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四念処の観行体験

作者:釈生如更新時間:2025年02月27日

第五章 観行問答

一、問:身体のチャクラ図は存在しますか?

答:身体にはチャクラがあります。チャクラは身体の各経絡が集まる主要な箇所です。気脈がこれらのチャクラを通る際の感覚は全て体験しました。気脈が最初に身体のどの部位を通っても、相応の反応があります。身体の調子が悪いほど詰まりが深刻で、チャクラの箇所を通る際の感応がより強烈になります。詰まった箇所は通り抜けにくく、世間に伝わるチャクラ図は概ね正確です。

私たちの修行は宗派に拘らず、外道の法かどうかも気にする必要はありません。もし私たちに有益ならば、排斥する必要はありません。他宗他派も無価値ではなく、長所を取り入れることで多くの利益があります。私たちの身体と外道の身体構造は同じですから、修身段階で現れる現象はほぼ同様です。たとえ主動的に修身を望まず、修心を目指しても、座禅修行は身体の問題に関わります。これは避けられないことですから、修身に役立つ方法をある程度理解し、心に覚悟を持ち、対応方法を知るべきです。

私たちの身体は外道や他の宗派の者と同じ構造であり、チャクラも同じで、気脈の運行方式や経路も同じです。従って外道の法を排斥せず、理解すれば現在の色身がどういう状態かを知り、問題に遭遇しても驚いたり慌てたりしなくなります。外道は修身を主とし、私たちは修心を主とします。修心は修身を離れず、身体の気脈に関する知識と対処方法を理解し、自身の問題を解決します。その他のことは全て気にする必要はありません。

二、問:以前は主動呼吸でしたが、昨日から自然呼吸にしたところ、呼吸が短くなりました。なぜでしょうか?

答:呼吸が長くなろうと短くなろうと気にする必要はありません。心が呼吸に専念すれば、禅定と観行は相続して増長します。気脈が通れば、呼吸は自然に深く細く長くなります。禅定があれば全て順調で、身体の状態も変化します。観呼吸は呼吸の状況を一心に観行することで、他のことは考慮せず、余計なことを考えず、自身の呼吸状態を明らかにすればよいのです。経文には観行の手順があり、第一段階が未完成なら第二段階に進まず、先へ進んではいけません。一定期間は一つの法のみを観行し、多くを観ると心が乱れます。定力が一定水準に達した後、徐々に観行内容を増やせば、心が乱れることはありません。観行時には呼吸を観る以外、法に対する理解や感想などは無用です。心で多くを考えず、観呼吸を妨げないようにします。

三、問:最近日常生活でも呼吸に集中できるようになりました。時々道を歩きながら呼吸に専念すると、内心から理由なく喜びが湧き起こります。3年前にもこのような感覚があり、座禅後に全ての細胞が愉悅を感じ、他人にどんなに罵られても受け入れられましたが、1ヶ月余りで消え、最近また現れました。なぜ喜びの現象が起こるのでしょうか?

答:禅定の功徳の一つは、心に喜びを生じさせ、内心を愉悅させることです。心の念いが専一になると四大を変化させ、身体が健康で軽やかになり安楽で快適になります。それ故、心は影響を受け喜びが生じ、精神が愉快で煩悩がなくなります。心の喜びは三十七道品の一つである喜覚支です。喜覚支の後には猗覚支が生じ、身心が軽安になります。猗覚支の後には定覚支が生じ、身体が軽安した後、禅定の覚知が現れます。定覚支の後には捨覚支が現れます。喜覚支は煩悩を降伏させ、軽減します。

人が歓喜する時、他人に穏やかで瞋らず、寛容で度量が大きくなり、性情が変わります。心が喜び善となるのは、福報から生じた善です。故に三十七道品は大小乗修行の必由の路です。三十七道品を修めなければ、心性は変わらず、煩悩を断じられず、証果や明心を得られません。なぜ心が専念した後、全身の全ての細胞が喜びを感じるのでしょうか?四大の変化は細胞の最も基本的な粒子から始まり、細胞の四大が変わると、心は快適で愉悅喜びを感じるからです。

四、問:最近2回の座禅で空を観じると、身体に強い圧迫感があり動けず、ほとんど制御を失いそうになります。今日は気が両腕に詰まり、前腕が痺れて重労働をしたようです。調整が必要でしょうか?

