほど、実在的な有法に変わり、一つの学問となってしまう。これは唯識学の不幸である。この状況を転換し、基礎部分を補足するため、今から我々は振り返って般若法門の修学に重点を置くべきである。般若法門は上を承け下を啓き、小乗の我見を断つ助けにもなり、唯識の修学にも役立つ。もし般若学の基礎がなければ、唯識を学ぶことは戯論である。世尊の説かれた般若経は六百巻あり、毎日一部分を読み続ければ、日を重ね月を積んで般若法門の理解が深まり、心中はますます空になり、世間相に執着せず、身心は転変する。

経典を読んで仏意を理解し、大きな利益を得るには、一定の方式方法が必要であり、まず菩提心を発し、菩提心を修学の全過程に貫き、この基礎の上で菩薩の六度を修行し、専精に功を積み道を修める。経典を読むには一般に三つの方式がある。第一は意識が口だけで心なく読み、意根が方々で妄想を打つ。第二は妄念が減り、意識が専心して経を読み、意根は妄想を少なくし、一緒に経文に関心を持ち、一定の空間を残して思惟し経意を理解する。第三は経文に熟達した時、意識は読まずまたは声に出さずにゆっくり読み、意根の思考参究に合わせ、意根は経文に専注し、経文に対して絶えず思考する。

第一は最も初歩的な読経方式で、純粋に読むだけで経文の理解は必要とせず、第二第三に移行して初めて読経の効果に達し、経文に対して一定の思考を持ち、経文を正しく理解し、経文の意涵を把握し、それによって自らの修行を効果的に指導できる。

如何に第二の読経方式を行うか。経を読むには心を専精に用い、雑念を思わず、意根の広範な攀縁を禁じ、意根を縛って経文だけに関心を持つ。経を読む時はゆっくり読み、思惟理解の空間を残し、意根に思考の時間を与える。重点部分や疑問点に至った時は一時停止し、意根に音もなく思量消化させる。これは読経の質を重視し、任務をこなすような速度を求めるものではない。

この段階がほぼできれば、第三の読経方式に移行する。思考作業の大部分を意根に任せ、意識は意根を各部分の経文に導く役割だけを担い、意根に各段落の経文の鍵となる部分を一点に凝縮して心中に懸け、単独で心中で思考参究させる。読誦が非常に遅く妄想が無い時のみ、意根は読誦の影響を受けず、法義を心中に懸けて自ら思考できる。

これは慧を修める過程であり、同時に定を修める過程であり、定慧を同時に修め、法理が心に入れば、心中はますます空になり、ついには身心が転変する。経を読むことができる人は、そこに座れば老僧の入定の如く、目は経文にあっても注意力は意根の黙々たる思考にあり、非常に専注し、ついには禅定が生じ、身心は暢快に開け、心開き意解け、慧思は泉の如く湧き出、智慧は朗々たる日光の如く心田を照らし、極めて潤す。何事を行うにも心の用い方次第であり、発心が正しいだけでなく、専精、および正しく理にかなった方式方法が必要であり、そうすれば結果は倍の成果を得るだけでなく、それを超越するかもしれない。

十三、日常生活における意根の訓練方法

意根の専注を訓練するには、日常生活の小さな事から練習を始められる。四念処経では呼吸を観、白骨を観、身行を観る。楞厳経の二十五聖は六塵、六根、六識、六大を観る。我々は蝋燭の炎、あるいは燃える香の先端、あるいは一つの林檎、あるいは一輪の花を観ることができ、自分に便利なものを選ぶ。意根が蝋燭や香の先端を縁とし、意識がそこに生じ、その一点に定着して動かず、眼識は他を見ず、意識は他の法を念わず、心念を動かさず、二者はただ単純に蝋燭や香の先端を凝視する。この時意根は引きずられて蝋燭を縁とし蝋燭を観るしかなく、他を攀縁できず、次第に境に入り、次第に専注し、次第に一心となり、心は次第に細微に入る。

観とは意根を一処一点一法に集中させることである。普段意根はあまりにも散乱し、あらゆる法を攀縁し、あらゆる法をはっきり認識せず、あらゆる法を理解せず、何の法の真実の姿も知らず、何の法が本来何の法でもないことを知らない。意根が観じて次第に佳境に入ると、この時意識の心は空であり、一念も生じず、あるいはただ炎を知る一念だけであり、意根はひそかに観じる。観の中で禅定が生じるのは一つの面であり、もう一つの面は心の作用が変化し、炎の相に対する認知が次第に変わり、真相が次第に浮かび上がり、次第に炎は炎でなく、香の先端は香の先端でなく、林檎は林檎でなく、花は花でなく、一切の物は一切の物でないことを発見し、智慧が生じた後には様々な空の認知が生じ、三昧が現れ、身心に一連の変化が起こる。

これにより、普段我々が見るものはすべて誤った見であり、仮を見て真を知らず、すべての物に執着し、我と我の所有物と執する。何の色受想行識が我であり、色声香味触法が我の所有物であり、財色名食睡が我の所有物であり、権勢地位名声金銭が我の所有物であり、家親眷属が我の所有物であり、一切自らに関連するものが我の所有物である。我と我の所有物のために、どんな代償も払うことができる。修行が我と我の所有物より重要か。六道で輪廻するだけではないか。私は気にしない。輪廻は恐ろしくない。我と我の所有物を失うことが最も恐ろしい。しかしあなたは我と我の所有物を得たことがあるか。いくつの我と我の所有物を失い、守る方法があるか。

この愚痴、愚見、愚執を破るため、一物を観じ、長期に観じれば、物とは何か、我とは何か、誰が何を執すべきか、現前に夢幻泡影を体得し、夢から目覚める。夢の中には明らかに六趣があるが、覚めれば空空として大千無し。以前の愚迷は可笑しく、足を踏み胸を打つ。目覚めれば良い。以前は数に入らない。ページをめくる。目覚めた後は大丈夫であり、目覚める前は迷惑顛倒の凡夫であり、身分が変わる。大丈夫の行う事業は一切の世人に敬仰されるに値し、痴迷の凡夫の行いは人に憐れみの心を起こさせる。

具体的な観行の過程と結果は楞厳経二十五聖の円通法門を参照。聖人たちの修行は一界一法に拘らず、十八界から随意に一界を選んでも道に入り、すべて殊勝な三昧を成就し、すべて円通できる。一法から道に入れば、法法すべて道の中にあり、一門深入といい、門門すべて通ずる。

我々が我見を断ちたいならば、五蘊十八界のすべてを観行する必要はなく、自ら観じやすい着力点を一つ選び、錐のようにずっと突き進めば、必ず五蘊十八界を破る。例えば風船は一箇所を突き破れば全体が破れ、例えば船艇は一箇所が漏水すれば船全体が水に沈む。皆さんは早急に行動を起こしましょう。もうぼんやりと夢幻泡影を抱き、父母を間違って認めてはいけません。

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