背景 戻る

書籍
作品

日常法話集録

作者: 更新時間:2025-07-14 00:41:48

第十章 意根の心所法

一、意根に念心所法と煩悩心所法が存在する証拠

ある人が頭の中で一つの問題を考え続けていると、突然、自分の中にその念いがあることに気づき、驚きを感じ、あるいは後ろめたさを覚え、慌てて首を振ってその念いを振り払い、「なぜ自分にこんな考えがあるのだろう」と思うことがある。

この事例から、一人の人間に二つの心の念いがあることがわかる。一つは自発的に生じ、密かに作用する念いであり、これは意根の念いである。もう一つは最初はその念いに気づかず、突然気づいて驚く念いであり、これは意識の念いである。これは二つの念いが一致せず、意識と意根の思想・観念が完全に同一ではないことを示している。二つの心は常に相通じ調和した状態にあるわけではない。また、意根の念いは常に生じ、意識の制御を受けないこともあれば、時には意識の制御を受けることもある。意識がそれに気づいて間違いだと感じると、意根にフィードバックされ、意根は一時的にその念いを断つ。その後再び生じるかどうかは、意識の制御力と説得・薫染の効果にかかっている。では、なぜ意根は常に念いを生じるのか。どうすれば意根に仏法の念い、禅参究の念い、大小乗の疑情を生じさせることができるのか。

一般の人の意識は定慧が不足しているため、意根の念いに気づきにくく、自分にどんな考えがあるかもわからない。しかし、知らず知らずのうちにそれらの考えに駆られ、うっかり何かをしたり言ったりして、後で悟って後悔する。もし意根に人を殺す念いが生じた場合、意識がそれに気づくと、突然はっとし、恐れや疑いを感じる。これは意根に瞋恚の心があるが意識は知らず、いったん気づくと「自分にそんな考えがあるのか」と思うことを示している。その後、二者がコミュニケーションを取り互いに薫染し、意根の念いが優勢に立って意識が服従を決めると、結託して殺人計画を立て実行する。

窃盗計画の策定と実行も同様で、意根が主導し、意識が服従・補助する。作り出される貪瞋痴の煩悩による悪業行もこのようにして現れる。もし意識に貪瞋痴の煩悩心所が現れても、意根が清浄であれば、意識の念いは長く続かず消え去り、忘れ去られることもある。これは意識が外界の環境から薫染された邪念であり、意根が本心を堅持すれば、意識の念いは浮雲のようで、散ればすぐに消える。もし意識が持続的に汚染された環境に接触し、邪念が絶えず現れ、一定量が蓄積されると、意根も薫染されて堕落し、結果として意識と共に貪瞋痴の煩悩による汚染業を造作することになる。したがって、人が置かれる環境はその成長に大きな役割を果たし、その思想・観念に大きな影響を与える。善を選んで住まうことで善に従い悪を避けることができる。

煩悩が生々世々にわたって継続し流転することは、意根に煩悩が存在する証拠である。六道の生死輪廻は意根に煩悩が存在する証拠であり、十二因縁法は意根に煩悩が存在する証拠である。しかも一切の煩悩を有しており、衆生が生まれながらにして煩悩を帯びていることは、意根に煩悩が存在する証拠であり、一切の煩悩を有している証拠である。もし意根に煩悩がなく、ある種の煩悩がなければ、一切の煩悩、あるいはある種の煩悩はどのように出現するのか。いつから出現し始めるのか。

二、『薬師経』による意根の善悪性の証明

『薬師経』原文:像法転時。有諸衆生。為種々患之所困。長病羸瘦。不能飲食。喉唇乾燥。見諸方暗。死相現前。父母親属。朋友知識。涕泣囲繞。然彼自身。臥於本処。見閻魔使。引其神識。至る於閻魔法王之前。然諸有情。有倶生神。随其所作。若罪若福。皆具書之。尽持授与。閻魔法王。爾時彼王。推問其人。計算所作。随其罪福。而処断之。