答:腕の痺れや腫れは詰まりがある箇所で、気血が通りにくい状態です。座禅しない時は気の運行が良くないため何も感じませんが、気が満ちると詰まりに遭遇し反応が現れ、病障が出現します。打通すれば病障は消えます。身体に圧迫感があり動けないのは気が満ちている証で、気が満ちるほど身体と両腕を打通しやすくなります。耐えられるなら続け、おそらくすぐに腕の脈絡が通じるでしょう。座禅中に現れるあらゆる現象は気脈の問題、気血の運行の問題だと知れば、身体にどんな現象が現れても憂慮せず、徐々に調理すれば全て良くなります。これらの事柄に拘りすぎないでください。

五、問:座禅中に気機が持続的に発動し、頭部から離れない場合はどうなりますか?

答:気脈が頭部に留まるのは発動した気が満ちて力強く、同時に頭部に阻害があり気機がまだ通れない状態です。阻害がなければ気脈は通じ、気機というものはなくなります。この時耐えられるなら続け、耐えられない時は気が頭頂の百会穴から出るよう観想するか、座を下り頭部を叩いて気を散らします。しかし散らしても頭部を再び衝撃し、完全に打通して初めて解決します。頭部が完全に通じない場合、気機は過ぎ去るか消散し、その後前方の任脈へ循環し、任脈から督脈へ、再び頭頂へ至ります。中脈に入り頭頂から出れば、全身の気脈は完全に打通し、身体に障害はなくなります。以後禅定修行は何の妨げもなく進むでしょう。

頭部の気脈が通じ、気血循環が良くなれば、思考は非常に明晰で精力が充実し、智慧が開けます。一部分でも打通すれば非常に良いことです。気脈が通じ心が清浄なら、身体は香気を発し、非常に香ばしく心情は愉快で、楽しく憂いがなくなります。これらは生滅法であり、執着する必要はありません。今禅定が生じ、観行ができれば十分です。気脈のことに拘りすぎず、成り行きに任せてください。

六、問:普段の座禅では心を一点に縁じます。更に縁点を増やす場合、心は同時に二点を縁じるのでしょうか?

答:縁点を増やすとは、最初は定力が強くないため、鼻腔の気流現象を観察するだけで十分です。定力が増強した後、気の運行に従い観続け、気が気管・胸腔・丹田などの部位に入る状況を観察します。定力が増せば観行の通路を少し延長し、注意力を気息に沿わせます。更に定力が増せば、気の運行に順応して観察し、同時に身体各部の状況を観察し了知します。気息が散開する時も同様に観行します。これは漸進的な観行で、定力の強弱によって決まります。定力が不足するなら鼻腔内の気息のみを観れば良く、自身の定力の強弱に応じて観行の縁対象を加減すべきです。

七、問:昨夜単盤で座禅し、心経を唱えて心を静めた後、観呼吸を始め、次第に半睡状態に入りました。約30分後、身体が快適で軽くなり、徐々に振動が始まり次第に大きくなり……自分を制御できなくなり、呼吸がなくなり身体が揺れ、目が開かず、心拍が速くなり息が止まりそうに……心ではわかっていますが制御不能で……非常に恐怖を感じ、死ぬかと思いました。声も出ず動けず、やっと倒れ込み、長い時間をかけて平静を取り戻しました。これはどういうことですか?

答:最初に定を修める時、心が静まると気脈の運行が良くなり、気機発動の現象が起こる可能性があります。これは全身の脈絡を打通する好現象で、身体を良く調理します。もし身体の状態が非常に悪いなら、急に入定せず、徐々に少しずつ調理し、突然の変化に適応できないのを防ぎます。

入定と出定の初期は自ら制御できず、身体が気機に制御され、自分で動かしにくい状態です。時間が経つにつれ和らぎ、自分で制御できるようになります。身体の気機が発動する時は、ただ安心し何もせず、心は空に近づけるほど良く、ただ自分を空に委ね、空を捨て、敢えて空になり、空になれば問題はなくなります。

八、問:座禅中に現れる様々な状況、例えば仏像が見えるなど、どのように対処すべきですか?

答:あらゆる境界は虚妄です。座禅中にどんな現象が現れても理会せず、来る者は迎えず去る者は見送らず、仏像を見ても喜ばず恐れず、人が来て殺そうとしても理会せず、仏も魔もなく全て幻像です。ただ観呼吸を続けてください。もし境界に執着し真実と見なせば、偏りを生じ魔境に入りやすく、処理が困難になります。

九、問:呼吸の出入りに従い、意識を呼吸に置いています。どうすれば頭部を観行できますか?

