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日常法話集録

作者: 更新時間:2025-07-13 08:37:52

第六章 修行の章(2)


十一、雑学は正精進にあらず

私たちが仏法を学び修行するのは、実際的で根本的な生死の問題を解決するためであり、理論を学ぶためではありません。理論的知識は実修に足りる程度に把握すれば十分で、それ以上深く掘り下げる必要はありません。心は肝心なところに用いるべきです。意根の智慧さえ開発されれば、元々理解できなかった教えはすべて明らかになり、知らなかった知識もすべてはっきりとします。そうして自らの智慧をまとめ上げ、伝え広めれば、それは他者が必要とする理論的知識となり、自他ともに計り知れない利益をもたらすのです。

周利槃陀伽(チュウリハンダカ)が四果阿羅漢を証得した後も、依然として説法はできず、口下手でしたが、行うべきことはすべて成し遂げ、解脱智と無生智は備えていました。ただ表現できないだけで、知識の幅も不足していたのです。それでもなお、彼が聖者であることの妨げにはなりませんでした。三界の生死を解脱する智慧を持ち、リンゴを腹の中に収めた、これがまさに確かなことです。百冊もの本を書ける誇大妄想に満ちた貪瞋痴の煩悩を具えた凡夫よりも、何倍も優れていることでしょうか。

多くの人々は仏法を学び修行することを理解しておらず、毎日あちこちで知識を収集することに夢中になり、役に立つかどうかに関わらず懸命に集め、取るに足らないものばかりを拾い集め、集めた後はまた忘れてしまいます。尽きることのない宝庫を開発せず、金の鍵を手に入れることを知らず、一見努力して修行しているように見えますが、実は邪精進であり、精進すればするほど道から遠ざかるのです。

ある人々は万華鏡の中の模様を研究するのが好きで、一つの模様を研究し終える前に次の模様に変わり、一万の模様が移り変わり、様々な模様を追いかけ、結果的に目をくらませられ、結局何も理解できません。智慧のない者は、万華鏡そのものを研究して作り出すことを知らないのです。万華鏡さえあれば、あらゆる模様や図形を自在に操れる、これほど愉快なことはないでしょうか。世の中の知識は無限で、爆発的に発展しています。毎日追いかけていて何が得られるのでしょうか。大菩提心を発し、努力して知識の宝庫となり、あらゆる知識が自らの心から絶え間なく湧き出て、衆生が皆、あなたという知識の宝庫に頼って知識の栄養を吸収できるようになれば、これほど素晴らしいことはないでしょうか。

なぜある人は修行してそれほど長くないのに禅定が深く、観行の智慧も良く、三昧を失わず、一方である人は数十年修行しても禅定が現れず、智慧の力が弱いのでしょうか。愚かな犬が石ころを追いかけるように、外のあらゆるものに注意を向け、すべてに興味を持ち、毎日あらゆるプラットフォームを渡り歩き、あらゆる知識を学びながら、今に至るまで何一つ成し遂げていません。往々にして何も成し遂げていない人ほど自信過剰です。何を根拠に自信を持っているのでしょうか。

ある人の後頭部を開けてみれば、そこには乱れた糸くずの山が詰まっており、無秩序で、思考に論理性がなく、前の言葉と次の言葉が全く噛み合わず、それでいて外に出て論理性のないものをむやみに学び、学べば学ぶほど頭の中の乱れた糸くずは増えていきます。人の思考の道筋や方法は染まりやすいもので、どんな人から学ぶかでその人の思考特性が身につきます。見分ける力がないうちにむやみに学べば、元々自身の智慧が弱い上に、乱れた思考方法が染みつき、自身の思考はますます直線的に進まなくなり、話はあちこちにそれ、根本や要点に届きません。思考の道筋が正しくなければ、果を証したり心を明らかにしたりできるでしょうか。

修行が上手な人は、長所は定中と観行の中にあります。外の雑多なものは学ばず見ないのは言うまでもなく、師匠である私が話していても聞く気すらありません。私がこちらで話している間、その人は心の中で観行しています。何しろ修行が重要であり、生死の大事が重要だからです。一方、数十年何も修められない人は、毎日雑多な様々な知識を無秩序に吸収することに忙しく、大いに楽しんでいます。あなたは一体何をそんなに楽しんでいるのですか。頭の中はめちゃくちゃに詰まっており、一本の明確な線すらないのです。

十二、戒律を守ることは修行と言えるか?

