日常法話集録
第十章 意根心所法
一、意根に念心所法と煩悩心所法があることの証拠
ある人が頭の中でずっと一つの問題について考えていて、突然自分の頭の中の念頭に気づいたとき、非常に驚き、さらには盗人猛々しいような感覚を抱き、急いで首を振ってその念頭を振り払い、自分はどうしてこんな考えを持つのだろうと思うことがある。
この事例から、一人の人間には二つの心念があることが分かる。一つの心念の考えは自主的に生じ、ひそかに運行しており、これは意根の心念である。もう一つの心念は、最初は最初の心念に気づかず、突然気づいたときに驚きを感じるもので、これは意識の心念である。これは二つの心念が一致しておらず、意識と意根の思想観念は完全に同じではないこと、二つの心が常に相通い相知り、調和のとれた状態にあるわけではないことを示している。これはまた、意根の心念は常に生じることができ、意識に制御されないこともあれば、時には意識に制御されることもあることを示している。意識が発見した後に間違いだと感じて意根にフィードバックすると、意根は一時的にその心念を断つ。今後また生じるかどうかは、意識の制御力と説得・薫染の効果次第である。意根はなぜ常に念を起こすのか。どのようにすれば意根に仏法の念、参禅の念を生起させ、大乗・小乗の疑情を生起させることができるのか。
一般の人の意識は定慧が不足しており、意根の心念を容易に覚察できない。自分にどんな考えがあるのかも知らず、しかし知らず知らずのうちにこれらの考えに駆り立てられ、うかつにいくつかの事をしたり、いくつかの言葉を言ったりして、覚めてから後悔することになる。もし意根の心の中に人を殺す念頭が現れたとき、意識が覚察した後に突然はっとし、恐れと疑いを感じるなら、これは意根に瞋心があることを示している。意識はそれを知らず、いったん覚察すると、自分にこんな考えがあるのかと考える。その後二者が交流し互いに薫染し合い、意根の心念が優位に立ち、意識が服従を決意した後には、徒党を組んで人殺しの計画を立案・実行することになる。
盗みの計画の立案と実行も同様で、意根が主導権を握り、意識が服従して補助する。貪瞋痴の煩悩の悪業行の造作はすべてこのようにして現れる。もし意識に貪瞋痴の煩悩の心念が現れても、意根が清浄であれば、意識の心念は長くは続かずに消えてしまい、忘れ去られることさえある。これは意識が外界の環境から薫染された邪念であり、意根が本心を堅持していれば、意識の心念は浮雲のごとく、散ろうと思えばすぐ散る。もし意識が持続的に染汚した環境に接触し続け、邪念が絶えず現れ、一定量の蓄積に達すれば、意根は薫染されて連れ壊されるかもしれず、その結果は意識とともに貪瞋痴の煩悩の染汚業を造作することである。それゆえ、人が身を置く環境はその成長に大きな役割を果たし、その思想観念に大きな影響を与える。善を選んで住むことによってはじめて善に従い悪を避けることができる。
煩悩が生生世世にわたって継続し流転し続けることは、意根に煩悩があることを証明している。六道の生死輪廻は意根に煩悩があることを証明しており、十二因縁法は意根に煩悩があること、しかも一切の煩悩があることを証明している。衆生が生まれながらに煩悩を帯びていることは、意根に煩悩があり、一切の煩悩があることを証明している。もし意根に煩悩がなく、ある種の煩悩がないならば、一切の煩悩あるいはある種の煩悩はどのように現れたのか。いつから現れ始めたのか。
二、薬師経により意根に善悪性があることを証明する
薬師経原文:像法转时。有诸众生。为种种患之所困。长病羸(léi)瘦。不能饮食。喉唇干燥。见诸方暗。死相现前。父母亲属。朋友知识。涕泣围绕。然彼自身。卧于本处。见阎魔使。引其神识。至于阎魔法王之前。然诸有情。有俱生神。随其所作。若罪若福。皆具书之。尽持授与。阎魔法王。尔时彼王。推问其人。计算所作。随其罪福。而处断之。
解釈:像法の時期、衆生は福が薄く、過去生および現世に造作した悪業の種子が成熟して、悪業の果報に囚われ、長い間病に臥し、身体は痩せ細り、食事が喉を通らず、口が渇き舌が乾き、何を見ても暗く光なく、死相が現前する。その父母や家族は泣きながらその身を取り囲む。しかし病人の身体は病床に臥しているが、その神識は黒白無常の厳鬼に押送されて閻魔王の前に至る。病人の倶生神は、自分が一生に造作した罪福の業をことごとく顕現させ、閻魔王に呈示する。このとき閻魔王は病人を尋問し、その造作した業行の罪福の多寡を判断し、その業報を定め、その行き先を決める。