釈:像法の時期、衆生の福徳は薄く、過去世および現世に造作した悪業の種子が成熟し、悪業の果報に困らされ、長く病に臥し、身体は羸瘦(衰弱)し、食事も喉を通らず、口渇き、見るものすべてが暗く見え、死相が現前する。その父母や家族は泣きながらその身を取り囲む。しかし病人の身体は病床に臥したまま、その神識は黒白無常の鬼に引かれて閻魔王の前に連行される。病人の倶生神は自らが一生に造作した罪と福の業をすべて顕現し、閻魔王に呈する。この時、閻魔王は病人を審問し、彼が造作した業行の罪福の多少を判断し、その業報を定め、行く先を決定する。

有情衆生は皆倶生神を有する。これは常に存在し滅したことのない主宰識である第七識・意根を指す。無常の小鬼が人を捕らえるのも、作主識である意根を閻魔王のもとへ導くことを指す。閻魔王の前では、すべての人の意根は自らが一生に作った福罪の業行を自動的に顕現する。閻魔王は神通力を持つため、心を用いてその人が造作した種々の業行を知り、まるで銀幕の映像を見るかのように素早く閲覧し終えると、閻魔王は審判を開始する。

これは意根が罪福の業、善悪の業を造作したことを示しており、審判は意根を審判するのである。生きている時の意識はとっくに滅しており、閻魔王のもとまで付いて来ることはできない。意根と共にあるのは中陰身の中で臨時に生じた意識である。これは意根に善悪性があることを示している。そうでなければ善悪の業はどのように出現するのか。この時、意識はすでに滅して作用せず、たとえ作用しても意根の走使や助手であり、意根の仕事を補助するに過ぎない。閻魔王は意識には関与せず、意根だけを探して罪福の業及び業報を判別する。

人が死ぬか、あるいは仮死状態になると、意識はほとんど作用しなくなる。しかし意根はどんな状況でも永遠に衆生の主人公であり、作主識である。死後または仮死後、意根は業力に引かれて閻魔王の前に至る。閻魔王が意根の罪福の業を閲覧し終え、まだ少し福が残っており、まだ死ぬべき時ではないと判断すると、この人の意根を陽間の色身の中に送り返し、この人は生き返る。生き返るとは、意根が色身の中に戻り、再び意識を呼び出して活動させることを意味する。

閻魔大王が死人を審判する際、死人の主人を探し求め、死人の助手や手下、雑役、使用人、保姆などは探さない。債権にはその主がおり、業にもまたその主がいる。愚か者でなければ下僕の助手や小間使い、雑役、使用人、保姆などを探したりはしない。したがって、意根は一切の善悪無記の業を造作することができ、善悪性を有し、善悪の心所法を有するのである。

三、意根の作主機能が意根の善悪性を決定する

意根は黙々と一切の法を容れる。これは意根が一切の法と相応し、相合し、相融し、相縁することを意味し、善悪の法も含まれる。これはよく理解できる。もし意根が善悪の法と相応しなければ、意識はどうして善悪の法と相応できようか。意根が相応せず縁としない法があるなら、意識はどうして相応し縁とすることができようか。

意根の実際の機能作用から言えば、もし意根に無記性しかなければ、洗濯や炊事といった無記業は意根が作主して択ぶものであり、善事をして人助けを楽しむことは意根が作主して択ぶものではなく、窃盗や強盗、妄語も意根が作主して択ぶものではないとすれば、それは意根が一部の法に対してのみ作主・択びができ、他の一部の法に対しては作主・択びができないことを意味する。では、何が意根に一部の法に対してのみ作主させ、他の一部の法に対しては作主させないのか。意根が作主できない他の一部の法は、意識が作主したのか。意識も作主識となったのか。意根を分断し、法を分断する。そんな道理があろうか。

もし善人がいるとすれば、それは意根が善なのか、意識が善なのか、それとも両方とも善なのか。もし人が善であるのは意識だけが善で、意根が善でなければ、意識が滅した後は意根だけが残るが、この人はこの時も善人なのか。意根が善でなければ、この時は善人ではない。善人が眠って意識がなければ善人ではなくなるなら、彼が行った善事はどうなるのか。これは奇妙ではないか。全くもって不可思議であり、どう考えても理屈が通らない。

