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四念処の観行体験

作者: 更新時間:2025-07-07 19:59:46

第一章 四念処観行の理論(2)

十三、如何に観行すれば心が空となるか

四念処を観じ、身念処を観じ、呼吸を観じて、既に一定の期間が経過したが、自身における呼吸現象に何か発見や体得はあったか。部分的な呼吸から全身の呼吸へ、呼吸の微細な点から全過程の観察に至るまで、何を観察し得たか。呼吸の生住異滅の無常性を非常に明らかに感知できたか。全身の状態に対して、生住異滅の感覚はあるか。色身に対する認識は幾分か空(くう)を感じるようになったか。

より真実の体得を得るには、観察過程において、意識的な思考分析を極力伴わず、客観的に感知し、自ら体得し、学んだ理論的知識は全て忘れ、純粋な個人の感知に徹する必要がある。観行する際は、高所から眼を据え、全体を把握した上で、再び全体を一点に凝縮して観じる。感受と融合せず、受覚のみに注視せず、身心を分離して感知し、心を身体から跳び出させ、感受から跳び出させ、呼吸から跳び出させる。心と身を完全に分離させて初めて客観的真理と事実を発見できる。俯瞰し、見下ろし、鳥瞰するように、あたかも自分とは無関係な客体を観るようにすれば、身体を客観的に見つめ、呼吸を客観的に見つめ、身体に現れる一切の現象を客観的に見つめることができ、こうして色身の生住異滅の現象を容易に発見でき、心は空となりやすくなる。

十四、如何に修道の良好な習慣を養うか

一定の時間と精力を費やして、幾つかの修道の良い習慣を養うことは非常に価値がある。丁度、量産のために時間と精力とコストをかけて型を作るようなもので、この段階では心血と時間を費やすが、一旦型が完成すれば、その後製品を生産する際には極めて多くの時間とコストが節約され、いわゆる事半功倍、少なくとも四倍から無数の倍の時間とコストが節約される。これは非常に価値があることである。修道の習慣を養う段階は非常に苦労が多く、成ったり敗れたり、進んだり退いたりして、継続して堅持するのは容易ではない。この時は傍らに人に督促してもらう必要があり、互いに伴って督促し合えれば幾分かやり易くなる。養う必要のある良い習慣にはどのようなものがあるかは、各自が自身の状況に基づいて意図的に選択し、法理と修行に合わない世俗の習気を改め、修道者の良好な習慣を養うことである。

観呼吸は観行の最初の着手点であり、正しい覚観と正知正念を養う比較的良い方法である。微細な観察力と反観力を養い出し、世俗の不良な習気を効果的に対治できる。日常生活の中で自らの心念にどのような変化があったか、人・事・物に対する態度に変化はあったか、心念は幾分か清浄になったか、色声香味触法への執取は軽減したか、幾つか不如意なことに出会った時は幾分か縁に随うようになったか、あまり批判的ではなくなったか、人間関係は幾分か改善され親和力が増したか、心性は幾分か善良になったか、心境は幾分か平和になったか、良くない心思いを用いる時は減ったか、人は幾分か篤実になったか、を点検する。

もし点検の後、自身に確かに上述の種々の変化があったと分かれば、それは修行が正しい方向に向かっていることを示し、四念処観行が有効であることを示す。絶えず様々な面から自らの心行を点検し、適時にまとめ、善を知り悪を知り、良好な成果を保持し安定させ、不良な習気を改善し、良い習慣を養う。こうして善根福徳はますます厚く積み重なり、戒定慧はますます増進する。

十五、昏沈定と清明定の区別

昏沈定とは、座禅時に一種の半睡半醒の状態にあり、朦朧として心が清明でなく、所縁境がなく、覚照力・覚観力・覚知力がなく、あたかも休息して心を養う状態のようなもので、身体は比較的快適に感じるが、観行の智慧はない。もし心中に所縁境がなければ、無念無想となるか、または昏沈して思考力もなく観行力もない。この定中に覚受を貪ると、禅定の進歩は非常に遅く、心境は幾分か良くなるかもしれないが、智慧の生起には何の役にも立たず、正定には属さない。昏沈定は正定ではなく、観行の智慧を生起させるのに十分な定力がなく、従って智慧力もなく、智慧力がなければ心中の無明煩悩を破ることができない。