有情衆生はすべて倶生神を持っている。これは常に存在して滅したことのない主宰識である第七識意根を指す。無常の小鬼が人を捕らえるのも、作主識である意根を引いて閻魔王のところへ導くことである。閻魔王の前では、すべての人の意根が自動的に自分の一生の所作である福罪の業行を顕現させる。閻魔王は神通があるので、心を用いるだけでその人の造作したさまざまな業行を知り、銀幕上の影像を見るように速やかに閲覧し終えると、閻魔王は審判を始める。
これは、罪福業・善悪業を造作したのは意根であり、審判されるのは意根であることを示している。生きているときの意識はとっくに滅しており、意根について閻魔王のところへ来ることはできず、意根とともにあるのは中陰身の中で臨時に生じた意識である。これは意根に善悪性があることを示している。さもなければ、善悪業はどのように現れたのか。このとき意識はすでに滅して起用しておらず、たとえ起用しても意根の走り使いと助手であり、意根の事を補助するものである。閻魔王は意識を相手にせず、意根だけを探して罪福業および業報を判別する。
人が死ぬか、あるいは半死・仮死のとき、意識はほとんど働かない。意根はどんな状況であっても、永遠に衆生の主人公であり、作主識である。死後あるいは仮死の後、意根は業力に牽引されて閻魔王の前に至る。閻魔王は意根の罪福業を閲覧し終え、まだ少し福が使い切っておらず、まだ死ぬべきではないと見ると、この人の意根を陽間の色身の中へ送り返し、この人は生き返る。生き返ることは意根が色身の中に戻ったことを表し、さらに意識を呼び出して活動させる。
閻魔王は死人を審査するにあたり、死人の主人を探すことを知っており、死人の助手や手下を探さない。債にはその主があり、業にはなおさらその主がある。糊塗な者だけが部下や助手、小者、雑役、使用人、乳母の類を探しに行くのである。それゆえ、意根は一切の善悪無記業を造作することができ、善悪性を具え、善悪の心所法を持っている。
三、意根の作主機能は意根に善悪性があることを決定づけている
意根は一切法を黙って容れる。これは意根が一切法と相応し、相合し、相融し、相縁することを意味し、善悪法を含むので、これはよく理解できる。もし意根が善悪法と相応しなければ、意識はどうして善悪法と相応することができるのか。意根が相応せず縁しない法があれば、意識はどうして相応し縁することができるのか。
意根の実際の機能作用から言えば、もし意根が無記性しか持たないなら、洗濯や炊事といった無記業は意根が作主して択択するものであり、善事をして人を助けることを楽しむことは意根が作主して択択するものではなく、盗みや強盗、妄語も意根が作主して択択するものではないということになる。それは、意根が一部の法に対してのみ作主し択択でき、別の一部の法に対しては作主も択択もできないということである。では、何が意根を一部の法にのみ作主させ、別の一部の法には作主できないようにしているのか。意根が作主できない別の一部の法は、意識が作主したのか。意識も作主識になったのか。意根を切り離し、法を切り離すなど、そんな道理があるだろうか。
もし一人の善人がいるとして、意根が善なのか、意識が善なのか、それとも二者とも善なのか。もし人の善が意識だけの善であり、意根が善でないなら、意識が滅した後、意根だけが残ったとき、この人はこのときまだ善人なのか。意根が善でなければ、このときはもう善人ではない。一人の善人が眠って意識がなくなったら善人でなくなるなら、その人が行った善事はどう算定するのか。このことは非常に奇妙ではないか。まったく信じがたく、どう考えても筋が通らない。