甲が言う:修行の最終目的は我執を破り、さらに法執を破ることである。そして我執・法執を破るには般若智慧が必要であり、もし般若智慧を成就しようとするならば、禅定の助縁がなければならない。禅定の助縁がなければ心は散乱し、たとえ般若智慧を薫習したとしても力を発揮できない。ゆえに禅定の功徳が必要である。そして禅定の基礎は戒にある。戒律を守ることによってのみ、良くない業を行わないように遮止し、身・口・意の三業を清浄に保つことができる。その時初めて般若智慧を用いて内なる貪瞋痴や我執などを破る力が生まれる。

甲の意味は、戒律を守ることは禅定を助け、清浄心を保ち、悪業を作らず、禅定の力によって貪瞋痴の煩悩を断ち切り、我執と法執を破ることに役立つ、こうした戒律を守ることは修行であるというものだ。しかし、私が思うに、単に悪業を作らないという戒律を守るだけではまだ不十分である。確かに初発心で仏法を学ぶ立場から言えば、これで既に大変良いことではあるが、まだ修行の段階には入っておらず、したがって修行とは言えない。

「修」とは自らの思想・観念および身口意の行いを修正することであり、「行」とは身体を以て実践し、具体的に操作し、善法・善業に対して何らかの造作(努力)をすることである。ただ悪を行わないだけでは不十分である。衆生の身口意の行いはすべて貪瞋痴の煩悩を具え、無明を具えている。これらの無明煩悩は善法によって対治する必要がある。善が来れば悪は去り、善があれば福がある。福徳は一に戒律を守る助けとなり、二に禅定を生じさせ煩悩を降伏する助けとなり、三に智慧を生じさせ誤った思想・観念を改め、身口意の行いを清浄にし、身心世界をすべて転換させる助けとなる。単に戒律を守って悪を行わないだけでは、善法を具えることができず、大いなる福徳を得ることもできない。したがって、まだ修行とは言えない。

乙が言う:小乗の戒律を守ることは、真の仏道修行ではなく、せいぜい修行の保障に過ぎない。菩薩戒を守ることこそが修行である。仏道を修行することは、あたかも一艘の船が苦海を航行するようなもので、船の進む方向や道筋が第一に重要である。仏世尊が示された修行の道筋図が第一に重要であり、法船は第二に重要である。ただ小乗の戒律を守るだけでは、なぜ仏道修行とは言えないのか。例えば、ただ自分の小船が座礁せず、水漏れしないように守りながら、孤りぼっちで苦海に漂っているようなもので、自利もできず、利他もできない。これでどうして自他兼利の修行と言えようか。

乙の見解は、ただ小乗を守るだけではまだ修行ではなく、大乗戒を守って初めて修行であるというものだ。しかし、大小乗ともに純粋な発心があればどちらも修行である。ただそれぞれ目標が異なり、小乗は途中で下車し、大乗は終点で下車するに過ぎない。戒律を守ることが修行であるかどうかは、どのような心行をもって戒律を守るか、戒律を守ることが目指す結果が何か、にかかっている。もし戒律を守ることが人天の福報のためであり、人天の福報を得てしまえば、あるいは悪業を作るか、福が尽きて再び堕落するかであるならば、こうした戒律を守ることは依然として堕落を招く結果となる。それでは修行ではない。外道も戒律を守る。多くの人は五戒を決して犯さず、心も清浄だが、最終的には依然として外道であり、仏道を歩まない。こうした戒律を守ることも修行とは言えない。