一方、清明定とは、座禅時に内心が清醒で清明であり、心に所縁境があり、所縁境に対して覚照力・覚観力・覚察力があり、定慧等持であり、正定に属する。十分な定力を持ち、境界に対して智慧観照を生起させ、こうして無明を破ることができる。清明定は正定であり、定中に心は智慧の力を持ち、智慧の火花を生じさせ、煩悩を降伏させ、断除し、一念の無明を打ち破ることができる。

昏沈定中に心が正念を提起できれば、清明定に転換できる。清明定が長時間続き、心が疲れた場合も昏沈定に転換する。心の清明を保持するには、第一に身体を調順にし、気血を円滑にし、精神を充実させ、心中に正念を保持し失わないことである。身心は互いに依存し、身体の気血運行が円滑であれば、心は軽快で愉しく、入定し易い。そして心力が丹田に集中し、丹田が暖まれば、気血を全身に送り届け、気血が通れば心は定まり易い。

思惟観行中に昏沈定に入ると、観行は停止する。もし四念処経に従って修習し、心中に常に一つの所縁境を保ち、失えば再び拾い戻し、昏沈すれば清醒し、心中を常に清明に保てば、禅定と智慧の向上は共に非常に速い。心に禅定がある時、観行の法義は明晰明瞭である。禅定がない時は朦朧として甚だ明瞭ではない。禅定が阿含解脱と般若唯識の観行智慧を引生するのは、この原理による。ある者は曲解して、証果明心には禅定が不要であると言うが、物を探す時でさえ禅定が必要であり、定がなければ物がどこにあるか思い出せない。ましてや生死の大事を、どうして乱雑な心で解決し処理できようか。

十六、何を正念入息、正念出息、正念而住というか

現在観修している法に対して、専注し、一心で、雑念がないこと、これが正念である。正念とは即ち、現在保持すべき一つの念、現在の所観境と一致する念、また現量の念である。例えば、観行入息の際は、注意力の全てを入息に置き、始めに鼻の穴から息が入ってくる時から、息が丹田に運行するまで、全過程を専注して一心不乱に観じる。ただ客観的で単純な観であり、思惟分析推理想像等の意識活動はなく、ただ単純に知るのみである。他の法は一切意に介さず、心を用いず、身体の覚受がどうであるかも観ず、心念は覚受には置かず、ただ入息にのみ置く。出息の時も同様である。出入息の時は皆このようにする。他の如何なる法を修する時もこのようにする。これが正であり、正しく理に適った用功の方法である。心を専一にし、定慧等持し、偏らず、そうして初めて道に入る。

十七、正知而住の結果は何か

毎日毎時毎刻、一つの知を保持し、定があり慧があり、正知而住する。これは四念処経において仏陀が教えた観行の方法である。一つの知を保持する、これは意識の自証分であり、観る法を知り、絶えず観察し連続して知る。即ち意識を観察する一処に拘束し、心を散乱させず、禅定の状態に置く。意識が散乱せず、一法に定まるため、意根は意識を牽引できず、やむを得ず一法に定まり、再び多くの法に縁って散乱することができなくなる。すると意根は意識が観察し知る法を知り、意根はこの法を思量し、時が経つにつれてこの法の実質が何であるかを明らかにでき、真相を発見し真理を明らかにする。これは意識の知から意根の知への過程であり、また証法の過程でもある。意識の知は解であり、意根の知は証である。故に証法は必ず意根の証である。

意根が法を知り証して初めて実質的な作用力を持つ。例えば、自身の犯した過ちに対して、意根が知らなければ、意識のみが知る場合、次のような状況が生じる:意識は過ちを知るが、屡々犯して改めない。もし意根が過ちを知れば、痛く改めて前非を悔いる。また例えば、人に対する時も、人に対して本当に良いか偽りで良いかが発見し易い。意識は人に対して偽心偽意であり、意根が人に対してこそ真心実意である。