この道理に従えば、善人が死んだ後はこの生の意識は永遠に消滅するので、なおさら善人ではありえない。一生善行を行った人が、死んだのに誰も彼を善人と認めない。悔しくないだろうか。もし国家のため、人民のために死んだのであれば、それは光栄ある死でもなくなる。光栄である意識がなくなったのだから、彼に光栄ある称号を追贈することもできず、その家族に精神的・物質的な補償を与えることもできない。もし一人の善人がその意識の消滅とともに、意識の行ったすべての善挙と貢献がそれに伴って消滅するなら、残った意根が善でないため、今後善人は死を最も恐れ、二度と軽々に犠牲を払おうとしなくなるかもしれない。また、睡眠や昏倒を恐れるかもしれない。意識が一たび滅すれば、善人のレッテルと名誉が消滅し、死後も善道に行って福を享けることがないからである。逆に、悪人は死ねばもう悪人ではなくなり、三悪道に行かなくて済む。悪行はどれほどお得なのか。このようなことは本当に筋が通らない。それゆえ、善人の意根には善性があり、悪人の意根には悪性があり、あるいは善人と悪人の意根はともに善悪性を具え、無記性を加えて三性がある。
もし意識だけが善悪を持ち、意根に善悪がないなら、一人の善人が芝居で悪人を演じて悪行を行うとき、この役者は果たして善人なのか悪人なのか。仕事の中でも日常生活の中でも、人によっては特に偽装に長けており、表では一套、裏ではまた別の一套で、表面上は正人君子のように振る舞い、その行為は褒めざるをえないほどだが、裏では陰謀诡計をめぐらして人を陥れる。ではこの人は果たして善人なのか悪人なのか。
衆生が善行を行うか悪を造作するとき、それは明と暗が揃う時節であり、六識は明にあり、意根は背後の暗所にある。二者はどのようにして綻びなく配合し連携しているのか。表面では六識が善行を行い悪を造作しているように見えるが、意根は何をしているのか。どんな心行なのか。どのように運作しているのか。これらの善悪事に対して主宰するのかしないのか。意識にまかせて作主させ、善悪業を造作させるのか。意根はどのようにして六識を出生させ運作させるのか。どのようにして六識をちょうど運作される善悪法の上に出生させるのか。これらの事が観察できないなら、どうして意根に善悪の心行がなく善悪性もないと断定できるのか。
四、意根が一切法を黙って容れることは意根に善悪性があることを示している
楞厳経第四巻原文:如意默容。十方三世。一切世间出世间法。唯圣与凡。无不包容。尽其涯际。当知意根圆满一千二百功德。
解釈:たとえば意根は黙って容れることができる。十方世界の過去・現在・未来の三世の一切の世間法と出世間法、勝義諦であれ世俗諦であれ、聖人の法であれ凡夫の法であれ、すべてその中に含まれ、一切法の際限を尽くす。それゆえ、あなたがたは知るべきである。意根は一千二百の功徳を円満していると。
黙とは、黙々と、ひそかに、声を立てないという意味である。容とは、容納し、受け入れ、具え、作意し、触れ、想い、思惟し、相応し、縁じ、知り、見るという意味である。なぜ意根は黙ってひそかに一切法を縁じ、一切に接触し、一切法を見、一切法を知り、一切法を排斥しないのか。黙々としているのは、意根が話すことができず、字を書くことができず、文字・言語・声によって自分の心行を伝達し顕彰することができないからである。ひそかであるのは、意識がほとんどの場合、神様を理解せず、知らず、神様の心行と運作、および神様の功徳を知らず見ないからであり、それゆえひそかと呼ぶのである。もし意識が意根の功徳と一切法の上での運作を完全に明らかにできるなら、ひそかではなくなる。
意根が一切法を容れることができるというのは、一切法を縁じ、容納し受け入れ、一切法を了別し、一切法を知り見ることができ、一切法の上でその五遍行心所法を運行させ、一切法と相応することができるという意味であり、もちろん善悪法とも相応し、善悪を容れることができ、自ら善性と悪性を具えている。意根の能縁と所縁の一切法の範囲は極めて広大で辺際がなく、意識の所縁の法は意根の所縁の法と比べものにならず、二者とも如来蔵の所縁の法ほど広大ではない。
意根の所縁のこれら一切法には何が含まれるのか。まず十方世界三世の法であり、これは世俗界において空間的範囲が最大であり、時間的範囲は過去・現在・未来で、これも最大である。最大の時空の中で意根の所縁の法には一切の世間法が含まれる。すなわち如来蔵が七大種子を用いて生成した後有の法、たとえば色法、心法、心所有の法であり、また世間の中で運行し顕現しなければならない出世間法も含まれる。たとえば如来蔵、仏性、真如、および聖人の行う道である勝義諦、第一義諦であり、聖凡ともにその中に含まれる。一切法の際限まで、意根がこれ以上縁じられない、如来蔵のみが単独で縁じられる法、および世間相を具えず世間の中で運行しない法までである。