答:観呼吸時、観る対象は常に呼吸です。頭部を観る必要はありません。縁点は専一で持続的であるべきで、定慧が同時に相続して生じます。そうでなければ散乱し、観慧が生じず、観ないのと変わりません。観行とは事実を観察し、あるものを観察し、あるがままを知ることです。ないものを想像せず、事実を尊重します。現量の法の上で初めて現量の智慧が生じます。想像したものは全て違います。観行はまず注意力を集中させる訓練であり、難しいことではありません。

十、問:現在双盤で1時間半から2時間行い、腹式呼吸を用い、自然呼吸で意念を導かず、気息が微弱で昏沈しやすく、止息入定が困難です。観呼吸時、吸気をできるだけ遅く長くし、可能なら息を止めてから呼出しますか?腹式呼吸と胸腔呼吸どちらでも良いですか?

答:両方の呼吸法とも使用可能です。最初に修習する時、修習方法が身体に有益なら入定しやすいです。しかし修習時間が長くなり、入定し観行を起こしたい時、意識的に息を止めると深い禅定は得られず、観行思惟もできません。非常に熟練し、もはや息を止める必要がなくなって初めて観行できます。

十一、問:今日40分ほど座ると、脚から腰にかけて震えが断続的に現れ、座を下りるまで続きました。震動中は少し快感があり、以前はなかった現象です。これはどういうことですか?

答:これは心が静まった後、身体の気脈運行が順調になり、気機が発動した現象です。気機は最初よく丹田から発し、丹田から全身へ運行します。運行速度と経路は人により、時により、身体状況により異なります。欲界定と色界初禅定の発動は、身体の気機発動を離れられません。即ち禅定は色身の運転活動を離れず、色身に障害がなくなって初めて欲界定と色界定を発起できます。

将来色界の初禅定が発起する時も同様に、身体の気脈が運転活動します。その力は人為的な意念で発するものではなく、身心が一定の静けさに至った時自然に生じます。性障煩悩と念いが生じると障害が現れ、身体の気機が退くと初禅は消失します。故に初禅定は座禅を離れられず、多くは座禅中に発起します。活動中の禅定持続時間は短く、保持が困難です。

修定が身を離れられない以上、座禅を離れられません。座禅は修定の基礎であり、後の深定は更に座禅を必要とします。座禅は気血を集中させ順調に運行させ、身心を安穩にし、定を得るのが速く安定します。座中の禅定を基礎とし、色身の活動中に初めて禅定を生起保持できます。座禅せず活動中のみで修定すれば、第一に禅定が生じにくく、第二に生起後保持が困難で、第三に深定がなく、第四に観行が困難です。

「修道は腿に在らず」と言う人がいますが、これは誤りです。腿を降伏できなければ身を降伏できず、身を降伏できなければ心は真に長く静まらず、禅定は現れにくく、長く保持できず、深く入ることもできません。歴代の祖師と禅定学人の修行がこれを証明し、諸仏菩薩や阿羅漢辟支仏たちの修行過程もこれを証明しています。

十二、問:気血虚の人が座禅すると、気血は更に虚するか、それとも良くなりますか?

答:座禅自体には気血を調理し、身体素質を改善する作用があります。身体に病気があれば、座禅は気脈を規則的に運行させ、気血を活発にし、体内の病気が体表から排出されます。一見病状が悪化したように見えますが、実際は内部の病が外部に出たため症状が顕著になります。座禅を長く続ければ、身体の全ての病気は好転し、身体素質は向上します。

十三、問:道端で人を待つ時、心を一念に集中します。合掌すると10~15分で身空を感じ、呼吸は微細で長く、心は安らぎます。手を下げて立つと、身体が何かに挟まれ動けず、特に両腕が固定され次第に感知できなくなります。活動すると心は失念し、念を提げると頭部に刺痛を感じます。この不安定な状態は問題があるのでしょうか?座禅の功夫が足りず、身体に異常が生じたのですか?