もし我々が真に自身の過ちを改め、貪瞋痴の煩悩を降伏させたいならば、時々刻々覚察を保持し、自らの身口意行を省察し、長期にわたり冷静かつ客観的に観察し、局外に立って観察し、高所から俯瞰して観察すれば、自身の過ちと貪瞋痴の煩悩を観察でき、自らの心行が非常に法にかなわないと感じ、法にかなわない結果が非常に良くないと知るようになる。意根も自らの煩悩習気に気づいた後、思量し、思量の後は権衡し、権衡の後は利害と因果を知り、それから貪瞋痴を改め、以前のようにはしなくなる決心をする。

もし長期にわたり一貫して観察思惟しなければ、意根を観察する法に定めることができず、意根は依然として到る所に攀縁し散乱し、法を知らず証さず、自身に煩悩があることを知らず、煩悩を降伏させることもできない。これが正知正念を保持する結果であり、意根の覚悟を呼び覚まし、意根に法を証させることができる。

ある者はなんと定を修めずに毎日観を叫んでいる。このような観で何が観られるだろうか。例えば、一人で十人の子供の世話をするのと、一人の子供に専念して世話をするのとでは、その細やかさはどれほど異なるか。一人で十方向の敵を観察するのと、一方向一箇所の敵に専心して観察するのとでは、その細やかさはどれほど異なるか。一人で同時に十の問題を考えるのと、一つの問題に専心一意に考えるのとでは、その細やかさはどれほど異なるか。もし禅定がなければ、意根は種々の法に到る所に攀縁し、比較的価値のある一つの問題を専一に思考する心がなく、この価値ある問題に対して理に適った観察と思量がなく、正しく理に適って認知できず、合理的に法に適って対処できず、容易に幾つかの問題を見落とし、決断に誤りを生じ、結果は誤りとなる。故に心中に常に一つの知を保持すれば、徐々に智慧の認知が生起し、こうして自らを変え自らの智慧を高めることができる。

十八、観行の過程と結果

観行呼吸を観じて心が静まった後、呼吸システムはあたかも自動化プログラムのように、無情物と大差なく、身外の物のようだと発見する。最後には身体も無情物のように我ならず我ならざるものだと感知する。これが修道の進歩であり、求めるのはこの効果である。今後さらに多くの新しい発見があり、この量変から質変に移行する。質変の時には、五陰身は全て虚偽幻化したものであり、無常無我の空であると発見する。徐々に心は肉身から離れ、感覚から離れ、自身は二つの部分に分かれる。一つは観られる無情の色身組織システムであり、あたかも硬直した機械のようである。もう一つは観る識心であり、動きは非常に遅く、情緒情執はますます微細になり、心境はますます安定し平静になり、受もますます少なくなり、ただ一つの単純な観と知のみとなり、覚察力はますます強大になり、心はますます微細に入り、発見する真相はますます多くなる。その後は能観と所観がますます機械的になり、ますます空になり、ますます無我になり、無明はますます薄くなり、最後に初めて無明を破り、我見を断除できる。

十九、観行の功夫と煩悩を断つ関係

如何なる法を観行するにせよ、証得しようとするならば、観行の功夫を一片に連ねる必要がある。如何にして功夫を一片に連ねるか。座禅の静止中に修成した禅定の功夫を、身体活動の中に延伸し、一日二六時中に延伸し、心心念念間断なくすることである。下座後も引き続き観行し覚知を続けられるか、行住坐臥中も皆観行し覚知を続けられるか、眠りに就く直前でも観行し覚知を続けられるか、更には眠った後夢中でも観行と覚知を続けられるか、一切のことをする時も皆観行と覚知を続けられるか、自らを注意深く観察する。もし自身の観行の功夫が断続的であり、心念がしばしば思わず世俗法に流注していると観察すれば、絶えず自らに注意を観行に転じるよう促し、断たれたら接続し、極力功夫を連続させる。

もし行住坐臥中、心念の全てが自らの色身上で観行しているか、或いは心念の大部分、主要な心念が自らの色身上で観行しているならば、このような定力は相当良いと言える。もし一切時中、常に覚知と正念を持つことができれば、功夫は一片に連なり、このような定力は未到地定を具足し、我見を断つには十分である。観行と覚知の功夫が一片に連なった時、心心念念が自らの色身上にあれば、再び心で戒を犯すことはなく、心で悪業を造作することはなく、この時心は清浄になり、煩悩は薄らぐ。故に禅定は煩悩を効果的に降伏させ断除できると言うのである。

