四念処の観行体験
第三章 白骨観の観行体験
一、三昧は意根の現量境界(一)
如峰の白骨観日誌:座禅の後半、眼前に血管内の血液の流れが明瞭に見え、見たくなくても脳裏に浮かぶ。下座して目を閉じ手を擦る際、赤い塊が現れ、中に橘の房のような蠕動する果肉が見えた。さらに手を擦ると赤い塊が白く輝き始め、立体的な画像が現れた。拡大された毛孔と毛髪、表皮屑、赤い腫れ物と炎症を起こした毛孔が明らかで、非常に不快感を覚えた。下座後の手擦りで画像が現れる現象は何か。
評:この観行日誌に描かれた現象は定中独影境に属し、定境法塵である。定境法塵は独頭意識の現量了別によるもので、比量でも非量了別でもない。初めて入定座禅で白骨観を修する時は、独頭意識の非量的な想像によるが、長年の修練により意根が染まり、意根の現量によって白骨観境界が現れる。
意根の現量が現す境界こそ三昧境界である。三昧には禅定と智慧が含まれ、定慧等持の境地を指す。この観行の結果には必ず智慧が生起する。智慧のないものは最終結果ではなく中間過程である。定中独影境は意根が現量で現じたもので、独頭意識が再び現量で白骨現象を了別する。意根が染まると自らが認知する境界を現量で現じ、意根が認知する境界に従い如来蔵が境界を現じ、独頭意識がその境界を了別する。これが三昧境界である。
三昧境界では定が極めて強く、慧もまた甚だ強い。定は専注を意味し、慧とは何か。ここでの慧は五陰身の肉体が白骨の集まりであることを認めることである。意根がこれを認めると白骨観が成就するか、あるいは中間過程が成就する。最終段階では白骨を微塵に化し、やがて微塵も消滅する。これら全て意根の現量証得による境界である。
下座後もこのような定境法塵は存在するか。心が散乱しなければ依然として定中にあり、三昧状態にある。行住坐臥において常に白骨が現れる。前五識では了別できず、五倶意識も了別不能。独頭意識のみが了別できる。三昧境界は全て独影境であり、個人が独自に修得したもので、公共の外法塵や外五塵とは無関係であるため他者は見ることができない。
全ての三昧、定境の三昧であれ定慧等持の三昧境界であれ、全て意根によって発起される。意根が染まっていなければ智慧は生起せず、三昧境界も現れない。念仏三昧の定境においても、意識で念仏し続けることで意根を染ませ、意根が自発的に念仏するようになる。定境では意識が疲労を感じ念仏を止めても、染まった意根は自動的に念仏を続ける。これは無言無声の念仏であり独影境である。独頭意識のみがこれを聞くことができる。意根は意識の意向に関わらず自ら念仏し、意識が制御しようとしても不可能となる。これが念仏三昧境界である。
念仏三昧境界にある時、行住坐臥の一切の動作に際し、念仏の声が耳元に響くように感じられる。実際は心中に現れる音声のない意念である。念仏の声は意識の発するものではなく、意識が念じなくても聞こえ続ける。これは意根の念仏に従い如来蔵が念仏の声を現じ、意識の制御を超えて現れる。意根に言語文字はないが、独頭意識は念仏の声を了別し、聞きたくなくても聞き続けなければならない。
我見を断じて証果する時、法眼浄の三昧境界が現れる。これには未到地定と苦空無常無我の無生智慧が含まれる。この智慧は意根によって現じられる。意識が日常的に観行で意根を染め、意根が四聖諦の理を思量し、最終的に五蘊の苦空無常無我を証得する時、法眼浄の三昧境界が現前する。禅定中に意根が如理の結論を思量し、智慧が生じる。この三昧は意根が現じ、独頭意識が現量了別する。故に一切の実証法は意根と意識の現量証であり、意根と現量が相応する。比量や非量ではなく、意根が主動的に現じた法こそ現量であり三昧である。
意根が我見を断じ証果した後、三昧境界にあると覚明の現象が現れる。三昧がなければ覚明は現れない。覚明は意根が従来知らなかった境界に触証し、興奮と驚喜によって引き起こされる。意識では発現しない。覚明が現れる時は禅定三昧状態にあり、禅定がなければ覚明もない。三昧中は煩悩が極めて微弱で、ほぼ現起せず、身心軽安となり、睡眠が減少する。禅定中は気血が円滑で、精気満ち欲望が伏せられ、睡眠蓋がなくなり、一日三四時間の睡眠で足りる。これら全て意根の現じる三昧境界である。