この理屈に従えば、善人は死んでこの世の意識が永遠に消滅すると、なおさら善人ではありえない。一生善行を積んだ人が死んだのに、誰も彼を善人と認めないのは、不本意ではないか。もし国や人民のために死んだとしても、死は名誉あるものではない。なぜなら名誉ある意識がなくなったので、彼に何らかの名誉称号を追贈することも、その家族に精神的・物質的な補償を与えることもできないからだ。もし善人が彼の意識の消失とともに、意識が行ったすべての善挙や貢献も消滅するなら、残った意根は善ではないので、今後善人は死ぬことを最も恐れ、簡単に犠牲を払おうとしなくなるかもしれない。あるいは眠ることや昏睡を恐れるかもしれない。なぜなら意識が消滅すると、善人のレッテルや名誉も消え、死後も善道に行って福を享受できないからだ。逆に、悪人は死ぬと悪人ではなくなり、三悪道に行く必要もない。悪を行えばどれほど得か。こうしたことは全く理屈が通らない。したがって、善人の意根には善性があり、悪人の意根には悪性がある。あるいは善人と悪人の意根はともに善悪性を有し、無記性を加えて三性を有するのである。

もし意識だけに善悪があり、意根に善悪がなければ、ある善人が演じて悪人を装い悪事を行う場合、この俳優は果たして善人なのか悪人なのか。仕事や日常生活の中で、ある人は特に偽装が巧みで、表向きは別の顔を持ち、表面的には非常に良く振る舞い、正人君子のように見え、行動は人に称賛せざるを得ないほどである。しかし陰では陰謀を巡らせて人を陥れる。ではこの人は果たして善人なのか悪人なのか。

衆生が善を行ったり悪を造作する時は、明暗が共にある時節である。六識は明にあり、意根は背後に暗にいる。二者はどのようにして完璧に連携・接続するのか。表面的には六識が善を行い悪を造作しているように見えるが、意根は何をしているのか。どんな心行なのか。どのように運作しているのか。これらの善悪の事柄に対して作主するのか。意識に任せて善悪の業を造作させるのか。意根はどのように六識を生じさせ運作させるのか。どのようにして六識をちょうど運作すべき善悪の法の上に生じさせるのか。これらのことを観察できないなら、どうして意根に善悪の心行がなく善悪性がないと断定できようか。

四、意根が黙々と一切の法を容れることが意根の善悪性を説明する

『楞厳経』第四巻原文:如意の如く黙容す。十方三世。一切の世間出世間法。唯だ聖と凡とに与る。包容せざる無し。其の涯際を尽くす。当に知るべし、意根は一千二百の功徳を円満すと。

釈:例えば意根は黙々と容れることができる。十方世界の過去・現在・未来の三世にわたる一切の世間法と出世間法を、勝義諦であれ世俗諦であれ、聖人の法であれ凡夫の法であれ、すべて含み、一切の法の際限を窮める。したがって、あなたがたは知るべきである。意根は一千二百の功徳を円満していると。

「黙」とは黙々と、密かに、目立たないようにという意味である。「容」とは容れる、受ける、有する、作意、触、想、思、相応、縁、知、見の意味である。なぜ意根は黙々と密かに一切の法を縁とし、一切に触れ、一切の法を見、一切の法を知り、一切の法を排斥しないのか。黙々としているのは、意根は話すことも字を書くこともできず、文字や言葉、音声を用いて自らの心行を伝達・顕彰できないからである。密かにしているのは、意識がほとんどの場合、それを理解せず、その心行や運作、およびその功徳を知らず見ないからである。それゆえ密かであると言う。もし意識が意根の功徳と一切の法における運作を完全に明らかにできれば、密かではなくなる。

意根が一切の法を容れるとは、一切の法を縁とし、一切の法を容れ受け、一切の法を了別し、一切の法を知り見ることができ、一切の法の上でその五遍行心所法(作意・触・受・想・思)を運作し、一切の法に相応できることを意味する。もちろん善悪の法にも相応し、善悪を容れることができ、自身に善性と悪性を有する。意根が縁とし、縁とされる一切の法の範囲は非常に広大で際限がない。意識が縁とする法は意根が縁とする法とは比べものにならず、二者ともに如来蔵が縁とする法ほど広大ではない。