小乗修行の目標は我見を断ち、無我を修め、「五蘊は我である」という思想・観念を改め、五蘊の束縛から解脱することである。もし無我無私の心をもって戒律を守ることができれば、我見を断ち解脱に向かい、涅槃の果証を得ることができる。そうであれば、この種の戒律を守ることは修行に属する。逆に、我ありの心で、無我の行いをせず、心の至る所で我を計算しているならば、こうした戒律を守ることは修行ではなく、無我の果徳を得ることはできず、戒福を得た後は堕落するであろう。大乗は無我の心で利他の行いをなし、大菩提心を発する。こうした戒律を守ることは修証の基礎であり、心性を改め、定慧を増長させ、明心・証悟へと導く。ゆえに修行として数えられるのである。

十三、邪精進とは何か

邪精進は正精進の反対であり、努力する方向が正しくない。そして方向が正しくなければ、努力すればするほど目標から遠ざかる。正精進が努力する方向は無我を証得し、空を証得することであり、ますます無我になり、ますます空になり、徹底的に究竟するまで、この目標を中心に戒定慧の三無漏学を修行することである。一方、邪精進の人は心中に我が盛んであり、有に執着して空を離れている。何を修めるにせよ、いわゆる我の世俗的利益のためであり、世俗の有に執着し、名聞利養に対して心に希冀と追求を持ち、道に背を向けている。このような状態では、日夜休むことなく座禅を組み、経を読み、念仏を唱え、法を学び、さらには法を弘めても、すべて自己中心、自己の利益中心であり、自分さえ得をし、自分に関わる人が得をすれば、他人がどうなろうと構わず、むしろ他人の利益を損なうことさえある。このような修行では、精進すればするほど無我の道から遠ざかり、空から遠ざかり、法界実相から遠ざかり、最後には魔と化しやすい。

清浄な大願・正願のない精進は、邪精進とは言えないが、正精進でもない。一切の修行は願が先導する。願がなければ事は成らず、願があれば事は倍の効果を上げる。願は加速器の如く、願は深い穴の中の階段の如く、願は泥の中の牽引綱の如し。願は業力の絡み合いから脱し、涅槃の彼岸へと直ちに至らしめる。小願は自身のため、大願は衆生のため、邪願は仮有のため、正願は真空のため、清浄のためである。大願と正願が発せられないのは、修行がまだ浅いためであり、いったん善根福徳が深く積み重なれば、自然と願いが起こり、願うことはすべて成就する。

十四、なぜ声聞は多聞を厭い、縁覚は思惟を厭うのか

『優婆塞戒経』第一巻の原文:声聞の人は多聞を厭う。縁覚の人は思惟を厭う。仏はこの二の心に疲厭無し。故に仏と名づく。

釈:声聞の根器を持つ人はなぜ多聞を厭うのか。小乗経の中で仏はかつて、声聞人は多聞を好むがゆえに声聞と呼ばれると言われたが、大乗のここでは、仏は声聞人は多聞を厭うと言われる。仏の説法はいつもあべこべなのか。実はそうではない。それぞれの定義には前提条件があり、すべて一定の範囲内での定義である。その範囲を超えれば、以前の定義は適さなくなり、定義は改められなければならない。声聞人の多聞とは、小乗解脱道の範囲内での多聞であり、四聖諦・世俗諦の範囲内での多聞である。この範囲を超えると、彼らはそれ以上知りたがらず、多聞したがらず、現状に満足し、同時にこの範囲を超えてもはや何の法もないと考える。このような認識の限界は、彼らの発心、彼らの心量と眼界、そして彼らがあまり深くない智慧見地に起因する。

声聞人は仏の説法を聞いて、五蘊の世間が苦であることを認識した。彼らは発心が小さく、ただ世間の苦から解脱したいだけである。世間の苦から解脱さえできれば、それで十分であり、遠い三大無量劫の成仏の道については興味がなく、ある者は三界の束縛から解脱すればすでに成仏したと考え、それ以外に修めるべきこと、証すべきことは何もないと考える。善根・福徳・智慧の限界に縁り、彼らは四聖諦を修学する際に大乗般若・如来蔵の理に触れることができず、盲目的に四聖諦は解脱にとってすでに究竟であり、これ以外に法はないと考える。まさにこのような愚かな智慧に基づいて、法華会において五千人の比丘が退席したのである。大乗の法を彼らは信ぜず聞かず、ましてや思惟しようとはしない。この一点からも、声聞人は実は仏法を多聞することを好まないことがわかる。