答:これは初歩的で良好な禅定状態です。禅定を修め始めた時、身体は禅定中に自在に活動しにくく、硬直した感じがして動きづらいです。無理に動かせば、心理的に苦しいか身体のどこかが苦しくなります。禅定を繰り返し修習すれば次第に適応し、身体は自在になります。禅定中に身心共に自在に出入りするには、絶えず禅定を修習し、熟練すれば良いです。静止の禅定は修めやすく保持しやすいですが、動中の禅定は修めにくく、あっても保持が困難です。静止の禅定が深まって初めて、動中の禅定をある程度保持できます。

十四、問:念を提げ観行する時、心には常に縁があり、呼吸のみを縁とします。しかし気の流れは断続的で、流れる経路も不明瞭、速度も速く、気流の形象も見えず、一瞬で過ぎ去ります。どう処理すべきですか?

答:心念が呼吸を縁とする時、最初は無意識に屏息現象が現れ、屏息時は気流が中断したように感じます。禅定がまだ不足している時、心はやや粗く、より細かな法や現象を観察できず、気がどこを運行しているか分からず、失念しやすく気流の速度に追従できません。この時は更に禅定と観行力を深める必要があり、焦らず、成果を急がず、焦る心があれば心が乱れ、禅定の生起を阻害します。禅定の功夫は徐々に具足し増長し、量変が質変に至ります。禅定が一定水準に達すれば心は細かくなり、観察する法も深細になります。

十五、問:座禅中、脳神経が弾かれたように震えを感じます。どういうことですか?

答:これは気脈が脳部に運行し、脳の気血を通している状態です。その箇所に淤堵があるため、気が通る時に震動感を覚えます。気の運行が強ければ感覚は顕著で、疏通効果も良くなります。身体の他の部位も同様で、感覚が顕著なほど詰まりが深刻で、気脈の運行が強力です。

十六、問:部屋の埃は普段見えませんが、日光が差し込むと見えます。座禅も同様で、普段は妄念が多いと意識せず、座禅で心が静まった時初めて気付きます。部屋に差し込む一筋の陽光のようです。なぜ座禅中に自身の妄念が多いと観察できるのですか?

答:誰もが普段から妄念が多く、大小様々な細かい念が数え切れず、来ては去り止まりません。心念が集中せず、あるいは心が清浄でないため、これらの念の生滅を観察できないのです。心念が清浄で定力があり、念が集中すると、心の念が非常に多いことに気付きます。陽光が部屋に差し込むように、心が静まり光を放ち智慧が生じ、妄念と煩悩を照見します。故に禅定は素晴らしく、精力を集中させ、反観力を与え、心を細かくし、普段発見できない問題を発見します。問題を発見すれば解決方法が生まれ、智慧が得られます。

誰もが普段非常に煩悩が多いですが、慣れきって感じなくなっています。暇な時、反復自身を観察する余裕ができ、初めて内心が煩悩だらけだと気付きます。自身に煩悩があると知れば対策が立てやすく、遅かれ早かれ慚愧心が生じ、心力が満ちればこれらの煩悩を降伏できます。自身の煩悩を知らないのは、煩悩がないのではなく、心がまだ非常に散乱し、心静かに自心を反観する余裕がなく、内心がまだ覚醒していないため、自身の煩悩を発見し認めることを望まないからです。

十七、問:座禅後、身体が数斤痩せたように軽く感じるのはなぜですか?

答:身体の気脈運行が順調になり、四大元素が変化したためです。気は上へ漂う性質があり、気が満ちると身体が上昇し、身体が軽く感じ重さを覚えなくなります。歩くのも軽やかで音もなく、意気盛んで威儀が自然と生じます。また気血が通じれば、身体の余分な老廃物と水分が体外に排出され、身体が痩せて軽快になります。

十八、問:身体が特に怠く、動きたくない場合はどうすれば良いですか?

答:身体が怠く動きたくないのは、体内に寒湿気が圧しているためです。身体を構成する四大種子の微粒子で水大が多く火大が少ないと、身体は重く感じ活動する力がなくなります。朝起きられないなら寒湿気を排除する方法を考えます。また気血が通じないと身体は重く感じ、怠くなります。座禅を多くして気血を疏通し、寒湿気を排除すれば良くなります。

十九、問:最近脚が攣ります。座禅で足首関節炎を引き起こしますか?