意根はこれほど広い範囲の法を包容できるので、すでに世間の中で運行する法の際限を尽くしており、それゆえ神様は一千二百の功徳を具足し、最も円満であり、如来蔵の功徳に次ぐものである。那么、意根は疑いなく聖人の法と凡夫の法をも容れ、善悪の法をも容れ、善悪性、善悪の心所法と心行を具足している。もしそうでなければ、意根の功徳は一切法の際限を尽くしておらず、容れない法があり、その功徳は円満ではないことになる。
この段は世尊が意根の功徳を講じたときに説いたもので、意根は一千二百の功徳を円満すると説いたが、意識の功徳円満とは説いていない。意識は生生滅滅し、自主できず、三世を貫通できず、現世の法でさえ周全ではなく、縁じられない法が数多くあり、了別できない。まして十方三世の法はなおさら縁じられない。それゆえ意識は究竟の法ではなく、根本の法ではなく、頼るに値しない。修行は根本の法、頼れる法、自主できる法を修めなければならず、意根の無明を除去し、意根の智慧を円満して、はじめて成仏できる。
五、楞厳経に説かれる世界の由来により意根が無記性ではないことを証明する
楞厳経の中で世尊は世界の起因を講じている。無始劫以前、混沌未開のとき、第八識と意根だけが存在し、三界世間はなく、まして五陰身と六識もなく、意根と第八識を合わせたものが衆生の生命体であった。そのとき意根は無明のゆえに心を起こして外に攀縁し、何かを探求しようとした。第八識はそれによって意根の心想に従い、次第に世界を形成した。この過程は非常に長く、世界は一人の衆生の意根の想いによって成ったのではなく、多くの衆生の意根の心想によって成ったからである。
世界が形成されてから若干の大劫の後、衆生の五陰身は生存に適した環境があってはじめて出生した。世界が形成される前に、すべての無明はすでに存在しており、後天的に生成された無明は一つもない。それゆえ、すべての無明は意根の無明であると言う。意根が一切の無明を具えている以上、この無明によって一切の煩悩の要素が隠されており、縁に遇えば煩悩が生じる。意根の無明煩悩がさらに意識を薫染し、意識も次第に薫染されて煩悩が出てきた。これも長い過程である。那么、最初の煩悩はすべて意根のものであり、意識はただ意根の煩悩に随順しているにすぎず、意識が薫染され成功してはじめて煩悩が現れたのである。
無明とは不明である。意根の心は理を明らめず、うとうととしている。この理とは何を指すのか。楞厳経の指示するところによれば、法界実相であり、意根は法界実相である第八識の理を明らめず、自分が第八識の中の法であり、第八識に生まれ執持されていることを知らず、第八識のほかに法なく法界なしということを知らない。これが意根の無始無明であり、根本無明でもある。この無始無明によって、心を起こして第八識の外を探求し、世界を形成させた。これは長劫の中で次第に形成されたものであり、短劫の内に成るものではない。
世界が形成されてから若干の大劫の後、衆生の五陰身が現れ、意識・五識も五陰身に随って出生した。五陰身が現れてからはじめて、六識の身口意行が意根に配合して造作するようになった。それゆえ、意根は無明のゆえに貪瞋痴の煩悩があり、六識に指図して煩悩の悪業を造作させ、悪業の種子がここに残り、六道の生死輪廻の因縁果報があった。これが十二因縁法の由来である。ここから見ると、意識の出現は非常に遅く、意根よりはるかに遅い。意識が一出現した途端に無明煩悩があったということはありえず、来由がない。意識の後の煩悩の出現の来由は、意識を主導する作主識である意根から薫染されたものであり、あるいは意識が表現する無明煩悩はすべて意根のものであり、意根が操縦した結果である。それゆえ、意根には確かに煩悩があり、無記性だけではなく、善悪無記の三性がすべてある。