縁覚・辟支仏(びゃくしぶつ)たちの善根・智慧は声聞人よりも深い。彼らは必ずしも仏のそばで多聞する必要はないが、因縁に遇えば独自にそのいきさつを思惟し、根源を究明し、法の底源に徹する。そうして十二因縁法に対する思惟が生まれ、反復正逆に推し進める中で、五蘊世間の一切法の最初の源である阿頼耶識に触れる。彼らは阿頼耶識のここまで思惟すると、根性と習性に縁り、それ以上思惟を進めず、この法界実相の真理を実証しようとも思わず、智慧は三界世間苦から解脱できるという程度で停滞する。なぜなら彼らは大菩提心を発して仏道を成就しようとはせず、ただ五蘊世間の束縛から解脱したいだけで、他に求めるものはないからである。それゆえ現状に満足し、五蘊世間苦からの解脱に関する無明を断除するだけで満足し、より深細な無明を断除する欲望も計画もない。ゆえに仏はここで、縁覚は思惟を厭うと言われるのである。

仏は声聞・縁覚とは異なり、三大無量劫の修行の中で発心が広大で、無量の衆生が苦を離れるためであり、自身が安楽を得るためではない。根が深く器が大きいため、智慧も広大であり、法界の真実理を探究するため、難行を行い、難忍を忍び、現前の得た小法・浅法に満足せず、絶えず深く思惟し、絶えず究極の真理を探究し、真理への追求に決して倦むことがなかった。それゆえに最終的に一切種智を円満し、仏道を成就したのである。

まとめると、一人の者の根器は極めて重要である。根が深く器が大きければこそ、枝葉が繁茂する。心が太虚を包めばこそ、量が沙界に周る。ある菩薩が大根器の衆生を一度度することができたなら、どれほど幸運なことか。大根器の衆生に出会うことはどれほど宝のようなことか。誰が余計な心を使って役に立たない自利的な声聞人を度そうとし、自らの貴重な衆生を度す精力を費やそうとするだろうか。その精力で一人の初発心の菩薩を度すことは、百千万億の声聞人を度すことに勝る。この初発心の菩薩は、将来成就した時、無量の衆生の苦を抜き救い、無量の衆生を解脱へと導くであろう。もし善根がすでに熟した菩薩を度すことができたなら、それこそ非常に幸運なことであろう。

したがって、もしあなたがたが私に偏りがあるのを見たなら、不思議に思ったり誤解したりしてはならない。私が何故偏るのか、心がどこに偏っているのかを見るべきである。偏っているところには必ず大乗菩薩がいる。初発心の菩薩であれ、久修の菩薩であれ、とにかく菩薩であり、将来は仏となり、無量の衆生がそこから利益を得て解脱するであろうし、おそらく今現在も多くの衆生が密かに利益を受けているのである。もし私に偏りがなければ、平等心がなくなり、不公平な事が起こる。そのような心こそが偏っているのである。例えば、甲が百の貢献をし、乙が一の貢献しかしていない場合、私が同じ待遇を与えるならば、明らかに不合理で不公平、不平等である。

仏も同様に偏りがある。仏は大乗菩薩を偏愛し、仏子を偏愛される。誰が仏子か。初地以上の菩薩が仏子である。これらの菩薩は五蘊世間を解脱する智慧において、阿羅漢や辟支仏に及ばず、彼らと大きく差があるにもかかわらず、仏は地上菩薩を護り、彼らを実子と呼び、如来の家業を継がせる。一方、阿羅漢・辟支仏を焦げた芽、腐った種と呼び、決して声聞・縁覚は我が子、仏子であるとは言われない。仏が娑婆世界に来て衆生を度す時、そばに従うのはすべて仏が無量劫に度した各階位の菩薩たちである。これらの菩薩たちは他方世界に住んでいながらも、仏に随って十方世界へ赴き衆生を度化する。仏の随従衆の中に声聞・縁覚はいない。仏が娑婆世界で説法する際、声聞・縁覚のためにはわずか十二年しか説かず、菩薩たちのためには三十年以上も説かれた。三蔵十二部経の中には、ごく少量の声聞・縁覚の法しかなく、大部分は大乗菩薩の法である。説かれなかった法の中には、さらに非常に多くの菩薩の法が含まれている。