明心の場合も同様で、意根が本心を証得すると三昧状態に入る。行住坐臥全て定中にあり、般若智慧が生起する。煩悩は極めて微弱で覚明が現前し、身心は軽安で快適自在となる。睡眠も極めて少なく、心神満ちて眠りを思わず、愉悦の心境にある。この状態が全て三昧境界に属する。
更に真如三昧というものがある。これを証得する時も同様である。真如三昧は無生法忍の智慧境界、即ち道種智・唯識種智に属し、初心の開悟者が証得できるものではない。初地に入って初めて証得する。真如三昧とは一切法の真如性と唯識性を証得することである。
一切法において自らの本心の運びを見る時、一切法が真如の性質であることを知る。一切法即真如となる時、初地に入る。法無我を分証し、無生法忍を分証し、一真法界を分証し、大乗の解脱を分証する。これを分証即仏と呼ぶ。この段階に至って初めて真如三昧が現前する。初地以前には一切法の真如性を証得できず、唯識種智がなければ一切法上の真如を見ることはできない。真如三昧の智慧は極めて深細である。これ以前には無生忍の般若智のみあり、唯識智はない。無生忍の智慧は真如三昧の智慧に比べればはるかに浅い。
思考問題:平常全く見えない現象が、座禅中に何故見えるのか。どの識がこれを見るのか。見ているのはどのような境界か。座禅しない時も見えるか。
二、三昧は意根の現量境界(二)
白雪雪の白骨観行日誌:朝、目を閉じて座禅中、右足首に痒みを感じた途端(目を閉じた状態で)、足首の痒い部分が糜爛しているのが見えた。観想で指で撫でると全身の肉が脱落し、骨格だけが残った。ただし黒赤い血糸と肉糸が掛かっており、白骨観の最終段階のような真っ白な骨ではなかった。
これは白骨観の中間過程に過ぎないと考えた。まず皮膚が剥け、次に肉が落ち、筋と骨が残る。段階的に現れるもので、無から突然白骨を観じることはできず、修練は段階を追って進む。これは中間段階であり、さらに進んだ境界が現れた後、初めて白骨が現れ、その時白骨観が成就し証果する。
評:観行を始めた当初、独頭意識は非量的な方法で徐々に契入する。あるいは非量的な方法で求証しようとする。眼識と意識では白骨を見ることはできず、独頭意識が身体を白骨と想像する。これは非量である。この非量で意根を染めていく。結果が事実であるため、いずれ意根は事実を見る。染め成功すると意根は身体を白骨と認め、白骨境界が現量で現れる。これが意根の現量観である。
五蘊を観行する場合も、独頭意識の非量から意根の現量証得への移行がある。例えば過去世と未来世の色身を観ることは意識の非量想像に属するが、最終的に意根が染まって成就すると、過去未来の五蘊が空であることを証見し、五蘊無我を認めて証果する。
何故事根の現じる境界は全て現量か。意根の全ての認知は如来蔵によって現じられるためである。如来蔵が現じる法は如何なるものであれ、意根は直接縁じて知り認める。故に意根の了別は現量境界であり、比量や非量はない。この時独頭意識も現量的に認知する。意識の観行には現量がない場合もあり、比量や非量もあり得るが、意根が染まると必ず現量境界の認知となる。
現じられた白骨観境界から観察し、三昧境界から考察すれば、誰が先に法を証するか明らかである。必ず意根が先に法を証し、独頭意識が後で現量了別する。意根は瞬間的に頓悟し、智慧が生起する。以前の智慧認知とは全く異なり、この時突然膝を打ち「なるほど」と悟る。これは驚きと新知見の獲得を示し、従来の認知を覆す頓悟である。
一切法の証得には必ず三昧境界が現れる。頓悟の時は三昧境界が現前する。漸悟的に理解する場合は、意識が思考を重ねて徐々に理解するが、究竟的には明らかにならない。意根の証得は明快で、虚偽のない現実である。