答:座禅は病気の原因ではなく、隠れた病状を見つける方法です。身体の一部に元々病気がありますが、まだ顕現していないだけです。座禅中に気脈が病状部位を運行し阻害されると、隠れた病気が現れます。関節炎や脚の攣りは座禅中に現れる一時的な現象で、気脈が通過すれば脚など病のある箇所は治癒します。ただし病状が深刻なら薬物治療を行い、早期に疾病を克服すべきで、無理に我慢してはいけません。

二十、問:以前師父に教わった深呼吸法では、腹式深呼吸で吸気を満たした後息を止め、呼出し、暫くして繰り返します。これは主動呼吸でした。昨日主動呼吸をした後、自然呼吸を観察し始めると、呼吸が次第に軽く微細になり、深長ではなくなりました。これは正しいですか?

答:最初に観呼吸する時、呼吸が短く障害があるなら、主動深呼吸法で呼吸を調節します。呼吸が均等になり、心念が清浄で身心が軽安してから自然呼吸に移行します。これで正常な観呼吸モードに入り、色身に障害がなくなります。自然呼吸で心が非常に静まると、呼吸が微細に感じられ、呼吸がないかのようです。呼吸が深く長くないのは功夫がまだ至らず、身心がまだ清浄でないためです。功夫が熟練すれば良くなります。

二十一、問:今日午後の座禅では、気機がすぐに発動し、身体が軽く虚空と融合したように感じ、内外なく身体・目・胸部などが呼吸しているようで、開放的な呼吸で空中に浮いていました。心に一念が起き実家に帰り、何かが私を後ろへ押し飛ばし、死ぬかと思いましたが気にせず(第七識に任せようと思い)、その後後退は止まり、月明かりが大地を照らすのを見ましたが依然気にせず、最終的に座を下りました。身体は終始飄々としていました。

答:身体のこれらの感覚状態は全て禅定の境界です。心が静まると身体の四大は自然に変化し、身体は軽安を感じ空中に浮かぶようになります。色身の変化は更に心を変化させます。心が境界で転ずるのは一種の定境で、心が空になって初めて現れる状態です。理会せずに正解です。定境に入る時間は長くせず、定中の観行を主とし、観行を主軸にします。

二十二、問:観行で身体の大部分の感覚がなくなり、呼吸も微弱になります。更に観行を続けると身体と呼吸が感じられず、暗闇に入ります。この時どう観行を続けますか?

答:これは定境に入り、意識が微弱で観呼吸できなくなった状態です。観行を続けたいなら、心を定境から引き出し呼吸に戻します。心は依然呼吸を縁とし、呼吸の状況を観察します。呼吸がどれほど弱くても観続け、粗い呼吸から胎息を観ます。定境に入らず、定慧等持でなければ我見を断証できません。定に偏れば修身に有益ですが、仏法修行の目標ではありません。

二十三、問:観呼吸時、意識は観ると同時に他の妄念を監視します。この修法は正しいですか?

答:これは意識が念を追い、念に転じている状態です。念は元々虚妄で留めておけず、妄念を監視するのは無駄な労力で必要ありません。妄念は自生自滅に任せ、心を刃物の切っ先のように使い、有益な労力に費やします。意識が他の妄念を監視せず、呼吸のみに専念すれば、禅定がより早く進むか試してみてください。

二十四、問:昨日観呼吸中、呼気が非常に長く海底輪まで達したように感じました。これは正常ですか?

答:正常な現象です。気息が丹田を通り海底輪に達し、気脈の運行が良好であることを示します。心が清浄で身体に障害がない証です。気息は全身各所から出入りし、身体表面の毛穴からも出入りします。気息だけでなく、体内の物質と周囲環境の物質、四大は全て互いに交流し影響し合い、薫染し合います。これが所謂磁場で、双方向の磁場です。故に誰もが周囲環境に責任を持ち、正向のエネルギーを放つべきです。同時に負のエネルギーと悪い磁場を避け、正気を満たす必要があります。

二十五、問:座禅中お腹にガスが溜まり、排出も消化もできません。どうすれば良いですか?

答:座禅は身体を調理します。体内の老廃物や毒物は廃気として排出されます。ガスを排出したいのにできない場合、体内にまだ詰まりがあり、湿気が阻害している可能性があります。熱量の高い飲食や生姜湯で身体を温め寒気を追い払えば、廃気や膨張ガスは排出されます。

二十六、問:座禅中ただ呼吸を観察し、できるだけ呼吸を導かずにいると、ふと呼吸システムが自動機械のようで、少し死肉のように感じました。これは何の現象ですか?