見道の前には、必ず未到地定を具足しなければならない。未到地定を具足した時、欲界の粗重な五品の煩悩は断除され、この時は初果向となり、初果から遠くない。もし未到地定がまだ具足していないか、或いは全く未到地定がないならば、我見を断ち初果を証しようなどと思ってはならない。禅定がなくて証果できるなどというのは戯論であり、現実には成り得ない。

二十、実修は随時に成果を点検する

観呼吸の全過程は身体のみに用功するのではなく、心にも多く用功する必要がある。何と言っても一切の法を修するのは皆心を修めるためである。心は身体の主人であり、身体がある程度調理され、心に影響しなくなったら、心に用功する必要がある。心が調理され、安静になれば、身体もそれに従って調順になる。最後の功用は全て心にあり、身体はこれ以上多くを世話する必要はない。

観呼吸は心念心行と心性を変えるためのものである。下座後、人との交際や縁に触れ境に対する中で、日常生活における自らの心行にどのような変化があったか、人・事・物に対する態度に変化はあったか、心念は幾分か清浄になったか、色声香味触法への執取は軽減したか、幾分か縁に随うようになったか、あまり批判的ではなくなったか、人間関係は幾分か改善されたか、心性は幾分か改善されたか、心境は幾分か平和になったか、心思いを用いる人・事は減ったか、人は幾分か篤実になったか、人に幾分か親和感を感じさせたか、を点検する。身心はどのような反応か、どのような心境か、煩悩はどうか、心態にどのような変化があったか、これらは全て観行後の結果であり、最も問題を説明できる。

心量は大きくなったか、人を容れる度量は増したか、問題を長期的に巨視的に考えるようになったか、衆生への憐憫の度合いは増したか、責任感は強まったか、大菩提心は増したか、道心は堅固になったか。仏教と衆生に心を繋いでいるか。これらは皆修行を点検する内容である。もしまだ遥かに及ばなければ、見道にはまだ遠く、再び継続して努力し、精進して用功し心を用いる必要がある。要するに、様々な面から自らの心行を点検し、適時にまとめ、善を知り悪を知り、良好な成果を保持し安定させ、不良な習気を改善する。こうして善根福徳はますます厚く積み重なり、戒定慧はますます増進する。

二十一、修行四念処の功徳受用

大念住経に従って修行すれば、定力が絶えず増強され、修すれば修するほど益を受けると感じるようになる。行住坐臥において観呼吸・観色身を堅持すれば、心はますます静かになり、ますます微細になり、最後には色身の頭から足まで、内から外までの全ての変化現象を観察でき、心は非常に鋭敏で智慧がある。これらは皆禅定があるが故である。もし禅定を修めなければ、心は非常に粗雑で、色身の内外の如何なる状況も観察できず発見できない。特に自らの内心の貪瞋痴の煩悩、種々の無明は、第一に発見できず、第二に降伏できない。故に必ず禅定を修め、四念処を修め、観行の智慧を増長し、煩悩を降伏させ、悪業を造らぬか少なく造るようにしなければならない。

四念処の修行過程において、心はますます静かになり、静かであることが一定の程度に達し、因縁時節が具足し、一つの法一つの因縁に触れると、即時に反観と参究ができ、意根のあの言語文字や音声のない思量性が起用し、こうして直ちに霊感を得て、法を証得する可能性がある。禅定を良く修めれば、心は非常に伶俐で、専注力が強く、常に観る法に縁を置き、自らの身心の内外を知り、外に如何なる境界が現れても、心中にはっきりと分かっていながら、無視し心を動かさず、自我存在感がなく、自らを大したこととは思わず、内心に煩悩が現れても心中にはっきりと知りながら、煩悩に随って業行を造作することはない。これが禅定の功徳であり、心が清浄で、煩悩を降伏させられる。

煩悩が幾分か軽くなれば、世間への貪執は減少し軽減され、更に多くの時間と精力を費やして世俗事業に取り組むことを好まず、多くの事柄が重要でないと感じるようになり、一心に道に向かい、願力は広大になり、修行は正軌に乗り、見道は時間の問題となる。