無明は悪法であり、善法でも不善不悪の中性の法でもない。それゆえ、学仏修行によって一切の無明煩悩を断じ尽くし、常楽我浄の円満光明仏とならなければならない。無明を善法や無記法と見なす人はいないだろう。衆生の貪瞋痴の煩悩は無明から来ており、すなわち意根から来ている。意根に無明がなければ、貪瞋痴の煩悩業を造作することはなく、無明が貪瞋痴の煩悩の現前を招いたのであり、それゆえ意根は無記性ではない。那么、成仏後の意根は無記性なのか。成仏後の意根はなおさら無記性ではなく、純善無悪の性であり、大慈大悲の性であり、一切の衆生を慈憫する性である。ここから見れば、意根の性質を判断するのは容易であるはずで、これ以上誤解し取り違えるべきではない。
六、十二因縁法により意根が無記性ではないことを証明する
十二因縁:無明縁行 (avidyā-pratyayāḥ saṃskārāḥ)、行縁識、識縁名色……。第一支は無明であり、天地開闢の動力の源であり、この動力によって天地万物が萌生し、五陰の生命体が運行する。これは五陰身の生死輪廻の由来であり、作主識である意根の無明である。第二支は行であり、意根は無明のゆえに心行を生じ、造作しようと欲し、天地未生以前の萌動と同じく、無明の心行が一たび動けば、後続の造作がそれに随って現れる。この心行は善・悪・無記の三性を具足しており、善行でさえ無明性を含んでいる。無明がなければ、世間の善も為さず、心地は清浄で造作がない。第三支は六識であり、意根の心行が萌動し、身口意行を造作する択択を下したので、六識が出生し、意根に配合して身口意行を造作する。第四支は六識が身口意行を造作した後に残した業種であり、この業種によって後世の名色の出生が決定される。
衆生の身口意行は善悪無記の三性が縁に随って萌発し造作され、業種は縁に随い時に随って阿頼耶識 (Ālayavijñāna) の中に存入され、生死輪廻は流転して止まることがない。三性の身口意行は意根の心行から来ており、意根の心行によって決定される。那么、意根の心行はどうして無記性しかなく、善悪の心行がないことがありえようか。もしそうであれば、十二因縁の生死の鎖は連結し永続する由がなく、生死は必ず断じ、輪廻は必ず息する。意根の心行は六識の身口意行の動力であり、六識の善悪は必ず意根の善悪の心行から来ており、意根の善悪の心行が作主し決定するのであって、意根の善悪の心行から離れることはできない。そして意根の善悪無記の心行はすべて意根の無明によるものであり、善も無明であり、悪も無明であり、無記もなお無明である。無明がなければ、生死の業行と業種は必ず滅し、生死輪廻は永遠に息する。
意根が善でなければ、六識は布施 (dāna)・持戒などの多くの善行を造作する由がなく、衆生も天に昇って福と楽を享受する由がない。意根が悪でなければ、六識は人を殺し火を放つなどの種々の悪行を造作する由がなく、衆生も三悪道に下堕して悪報を受ける由がない。これは意識の善悪の心行が決定したのだと言う人がいるだろうが、意識の善悪の心行に、どうしてこれほど大きな力があって主宰をなし、意根の作主権を行使し、客を圧して主に代わることができようか。そのうえ、意根に心行がなければ、意識さえ出生する由がない。意識の出生するか否かはすべて意根の択択に依存しており、意根が択択しなければ、意識には出生する機会がなく、どうして善悪の身口意行を造作し、十二因縁の発起の順序を転倒させることができようか。もし転倒できるなら、佛陀が法を誤って説いたことにならないか。意根に善の心行が現れたときは、必ず善業を造作しようと欲し、六識は意根の択択に順応して出生し善業を造作し、意根の心願を完成する。六識は意根に従属し意根に奉仕するものであり、独立した行為の造作はできず、六識が悪業を造作するのもこの原理である。それゆえ、意根は無記性だけではなく、善悪性もすべて具足しており、こうしてこそ六道輪廻があり、佛陀はこれに基づいて十二因縁法を講じることができたのである。
七、想心所法と念心所法の区別と聯繋
五遍行心所法:作意・触・受・想・思。五別境心所法:欲・勝解・念・定・慧。想心所法は五遍行心所法に属し、一切の時処に遍在して運行する。識心が現れるかぎり、想心所法の運行があり、識心の主要な機能は所触の法を識別し了知することであり、想とは了別了知であり、心上に相を取ることである。心上に相を取った後に、はじめて択択があり、法を択択した後に、はじめて五別境心所法の運行がある。