答:これは修道の進歩で、修道の初歩的効果です。定中の観行はまさにこれを求めます。今後更に多くの新発見があり、この量変が一定水準に達すれば質変が起こります。質変とは智慧の観照が生じ、五陰身が全て自動機械のように虚偽で幻化し、無常無我であることを次第に発見し、最終的に我見を断てます。故に観行は単に観るだけで、現量の観察です。意識の主張や考えを加えず、徐々に無始劫以来発見できなかった事実と真理を発見します。真理を発見するには、注意深く観察し、観る法に専念するだけで、時が経てば自然に成就し、法に含まれた事実が現れます。

二十七、問:観呼吸の後半、背骨が引っ張られるように感じ、時々百会穴に気流を感じます。どういうことですか?

答:これは心が静まり、気息の運行に障害がなくなったためです。気脈が丹田から尾閭穴へ、更に尾閭穴から背中の督脈を上昇し、背中を真っ直ぐにします。気脈は頭部に衝撃し百会穴を衝き、最終的に百会穴から体外へ出ます。これは身体の任脈と督脈が通順で、身体が比較的健康で心も静まっている証です。禅定が良好で、四念処観行に有利です。

二十八、問:呼吸を縁とし、離言状態を保つ方法と、気息が鼻・五臓六腑・丹田に入るよう観想する方法、それぞれの利弊は何ですか?

答:前者は四念処修行の規則に合致し、禅定を生じやすくします。後者の方法は心念が動くことが多く、心が乱れやすく、初心者で定力が浅く慧力が弱い場合は効果がなく、観想が不得手で心が散動し、禅定を増長しにくいです。定力が深く観慧が強いほど、修めれば修めるほど定は深まり慧は強まります。後者の方法は気の運行を導けますが、導き方を誤ると身体に問題が生じやすいです。最も安全な方法は気息の自然運行に任せ、経験者なら可能です。観行を始める時は意識で気息を導かず、ただ観察するだけで、呼吸の運行と変化過程を観察します。全過程をより微細に観察すれば、禅定と智慧が生じやすくなります。

二十九、問:なぜ禅定中の観行は智慧を生じ解脱を得るのですか?

問:観はどうして慧を生むのでしょうか?例えば観呼吸では初期は呼吸の動的軌跡を観るだけで、観注力を強化するのみで智慧は生じません。極度に深い禅定で粗い呼吸が止まって初めて呼吸が無常法だと証得します。しかし誰もが人の呼吸が最終的に止まる無常法だと知っています。また白骨観では座禅せず観じても、誰もが人の屍骨がいつか塵となり虚空に帰すと理解できます。誰もが知っている道理をなぜ観じる必要があるのか?そこからどんな智慧を得るのですか?

答:意識は全てを理解していますが、この理解に何の役立ちますか?意識は貪瞋痴の煩悩を持つべきでなく、煩悩業行には悪報があると理解していますが、この理解に何の役立ちますか?意識もどうすれば仏になれるか理解していますが、この理解に何の役立ちますか?誰もが意識で理解することは、最終的に何を解決しますか?衆生が死に生まれ生まれ死ぬこと、色身は捉えられず頼りにならないと皆知っていますが、依然として色身に貪着します。故に意識の種々の理解は偽の理解で真の迷いであり、全く実質的な問題を解決できません。

もし身口意行を主導する意根が理解しなければ、意根はどうして無貪瞋痴煩悩の清浄業行を主導できましょうか?どうして正しく理に適った方向と目標を選択し仏法を修学できましょうか?意根が呼吸などの五陰活動が生滅無常だと証得しなければ、どうして五陰無我を証得できましょうか?意根が五陰無我を証得しなければ、どうして無我の清浄業行を主導できましょうか?清浄業行がなければどうして仏になれましょうか?意識は人が最終的に白骨になると理解していても、意根は理解せず、身を執着し、身を我と見做し、生死を流転させ続けます。

故に禅定を精勤せず、呼吸を観察せず、白骨観を修習しなければ、意識がどれほど理解しても結局無我を得られず、主導して解脱を得られません。全ての禅定修習と観行功夫は意根を薫染し、意根に理解を促します。意根が一旦理解すれば、三昧の智慧境界が現れ、この種の智慧があって初めて心解脱し、智慧解脱し、智慧で仏となります。意根が理解しなければ三昧智慧境界がなく、解脱を得られません。禅定を修めず、観行を精勤せず、意識の知解に満足するなら、これは生死業障凡夫と変わりなく、業種が変わらなければ命終後も業種に従い生死輪廻で苦報を受け、因果法則を現前させます。

三十、問:最近2回の座禅で目から涙が流れ、口元まで達しました。以前は片目だけでした。どうすれば良いですか?