白骨観の三昧境界を含む全ての三昧境界は、五識が如何に努力しても見えず、五倶意識も見えない。独頭意識のみが現量了別できる。白骨は五識では見えず、五倶意識も見えない。独頭意識と意根が現量智慧を持つ時初めて見える。六識が白骨を見られない段階では、白骨観は非量的観行であり、白骨を想像するに過ぎない。白骨が実際に現前する時、独頭意識と意根が共に現量了別する。これにより全ての証は現量境界であることが分かる。比量や非量の憶測による境界には証がなく、三昧境界もない。証果と明心、一切法の証得は全てこの原理に従う。実証と推理思考の関係を明らかにすれば、その後の修行方法も自ずと明瞭となる。
三、定果色は意根の現量実証境界
白雪香の白骨観行日誌:朝、目を閉じて座禅中、右足首に痒みを感じた途端(目を閉じた状態で)、足首の痒い部分が糜爛しているのが見えた。観想で指で撫でると全身の肉が脱落し、骨格だけが残った。ただし黒赤い血糸と肉糸が掛かっており、白骨観の最終段階のような真っ白な骨ではなかった。
これは白骨観の中間過程に過ぎないと考えた。まず皮膚が剥け、次に肉が落ち、筋と骨が残る。段階的に現れるもので、無から突然白骨を観じることはできず、修練は段階を追って進む。これは中間段階であり、さらに進んだ境界が現れた後、初めて白骨が現れ、その時白骨観が成就し証果する。
評:上記の白骨観境界は全て定中に現じられた境界であり、定果色と呼ばれる。禅定によって引き起こされた現量境界で、実証境界である。意識の想像や思考作用は一切なく、全て意根の現量観行境界である。意根がどのような思想観念を持ち、どの法を認めるかによって、現じられる境界が決まる。虚偽はない。主導識の力はこのように強い。定中で足首の肉が糜爛し脱落する現象は、意根の現量認知境界であり、意識の想像では現じ得ない。
白骨観が意識の思考憶測に依存する場合、意識が身体を如何に思おうとも、身体はそれに従わない。意識に勢力がなく主導権を持たないためである。定果色は意根によって現じられ、決して意識からは現じられない。ただし意識は白骨観の初期段階で、意根を観行境界に導く役割を果たし、意根を染める重要な働きをする。
上記の観行は確かに観行の過程である。白骨観は未完成で、骨は十分清浄でなく色彩も白くない。これは観行者に未だ業障が残り、心が清浄でなく、禅定力が不足していることを示す。更に深い観行が必要で、白骨観を完成させ我見を断じ、法眼浄を得るべきである。
四、問:白骨観が真に定境に入り白骨が現前する時、呼吸はあるか。長年白骨観を試みるが、常に意識の妄想に留まり、意根境界の骨相が現れない。これは染習不足か。
答:呼吸が止まるのは四禅以上の定境に限られる。四禅以下には呼吸がある。白骨観の修習過程は通常初禅以下の禅定(初禅を含む)で行われるため、呼吸がある。白骨観が現前する時も初禅以下の三昧境界にある限り呼吸はある。二禅以上では覚観がなく白骨観は現れない。故に白骨観三昧が現れる時は必ず呼吸がある。
白骨観の全過程は独頭意識で観じ始め、継続的に意根を染めていく。意根が観じるようになると定果色が現れ白骨観三昧が現前する。これが白骨観の実証であり法眼浄を得る時である。意根がどの程度染まったかで白骨観境界の深さが決まる。染まっていなければ白骨観三昧は現れない。
五、観無量寿経の日想観で白骨観を修習できるか。
観無量寿経の日想観と白骨観の修法は同様で、難易度もほぼ同じである。観想による求証方法は全て似通っている。日想観以降の地想観・水想観は難しいが、日想観自体は比較的易しい。ただし観想成就には数年を要し、途中で放棄する者も多い。
真の修行は容易ではない。如何なる三昧の証得も難しい。修行を放棄し生死(しょうじ)に流転する方が却って苦しい。比較すれば修行の方が容易で楽である。修行の難易度は本人次第で、途中放棄する者は意志力が弱く、修行体験がなく前途が見えず、世俗法でも挫折しがちである。