十五、心が塵労に縛られるより覚醒して道を修めよ

業力による突然の事故死は、心の準備がないため、一般的には容易に再び生を受けることはできず、生を受けることができなければ孤魂・遊魂となり、特に死ぬ際に遺体が損傷していたり全くない場合には、なおさら生を受けることができない。このような衆生は心に非常に帰属感がなく、恐れおののき不安で、大変苦しい。事故死した人は生を受けにくく、往々にして自分が死んだ場所で機会を待ち、あるいは方法を考えて新たな事故を起こし、新たに死んだ者の魂を借りて再び生を受けようとする。俗に言う「身代わりを捕まえる」である。自殺した者も同様で、身代わりを捕まえて初めて生を受けやすくなる。したがって事故が起こった場所では、その後しばらくして再び事故が起こり、繰り返し事故が起こる。地上だけでなく、空中、水中の事故も同様であり、多くの事故は衆生の執念によって引き起こされる。

これらの横死・事故死した人々を救い度し、できるだけ早く生を受けさせるためには、彼らのために念仏・読経し、回向して、彼らが道理を理解し、執着や執念を取り除き、彼らの福徳を増やし、彼らに生を受けたいと思えば受けられる機縁を与え、死んだ場所を守ってさまよい続けないようにすべきである。私たちは慈悲心を発し、時間を割いて今回の航空機事故の犠牲者のために念仏・読経し回向すべきである。もし彼らが一ヶ月以内に生を受ければ、以後同じ場所で再び事故は起こらないであろう。

誰もが遅かれ早かれ死ぬが、なるべく横死せず、事故死せず、最善は善終・正常な死であり、少なくとも全屍を保つべきである。そうすれば後世がうまくいく。良い死に方、善終も福徳によって感得され、善業によって招かれる。したがって私たちは日常生活の中で随縁に善を行い徳を積み、悪事をせず、人を損なうことは決してせず、特に三宝に対しては、護持できるならばなるべく護持し、護持できなくても誹謗せず、破壊する作用を起こさず、言行に欠けるところがなく、今生後世に重大な悪報を受けることを避けるべきである。

今回の航空機事故の犠牲者には、かなりの人々の人生はそれなりに円満で幸福だったのではないでしょうか。仕事・事業・家庭もかなり良く、羨ましいものだったのではないでしょうか。しかし結末はどうでしたか。数十年のいわゆる円満・幸福・快楽の後世は、千万年あるいはそれ以上の苦痛、流離失所、身心の不安、さらには色身を持つことさえ難しい状態である。したがって智慧ある人は、目を必ず長く放ち、構えを大きくし、視野を広くし、高く立って遠くを見据え、有生の力をもって永遠の安穏を勝ち取るべきである。賢く智慧ある人となり、目先の利益だけを顧みて、未来の無量劫の生死の苦痛を顧みない、目先しか見えず、心が狭く、心量の小さい人になってはならない。

どれほどの人が言い訳をするだろうか。「私は今はまだ出家できず、まだ修行に専念できない。世間にまだ責任と義務があるからだ」と。しかし、もしあなたの家族や親しい人が突然いなくなったら、あなたの責任と義務はどうなるのか。もしあなた自身が突然いなくなったら、何の責任と義務を語れようか。したがって、生きている間に、まだ精力があるうちに、本当に意義のあること、より長期的に役立つことをもっと行うべきであり、目前の数十年だけを顧みてはならない。数十年の時間は確かに非常に短くあっという間であり、未来の長劫は非常に長く、長くて計算できないほどである。あなたはこの数十年の人生の享楽を気にかけるべきか、それとも後世の長劫の安穏をより考慮すべきか。世間の事は、とっくに心が鏡のように澄んでいるべきである。何事がまだあなたの両眼と心の知恵を惑わすことができようか。智者は善く思惟すべきである。