答:目は肝臓と密接に関係します。目から涙が出るのは、第一に肝病を排出する現象、第二に気脈が後脳の勝義根を通り目の病気を排出したためです。目やにがあれば肝火が排出された証です。具体的状況に応じて対処するか、あるいは放置し、静坐を強化して気脈を自然運行させ、全ての病障を排除します。

三十一、問:座中に骨の関節接合部で氷が溶ける感覚、あるいは溶けた氷水が一箇所から流れるような、清涼感か何か分かりませんが、気持ち良いです。これはどういう状況ですか?

答:これは気血が関節部を通り身体を調理する自然反応です。元々関節部に寒湿気や老廃物の詰まりがあり、気血がそこを運行する際、寒湿気や老廃物を一部持ち去り、関節部が疏通され快適に感じます。同時に病気による不快感も混在します。あなたの身体は比較的健康で病障が深刻でないため、深刻なら痛みを感じ、座禅できなくなることもあります。

三十二、問:観呼吸中、色身全体が大きく感じますが、呼吸の状況は観られず、仏像が現れ念仏できます。最近観呼吸で2回この状態になり、座を下りると非常に楽ですが、以前より寒さに弱くなりました。どういうことですか?

答:身体が大きく感じるのは欲界禅定に入ったためです。欲界禅定があれば欲界天人身が現れ、天人身は大きく軽やかで快適に漂います。定境に入ると境界像が現れ、例えば仏像が現れ、心が清浄で仏を感応します。定境に入ると現れた境界に注意が向き、呼吸を観られなくなります。全ての境界は虚妄で貪着してはなりません。さもなければ偏りを生じ、境界に引きずられ帰路が分からなくなります。仏が定中に現れても同様に虚妄で、執着してはいけません。

古代の文喜禅師は炊事中に飯釜の上に文殊菩薩が現れるのを見て、飯杓子を振りかざし追い払おうとしました。文殊菩薩は「修行に三阿僧祇劫を費やしたが、老僧に嫌われるとは」と言い、文喜禅師の心が空で相に着かないことを称賛しました。しかし心が空で悟っていない者は絶対にこれを真似てはいけません。心が空でなければ仏菩薩の相があり、仏菩薩に不敬があれば罪過になります。

禅定中、意根は身を執着せず、全身が通じ毛孔が微開するため、冷気が体内に入り寒く感じます。寒さを感じるのは禅定で気血が通じ毛孔が開き、虚空中の空気と密接に接触するためです。この時は衣服を多く着用し、座禅中に腰脚をしっかり覆います。気脈が完全に通じれば寒さを感じなくなります。

三十三、問:なぜ私が静まると呼吸が短く遅く感じるのですか?最初は心が静まっておらず、呼吸は比較的長く感じました。静まった後、身体に自然呼吸させると、気息は丹田に届きません。しかし呼吸を制御し故意に吸気を長くすると、また静まらなくなります。

答:心が静まると呼吸に専念し、この時無意識に呼吸を制御しているか、呼吸を気にしすぎている可能性があります。自在に入定し心が静まれば、気息は長くなります。自然呼吸で気息が短いのは、身体の気脈運行がまだ通じておらず、座禅修定の功夫が不足している証です。更に座禅修定を強化する必要があります。

定力がないか非常に弱い時、呼吸を制御すると心念が散乱し、心が静まらなくなります。制御する呼吸は自然な呼吸状態ではなく、制御しないのが正常な呼吸状態です。ただし身体を調整し気脈を順調に運行させるため、自主的に比較的集中して深呼吸訓練を行い、気息で五臓六腑を打通し、同時に禅定を深めることができます。

三十四、問:座禅観行時、気流が鼻腔咽喉部を通ると摩擦音がし、その後喉が炎症を起こし治りません。どうすれば良いですか?

答:その箇所が詰まり気血が通じず炎症が生じています。深呼吸念仏法で調治し、鼻腔と咽喉の通路を打通します。咽喉部を叩いたり刮痧も可能です。時々意念が過度に集中すると、火がその箇所に集まり散ら

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