意根が縁とするこの一切の法には何が含まれるのか。まず十方世界三世の法であり、これは世俗界において空間的範囲が最大である。時間的範囲は過去・現在・未来であり、これも最大である。最大の時空中で意根が縁とする法は一切の世間法、すなわち如来蔵が七大種子を用いて生成した後の有る法(例えば色法、心法、心所有法)を含み、また世間の中で必ず運行・顕現しなければならない出世間法(例えば如来蔵、仏性、真如、および聖人の行う道である勝義諦、第一義諦)も含む。聖人も凡夫もすべてその中に含まれ、一切の法の際限に至るまでである。意根がもはや縁とできないのは、如来蔵のみが単独で縁とすることができ、世間相を具えず世間で運行しない法である。

意根がこれほど広大な範囲の法を包容し、すでに世間で運行する法の際限を窮めているため、一千二百の功徳を具足し、最も円満である。如来蔵の功徳に次ぐものである。したがって、意根は疑いなく聖人の法と凡夫の法を容れ、善悪の法を容れ、善悪性、善悪の心所法と心行を具足している。もしそうでなければ、意根の功徳は一切の法の際限を窮めておらず、容れない法があり、その功徳は円満ではない。

この一節は世尊が意根の功徳について説かれたものであり、意根が一千二百の功徳を円満すると説き、意識の功徳が円満とは説いていない。なぜなら意識は生滅を繰り返し、自主性がなく、三世に貫通できず、現世の法すらも周全できず、多くの法を縁とせず了別できないからである。ましてや十方三世の法はなおさら縁とすることができない。したがって意識は不究竟の法であり、根本の法ではなく、依存に値しない。修行は必ず根本の法、依存に値する法、自主性のある法を修め、意根の無明を取り除き、意根の智慧を円満にして初めて仏となることができる。

五、『楞厳経』に説かれる世界の由来によって意根が無記性ではないことを証明する

『楞厳経』で世尊は世界の起因について説かれた。無始劫以前、混沌として未だ開けていない時、第八識と意根のみが存在し、三界世間はなく、まして五陰身や六識もなかった。意根と第八識が合わさって衆生の生命体であった。その時、意根は無明によって心を起こして外に攀縁し、何かを探求しようと欲した。第八識はその意根の心の想いに従って次第に世界を形成した。この過程は非常に長く、世界は一人の衆生の意根の想いによって成ったのではなく、多くの衆生の意根の心の想いによって成ったのである。

世界が形成されてから数えきれない大劫の後、衆生の五陰身は生存に適した環境ができて初めて出生した。世界形成以前にすべての無明はすでに存在しており、一種の無明も後天的に生成されたものではない。したがって、すべての無明は意根の無明であると言える。意根が一切の無明を有する以上、この無明によって一切の煩悩の要素が隠されており、縁に遇えば煩悩を生じる。意根の無明煩悩がさらに意識を薫染し、意識も次第に煩悩を薫染され出す。これもまた長い過程である。すると最初の煩悩はすべて意根のものであり、意識はただ意根の煩悩に随順していたに過ぎない。意識が薫染に成功して初めて煩悩が現れたのである。

無明とは不明であること、意根の心が理を明らかにせず、ぼんやりとしていることである。この理とは何を指すのか。『楞厳経』の指示に基づけば、それは法界の実相である。意根は法界の実相である第八識の理を明らかにせず、自分が第八識の中の法であり、第八識によって生じられ保持されていること、第八識の外には法も法界もないことを明らかにしない。これが意根の無始無明であり、根本無明でもある。この無始無明によって、心を起こして第八識の外を探求し、世界を形成させた。これは長劫の中で次第に形成されたものであり、短劫の内に成るものではない。

世界が形成されて数えきれない大劫の後、衆生の五陰身が出現し、意識と五識も五陰身に随って出生した。五陰身が出現して初めて、六識の身口意行が意根に配合して造作するようになった。したがって意根は無明のために貪瞋痴の煩悩を有し、六識に命じて煩悩悪業を造作させ、悪業の種子がそれによって残され、六道の生死輪廻の因縁果報が生じた。これが十二因縁法の由来である。ここから、意識の出現は非常に遅く、意根よりはるかに遅れており、意識が出現した当初から無明煩悩があったはずがない。そして意識の後に煩悩が出現した由来は、意識を主導する作主識である意根が薫染したものであり、あるいは意識が表現した無明煩悩はすべて意根のものであり、意根が操作した結果である。したがって意根には確かに煩悩があり、単に無記性ではなく、善悪無記の三性を有している。