白骨観は数年かかる。早くて2~3年で成就するが、根器による。娑婆世界で優れた根器の者は極めて少ない。観像念仏の観想も方法は同様だが、観る対象が異なるため証得も異なる。五陰空を観ずれば小乗果を証し、大乗般若唯識を観ずれば大乗果を証する。大乗観行は出発点が高く、小乗観行の基礎が必要である。日想観成就は証果・明心と直接関係ないが、禅定力が向上し、他の法の観行成就が早まる。
観無量寿経十六観の第七観で初めて明心する。前三観の三昧境界現前で極楽往生が保証される。白骨観成就は我見を断じ初果~四果を証得する。観像念仏成就は単なる明心を超え初地に至る場合もある。個人の智慧証量・禅定証量等の総合的条件による。観行の着手方法は大差ない。
六、白骨観修習の過程
問:最近、全身骨格のイメージと骨格写真を対比し観察している。身体各部の骨格が家財道具のように鮮明に浮かび、身体が動くと脳裏の骨格像も連動する。心境が安定し散乱が減った。この観行は正しいか。
答:これは白骨観の準備作業で、全て意識が行う。意識が資料を収集・整理・分析し、白骨像を推測想像する。しかし如何なる作業も現量ではなく、三昧は現れない。意識が如何に白骨を確認しても現量的三昧境界は現れない。観無量寿経十六観を想像するのと同様、意根が観熟していない限り、最も簡単な日想観三昧すら現れない。
意識の作業は秘書業務に似る。資料を整え意根に提出したら、後は指示待ちとなる。意根が資料を重要と認めれば他の仕事を止め専心研究し、次第に真相を悟り智慧が生じ三昧が現れる。
上述の意識の初期作業は基本的に正しい。骨格構造の対比観察は意根への情報伝達と染習である。現時点で初歩的効果があるが、更に意識の観想を強化し、意根の攀縁を減らし集中力を高める必要がある。意識の観想が明晰で定力十分となれば、意識は努力を緩め、身念処に安住し意根の思量に任せる。修練を積めば自然に三昧境界が現れる。
意識の初歩的推論・整理・分析を究極の証果法と見做すのは浅はかである。これらは我見断絶とは程遠い。意識に作用を求める方法は、現量実証のある禅宗祖師が厳しく斥けた情思意解である。智者はこれを究竟と見做さない。意識の思考法が盛行すれば、大乗小乗共に邪道に陥り、仏教の実証は滅び、知見のみ残り、遂には仏教そのものが滅びる。
現代人は福徳智慧に欠け、祖師が捨てたものを拾い尊ぶ。しかし意識証果の推奨は仏法破壊である。これを行う者は速やかに懺悔修正すべきで、さもなければ結果は計り知れない。真の丈夫は過ちを直ちに改める。証果の有無は如来蔵が決定する。事実に合致すれば如来蔵が聖人相応の果報を現じ、否定は無効である。同様に事実に合致しなければ凡夫の果報しか現じず、如何なる印可も無効で、大妄語の果報を受ける。得失を弁えるべきである。
七、何故白骨観で我見を断じ初果~四果を証得できるか
凡夫は無始来の無明により、禅定智慧がなく、五陰及び一切法の観察が表面に留まる。色身を実体視し、識心の作用も実体と見做し、その苦空無常無我を知らない。白骨観修習で定力が深まるにつれ、観察力が強まり微細となる。色身の生滅変異を明瞭に観じ、身空の真相が現前する。全身の肉体が白骨となり、遂には白骨も空となる。これにより身見・我見を断ずる。
観行過程全体が三昧状態にある。色身の骨相・空相は自然に現れる現量境界で、意識の空想ではない。一切の三昧は意根が発起し、意根の現量智慧認知境界である。意識の比量・非量は混じらない。三昧中の意識は受動的知覚に過ぎない。三昧以前に意識が能動的に観察し意根を導くと、禅定が深まり初期的三昧が現れる。意根が如実に法を見れば智慧が現れ、真の定慧等持三昧が現前し証果する。
禅定なき意根は色身五陰に専注できず、真相を見られない。白骨観は禅定を生じ、禅定が智慧を引き出し我見を断じ証果する。初め不可能に見えた白骨が心中に現れる時、定果色の白骨を見て色身非我を知り、定慧等持の三昧が現れ法眼浄を得る。
八、相続不断の観行は意根の功夫