五別境心所法の運行は、まず所択択の法に対して欲望、興味と希求、探求を生起させることである。法に対して一定の勝解を得た後、その法を念じ、念心所法が現れる。もし前の法の了知がなければ、後の法に対する勝解はなく、もし法を勝解できなければ、その法を念じることはない。法を理解せず、法を希求もしないなら、どうして心に掛けて念じることができようか。心に掛けて念じられるということは、すでに法を理解し、この法が重要であり、自分に必要なものだと感じていることを示している。つまり想心所法があってはじめて念心所法があり、それゆえ想念という言葉があり、先に想があり後に念があるのである。
この念心所法は七覚支の中の念覚支に相当する。たとえば四聖諦法を修学した場合、四聖諦法を十分に理解し、生死流転に対する四聖諦の重要性を知り、かつ相当程度の勝解を得てはじめて、念覚支が現れ、心心念念四聖諦の思惟にあり、日常の五蘊の活動と相対照する。もしまだ四聖諦の理を十分に了別了知していなければ、四聖諦法を念じることは不可能である。念頭とは念心所法であり、常にあるのではなく、中断するときがある。もし中断せず、念じる時間が長ければ、念じるのがどんな法であれ、その法に定まっており、定力があることになる。それゆえ、念心所法の後ろは定心所法である。
ここから見て取れるのは、五遍行心所法の運行には前提条件がなく、時時処処に識心に随って運行できるのに対し、五別境心所法の出現には必ず前提条件があり、時時処処に現れることはできず、条件が具足したときの個別の時にしか現れないということである。欲・勝解・念・定・慧の心所法は、それぞれ必要とする条件が異なり、五つの心所法はそれぞれ後ろの心所法が現れる条件でもあり、前の心所法が後の心所法が現れるか否かを決定する。それゆえ、慧心所法は誰もが持っているものではなく、すべての法の上に現れるものでもなく、定心所法もそうであり、念心所法もそうであり、勝解心所法と欲心所法もすべてそうである。
八、前五識には思惟作用があるか
前五識にも五遍行心所法がある:作意・触・受・想・思。ただ六七識の五遍行心所法より簡単で粗略である。六七識が思うのは法塵であり、その思は非常に細膩で深刻でありうるが、前五識が思うのは五塵であり、その思は非常に粗略で簡単である。五塵と法塵を分け、混同しないことができれば、五識の思と六七識の思の区別を弁別できる。五識の思は、意識のあの種の思惟作用ではなく、二者には区別があり、しかも区別は非常に大きい。五塵と法塵を分けることは非常に容易ではないので、五識の識別と意識の区別を弁別することも非常に困難である。意根と意識の機能作用を区別することは、一般人には同様にできない。
皆が普段言う思惟は、一般に六七識の法塵に対する思惟、特に独頭意識の独影境に対する思惟を指しており、五識がその中に参与しないわけにはいかない。そして五識の五遍行心所法の思は、主に判断と択択の作用を果たす。五識は対応する五塵を了別した後、五塵に相を取り、簡単粗略に判断した後、さらに了別を続けるか停止して避けるかを択択し、意識が同時に参与して了別する。五識の了別が粗略だと言うのは、五塵が粗雑であり、細分別を必要としないため、了別が速く、五識が多くの心思を用いる必要がなく、脳を経由しないようなものであるからである。そして五塵とともにある法塵は比較的微細であり、意識の細膩な了別を必要とするので、意識の了別と思惟分析は比較的遅く、比較的心思を費やす。
もし五塵が重大で、影響も大きいとき、意根は五識の判断択択を主として択択し、意識の分析判断を処理する暇がなく、それゆえ意識の了別と思惟を無視することになる。通常、五識の了別は比較的直観的で速く、意識の了別は微細で五識よりやや遅い。重大な事柄については意根は五識の反応を主とし、意識の反応を顧みることができない。それゆえ、いくつかの突発的事件では、意識の分析思惟を用いる暇がなく、意根が指図して事をやり終えてしまい、意識が後知後覚になる。まとめて言えば、思惟とは六七識の思惟であり、前五識の思は思惟より簡単で粗略で直接的であり、深くなく、深くする必要もない。五塵の法は浅く粗く直観的だからである。