二十二、修行四念処は無明知から明知への過程である

この四念処経は単に定を修める経典ではなく、止観同時に運行する経典でもある。止観の結果、智慧が生発する。この慧は即ち我見を断つ智慧であり、法眼が清浄を得、心が解脱する慧である。いわゆる解脱の慧とは、観察を通じて、観る法を如実正観し一定の程度に達すると、無明の知から明ある知に変わることである。元の知は法に対して明らかでない無明知であり、今の知は法の真諦を明らかにした明知であり、観るこれら一切の法、五陰身心が皆生滅する、無常の、変異する、苦の、空の、無我のものであると明らかにする。この時小乗の解脱智慧が生じ出し、貪瞋の煩悩を断除した後、心は解脱を得る。

故に四念処を観行するには、心中時々刻々一つの正知を持ち、しかも心が止まっている時の知であって、心が散乱している時の知ではない。この二つの知には区別がある。心が止まっている知には意根の知がある。心が散乱している時は意識が散乱している知である。散乱の知は皆無明知である。心が止まっている知は、無明が徐々に減少し、無明知から徐々に明知に転換でき、智慧を開き解脱を得られる。

心が散乱している時の知は、現れ出るのは皆意識の機能作用である。心が止まっている時の知は、意識のはっきりとした知のみならず、意根の明らかな知があり、意根の深い思量作用がある。そうして初めて我見を断ち、法眼清浄を得られる。これは仏が我々に教えた修行方法であり、意識心で思惟・分析・考量・比量・推理する方法は一切用いない。全ての法は現量で存在し、本来このようなものである。ただ知を保持すれば、一定の時が来れば、世間の真諦を明らかにできる。

観る法に対する無明知は、現象界に落ち込み、現象界を真実と認めることである。明知は現象界の生滅と不真不実を知ることである。中間の観行過程は重要であり、無明から明への転換は重要である。現象界の背後にある理を観察するのは明知である。意根が明知の時、必ず定慧等持の三昧が現れる。この過程は幾分か長くなるかもしれない。前世の基礎が弱いため、今世は多く苦労するからである。観呼吸の修習過程においては、楞厳経における周利槃陀迦(チューラパンタカ)の観呼吸方法を参考にすべきである。周利槃タ迦は観呼吸を鼻端から離れたことがなく、非常に専一で、最後には四果を証得し、更に四禅定も修出した。

二十三、明知と無明知の区別

無明とは内心の晦昧無知であり、五受陰の苦空無常無我を知らず、五陰世間の生滅変異を知らず、諸法の本質相貌を知らず、諸法が皆如来蔵によって幻化されたものであることを知らず、因縁果報の理を知らない。要するに、無明とは真実の理法を知らず理解せず、一切の妄法を我と我所として執取することである。これらの無明を伴った知は、無明顛倒の邪知である。

もし観行実証を通じて五受陰が苦空無常無我であることを証得し、諸法の真実理を実証し、無明を断除し、再び迷惑顛倒して一切の法を執取しなければ、こうして五陰に対する知、諸法に対する知は明るくなり、明知と呼ばれる。もちろん明にも階級の差別があり、段階と程度があり、最初の明と最後の明がある。明は次第に明らかになり、ますます明らかになれば、ますます智慧が増し、ますます解脱する。

明はまた意識の明と意根の明に分かれる。意識の明は比較的容易で、仏法を理解し通達すれば、意識は明らかになる。しかし意根の明は実証の後に初めて現れ、意根の明は理解や簡単な思惟によって現れるものではなく、必ず禅定の中で絶えず参究し、絶えず思量して、初めて頓悟し、頓時に明らかになる。意識の明は漸明であり、漸修すれば漸明となり、漸明は解の結果であり、真実の智慧ではない。

意識が理を通達するのも相当容易ではなく、故に意識が証果するのも同様に困難である。多くの者が考えるように、思惟し、解いて、それで意識が証果するというものではなく、それは意識の証果には程遠く、意根の証果には更に遥かに遠い。証果がそんなに容易なことか。無明はあのように深重であり、遮障はあのように大きく、煩悩はあのように重く、智慧はあように浅薄である。良き凡夫になるだけでも十分であり、もし自らを変えず、一部分の煩悩と無明を消し去らず、脱胎換骨しなければ、証果など語る必要はなく、証果には実に遠く離れている。