白雪香の白骨観日誌:四念処観身不浄の法義を学び始め、法医学解剖ビデオとチベット天葬画像を参考にした。夜静かにこれらを見ていると、意根が意識の視覚に随い「肉体は我ならず」の念が生じた。当初は身不浄観のつもりだったが、常に「肉身は我に非ず、幻我、仮我、操り人形」と結論づけた。就寝時も起床時もこの観念を維持した。
約二年後、昼寝から目覚めた時(未だ目を開けず)、足裏の肉が砂のように流れ落ち、膝まで肉が消失した。夢かと思い目を開けると覚醒していた。再び目を閉じると肉体が砂のように流れ、頭蓋骨だけが残った(骨は黒かった)。情執(親族への執着)が原因と分析し、最近その突破に努めた。四念処共修で単座禅中、脚骨の肉が裂け、全身の肉が徐々に脱落するのを見た。赤い筋が未だ残っていた。
評:白雪香の観行は相続不断である。法義が意根に落ちた時、功夫は継続する。昼夜問わず観行可能で、夢中でも意根が単独で観行する。意識の功夫は断続的だが、意根の観行は連続的である。長期間の観行で色身認知が変化し、色身非我を悟ると肉が骨から脱落する。これは初期的三昧境界で、我見断絶の三昧まで後一歩である。因縁が整えば速やかに見道する。
これは白骨観の実例であり、観行者を激励する模範である。精進を続ければ功夫は進展し、必ず我見を断ずる。個人の因縁、特に発心と福徳による。大菩提心を発し、苦からの出離を願い、戒定慧を修すれば功夫は向上し、遂に証果する。
九、苦を滅する方法
問:白骨観・不浄観三十六物を自身で観じると、観じた部位が緩む。執取が薄れ緩むためか。
答:その通り。身体の緊張は執取による。部位を執取すればそこが緊張する。故に身体状態は心情に左右される。情緒を去り心を緩めれば身体も緩む。三十六不浄物を観じる時は、自己の身体でない物件を観る如く客観的に行う。身体を執取せず心を空にすれば身体は柔軟となる。禅定現前時も身体は柔らかくなる。
白骨観・不浄観は苦を滅する。自身の三十六物を観じれば、観じた部位が緩む。対象への執取が薄れ心が緩むためである。身体の問題は結局心の問題である。心を空にすれば多くの問題が解決する。日常生活に執着せず、求めず、選ばず、執取しなければ、楽に過ごせる。如何なる境遇も受け入れ、一心に道を求めれば苦はない。得道者は境遇如何に拘わらず苦を持たない。五蘊世間が空と知り執取せず、縁に随って用いるからである。
身心の苦受は全て意根の執取による。執取なき時苦受はない。心の結縛も執取による。結縛なき時心境は広大自在となる。苦受を感じたら、何を執取したか反省すべきである。一切の苦には因があり、根本因を解決すれば苦果は滅する。
十、戒定慧同時修行の実例
耀霊の止観日誌:連休中外出し親戚を訪問。常に白骨観を提起し、心中に白骨像を保つ。人に接する際は礼儀を守り寡黙で情緒を控え、煩悩を減らした。夜の座禅では心の乱れが少なく、呼吸観・念仏が容易に入る。日中執念が多いと、水が氷る如く、夜の座禅で溶かすのに時間を要する。
「観身不浄」が因で「我相・人相・衆生相なし」が果ではなか。『金剛経』は「観身不浄」を説く。人我相なき時貪瞋痴の基盤がなく、対誰に起きようか。心は平淡安定を保ち易い。『楞伽経』で不浄観・白骨観を「凡夫の行う禅」と説く。我ら凡夫は正念を提起すべきである。
評:この修行は戒定慧を完璧に統合した好例である。戒は煩悩不起・礼儀遵守・心境平淡。定は心乱れず呼吸観・念仏が容易に入る。慧は速やかに観行状態に入り、経典の理で自己を調伏し禅定を向上させる。慧で定を導き、定で慧を生じ、定慧円融である。戒定慧が更に増強されれば我見断絶に近づく。
戒を保てぬ者は対境で煩悩を起し、自ら苦を招く。他人の指摘を嫌い怨むなら、修行とは程遠い。戒なき者は禅定も成就せず、世俗・仏法共に智慧なく煩悩に悩む。
十一、何故実物観察は空想より観想し易いか
実物は五識・五倶意識・意根の現量認知がある。意識が経験したものは想起し易い。未経験のものは意識・意根共に現量がなく、非量想像に頼るため観想が困難。従来の白骨観修習者は実物がなく禅定のみに依った。現代は骨格模型で日常観察し、観想を深めれば修得が容易である。