無明は悪法であり、善法でもなく善でも悪でもない中性の法でもない。したがって仏法を学び修行して一切の無明煩悩を断じ尽くし、常楽我浄の円満光明仏となるべきである。無明を善法や無記法と見なす者はいないであろう。衆生の貪瞋痴の煩悩は無明から来ており、すなわち意根から来ている。意根に無明がなければ、貪瞋痴の煩悩業を造作することはない。無明が貪瞋痴の煩悩を現前させるのであり、それゆえ意根は無記性ではない。では成仏後の意根は無記性なのか。成仏後の意根はなおさら無記性ではない。それは純粋な善で悪性がなく、大慈大悲の性であり、一切の衆生を慈しみ憐れむ性である。ここから見れば、意根の性質を容易に判断できるはずであり、再び誤解してはならない。

六、十二因縁法によって意根が無記性ではないことを証明する

十二因縁:無明縁りて行あり、行縁りて識あり、識縁りて名色あり……。第一支は無明であり、天地開闢の動力の源である。この動力によって天地万物が萌生し、五陰生命体が運行するようになった。これは五陰身の生死輪廻の由来であり、作主識である意根の無明である。第二支は行であり、意根は無明によって心行を生じ、造作しようと欲する。天地未生以前の萌動と同じく、無明の心行が一たび動くと、後続の造作がそれに従って出現する。この心行は善・悪・無記の三性を具足しており、たとえ善行であっても無明性を含む。無明がなければ世間の善も行わず、心地は清浄で造作がない。第三支は六識であり、意根の心行が萌動し、身口意行を造作することを択ぶと、六識が出生し、意根に配合して身口意行を造作する。第四支は六識が身口意行を造作した後に残された業種であり、この業種によって後世の名色の出生が決定される。

衆生の身口意行は善悪無記の三性が縁に随って萌発造作し、業種は縁に随って随時阿頼耶識の中に蓄積され、生死輪廻は流転して止まない。三性の身口意行は意根の心行から来ており、意根の心行によって決定される。では意根の心行がどうして無記性だけであり、善悪の心行がないことがありえようか。もしそうなら、十二因縁の生死の連鎖は縁由なく継続できず、生死は必ず断たれ、輪廻は必ず止む。意根の心行は六識の身口意行の動力であり、六識の善悪は必ず意根の善悪の心行から来ており、意根の善悪の心行によって作主・決定され、意根の善悪の心行から離れることはできない。そして意根の善悪無記の心行はすべて意根の無明によるものであり、善も無明、悪も無明、無記も依然として無明である。無明がなければ、生死の業行と業種は必ず滅し、生死輪廻は永遠に止む。

意根が善でなければ、六識は布施や持戒などの多くの善行を造作する縁由がなく、衆生も天に昇って福や楽しみを享受する縁由がない。意根が悪でなければ、六識は人を殺したり放火したりするなど種々の悪行を造作する縁由がなく、衆生も三悪道に堕ちて悪報を受ける縁由がない。ある人はこれは意識の善悪の心行が決定したと言うかもしれないが、意識の善悪の心行にそんなに大きな力があるのか。作主権を行使し、意根の作主権を奪い取るほどの力があるのか。ましてや意根に心行がなければ、意識は生じる縁由さえない。意識の出生の有無はすべて意根の択びにかかっている。意根が択ばなければ、意識は生じる機会がなく、どうして善悪の身口意行を造作し、十二因縁の発起順序を転倒させることができようか。もし転倒できるなら、仏陀が法を間違って説いたことにならないか。意根に善の心行が現れた時は、必ず善業を造作しようと欲し、六識は意根の択びに順応して出生し善業を造作し、意根の願いを達成する。六識は意根に従属し意根に奉仕するものであり、独立した行為造作はできない。六識が悪業を造作するのもこの原理である。したがって意根は単に無記性ではなく、善悪性も具足しており、そうして初めて六道輪廻があり、仏陀はこれに基づいて十二因縁法を説くことができるのである。