十六、それほどでもない

山を移し海を埋め、偉大な工事、砂を払い石を運び、衆志城を成す;

高楼大厦、雄大で壮観、安居楽業、人生の栄華。

天から見下ろせば、蟻が巣を作る如く、群蟻が力を合わせ、砂を運び土を運ぶ;

巣は群れ居となり、卵を安んじて孵す、天災に毀され、巣を移し再び造る。

汝の偉大、我も劣らず、歴劫かくの如く、循環往復す;

忙しく一生を送り、終に寂滅に帰す、振り返って一望すれば、尽きぬ大空。

衆情これに執着し、全く気づかず、迷い争う、塵沙に過ぎず;

身生まれ身滅す、塵は幻、埃は亡ぶ、唯一不変のもの、一握りの土にも及ばず。

十七、修行を勧める

正月になると、農村では豚や羊を殺す。最後の食事を豚に与える時、豚は相変わらず嬉しそうに食べ、これが有生最後の食事だとは全く思わない。一生何もせずに過ごし、肥えた肉を養いながら命を失った。愚かな畜生ほど、悟りがない。人もまた同じである。人類のあらゆる災難は目の前にあり、明るく輝いて、全く隠れていない。山に頼れば山は崩れ、水に頼れば水は流れ、人に頼れば人は逃げる。何も頼るものはない。災難が四方に起こる中、それでもなお山を見、水を見、雪を見て遊び歩く心がある。遊べるなら遊び、楽しめるなら楽しむ。あたかも豚が最後の夕食を楽しむが如し。人と豚の違いはどこにあるのか。

一生は長いと思うな。それは錯覚である。天人から見ればわずか数分、数日である。自分はまだ若いと思うな。黄泉の路に老若はなく、白髪の人が黒髪の人を送ることは常に起こっている。自分は大丈夫だと思うな。大災難に遭う人の多くは自信過剰な人であり、ベッドの上で動けなくなって初めて悔恨の涙を流すが、時すでに遅しである。

仏法に出会っても、まだ悟らず、努力して修行し、生死の悲しみと苦しみの運命を変えようとしない。そんな人に何の薬があろうか。私が誰のことを言っているか、当人は知るべきである。もしまだ知らないなら、まさに豚のように愚かである。知っていながら改めないなら、何の良い言葉があろうか。

十八、いかにして自らの思惟を良く運用するか

 問:人が死ぬ時、身体の中の衆生は皆離れるのか? 死後、身体の中にまだ衆生はいるのか、特に無形の衆生はいるのか?

答:この問題を解決するには、まず衆生が他人の身体に憑依するのは何のためか、他人の身体を利用して何を達成したいのかをはっきりさせる必要がある。それから、人が死んだ後、身体がどうなるか、衆生にとってまだ役に立つかどうかを思惟する。このような思惟の順序に従い、すべてはっきりと思惟すれば、人が死んだ後、身体の中にまだ様々な種類の衆生がいるかどうかが明らかになる。

私たちは様々な問題に対して、必ず明確な考えの筋道を持つべきであり、思惟は論理性を備えていなければならない。これは問題を解決すること自体をはるかに超えている。もし思惟に論理性がなく、考えの筋道がはっきりしていなければ、たとえ一つの問題は解決できても、他の問題は依然として解決できず、すべて他人に頼らなければならず、誰に頼るのも自分に頼るには及ばない。自立こそが根本である。もし自らの思惟に論理性がなく、考えの筋道が常にはっきりしていなければ、なぜ自分がそうなのかを分析し、何が原因で自らの思惟力が十分でないのかを考え、次にその原因を解決する方法を考え、自らが非常に強力な頭脳を持って数多くの問題、あるいは重要な問題、あるいは浅明な基礎的問題を解決できるようにすべきである。

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