二十四、四念処の身受心法と五蘊の間の対応関係

両者は正に対応関係にある。四念処の身は即ち五蘊中の色蘊であり、四念処の受は五蘊の受蘊であり、四念処の心は五蘊の識蘊・行蘊・想蘊であり、四念処の法は五蘊十八界の修行の法である三十七道品である。故に四念処を観行すれば、五蘊は解脱を得る。

仏法は皆相通じ、殊途同帰であり、皆一つの道理である。ただ述べる角度が異なるだけである。述べる角度は異なるが、その結果は同じである。即ち我見を断ち解脱を得る。各自が修行時に選ぶポイントには差があるが、結果に差はない。如何なる一点から入っても、皆目的地に通じる。方法が正しければ、必ず究極の目標である高山の頂上に到達できる。高山の頂上に立って山下の四方を見れば、全ての道が頂上に通じており、山全体を一周する必要はなく、一つの道に沿って頂上に登れば、全ての道が一目瞭然である。故に成道した者は、何を問われても答えられ、どの道の衆生にも方向を指し示すことができ、大乗法・小乗法・世間法外道法・戒定慧、一切の修法を導くことができる。この時こそ名実相伴う善知識であり、徳才兼備である。

二十五、何故観行は我見を断つことができるか

例を挙げて観行という問題を説明する。例えば、子供は皆玩具が好きである。ある子供は一つの玩具を得た後、手放さず、何年も好きで飽きない。このような知能は懸念される。一方、ある子供は手に入れた玩具に好奇心を満たし、分解しては組み立て、組み立てては分解し、最後にこの玩具は所詮このようなものだと理解し、もはや興味を持たなくなる。そして別の玩具に替え、最後に他の全ての玩具に対しても皆このようになり、分解し分け、内から外まで見極め、見極めた後は好奇心や興味を持たなくなる。年齢と見識の増長に伴い、最後には如何なる玩具にも興味を持たなくなる。これはこの子供の心智が既に成熟したことを示す。

衆生は子供のようであり、五陰という名色の玩具も好きで、多生多劫、無数の無量劫を経ても手放さず、貪愛が止まず、五陰身に縛られて固く自在を得ず、苦痛を嘗め尽くす。如何にして束縛から解脱するか。心智が成熟した子供のように、五陰世間を分解し解き明かし、五陰の実質を見透かし、五陰は実は苦の、空の、無常無我のものであり、他には何もないと知るべきである。もし衆生に大乗の心智があり、五陰の実質が即ち空なる如来蔵であり、五陰のような法は全くなく、五陰は如来蔵によって出生された因縁所生法であり、因縁が滅すれば五陰身も滅し、自在を得られないと見透かせば、この心智は最も成熟していると言える。

大多数の衆生は五陰に執迷し、五陰の中に沈浸して自ら抜け出せず、玩具に執迷する子供のように心智が成熟せず、如何に五陰を分解するかを知らない。仏は一つの方便法を設け、衆生に如理如実に観察するよう教え、四念処の呼吸から観を始める。目的はまず呼吸に着手し、合理的に微細に五陰を分解するためである。如理作意して深く観行し、現地で現観する。これが最も簡単で効果的な観行方法である。

ある者は観呼吸を観じるうちに、五陰が観破られ、この一点から色陰を覗き見、色陰は苦空無常無我のものであり、これ以外何もないと見抜き、こうして身見を断つ。ある者は身見を断つと同時に、一気に他の四陰も共に分解し、五陰全体が苦空無我であると見透かし、こうして我見を断つ。心智が更に良い者は、五陰を内から外まで明瞭に、透徹して観察し、煩悩を頓断し、直接に四果阿羅漢を証得する。

故にこの観行は五陰を分解し小乗解脱を得る非常に良い方法であり、衆生であるこれらの子供たちの心智を皆早く成熟させ、こうして五陰を厭離し、生死の苦から解脱させる。肝心なのは観ることを会得し、観るのが如理如実であることである。これも衆生の心智と定力による。衆生の定慧に差があるのは確かであるが、急ぐ必要はない。長く観行を続ければ、日久しく功深く、遅かれ早かれ五陰を観透徹し、再びそれに惑わされ束縛されず、解脱は時間の問題である。

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