七、想心所法と念心所法の区別と連関

五遍行心所法:作意・触・受・想・思。五別境心所法:欲・勝解・念・定・慧。想心所法は五遍行心所法に属し、一切の時・処・地に遍く運行する。識心が現れさえすれば、想心所法が運行する。なぜなら識心の主な機能は触れた法を識別・了知することであり、想とは了別・了知、すなわち心上で相を取ることである。心上で相を取った後、初めて択びがあり、法を択んだ後に五別境心所法が運行する。

五別境心所法の運行は、まず択んだ法に対して欲望・興味・希求・探求を生じる。法に対してある程度の勝解を得た後、法を念じるようになり、念心所法が出現する。もし先に法を了知しなければ、後に法に対する勝解はなく、もし法を勝解できなければ、法を念じることはない。なぜなら法を理解せず、法を希求しなければ、どうして心にかけて念じることができようか。心にかけて念じることができるのは、すでに法を理解し、この法が重要であり自分に必要なものだと感じていることを示している。これは想心所法があったからこそ念心所法が生じたことを意味し、したがって「想念」という言葉がある。先に想い、後に念じるのである。

この念心所法は七覚支の念覚支に相当する。例えば四聖諦法を修学し、四聖諦法を充分に理解し、四聖諦が生死流転にとって重要であることを知り、かつ相当な程度の勝解を得て初めて、念覚支が出現し、心に念じて四聖諦を思考し、日常の五蘊活動と対照する。もしまだ充分に四聖諦理を了別・了知していなければ、四聖諦法を念じることは不可能である。念頭とは念心所法であり、常にあるわけではなく、中断する時もある。中断せず長く念じ続ければ、念じる法が何であれ、その法に定まっているのであり、定力がある。したがって念心所法の後は定心所法である。

ここから、五遍行心所法の運行には前提条件がなく、時々刻刻識心に随って運行できるが、五別境心所法の出現には必ず前提条件が必要であり、時々刻刻どこでも出現できるわけではなく、条件が具足した時にのみ個別に出現することがわかる。欲・勝解・念・定・慧の心所法は、それぞれ必要な条件が異なり、五つの心所法もそれぞれ後の心所法が出現する条件であり、前の心所法が後の心所法の出現の有無を決定する。したがって慧心所法はすべての人にあるわけではなく、すべての法の上に出現できるわけではない。定心所法も同様であり、念心所法も同様であり、勝解心所法や欲心所法も同様である。

八、前五識に思惟作用はあるか

前五識にも五遍行心所法:作意・触・受・想・思がある。ただし六・七識の五遍行心所法より簡単で大まかである。六・七識が思うのは法塵であり、思惟は非常に繊細で深くなりうる。前五識が思うのは五塵であり、思惟は非常に大まかで簡単である。五塵と法塵を区別し混同しなければ、五識の思と六・七識の思の違いを弁別できる。五識の思は、意識の思惟作用ではなく、二者には違いがあり、しかも非常に大きい。五塵と法塵を区別することは非常に容易ではなく、したがって五識の識別と意識の区別も非常に困難である。意根と意識の機能作用を区別することも、一般の人には同様にできない。

皆が普段言う思惟は、一般に六・七識による法塵の思惟、特に独頭意識による独影境の思惟を指す。五識もそれに参与せざるを得ない。一方、五識の五遍行心所法の思は、主に判断・択びの作用を起こす。五識が対応する五塵を了別し、五塵の相を取り、簡単に大まかに判断した後、引き続き了別するか停止・回避するかを択ぶ。意識は同時に参与して了別する。五識の了別が大まかだと言われるのは、五塵が粗雑で細かく分別する必要がなく、したがって了別が速く、五識が多くの心を用いる必要がなく、まるで脳を使わないかのようだからである。一方、五塵と共にある法塵は比較的微細で、意識の繊細な了別を必要とする。したがって意識の了別や思惟分析は比較的遅く、心を費やす。

もし五塵が重大で影響も大きい場合、意根は五識の判断・択びを主として択び、意識の分析判断を処理する暇がなく、したがって意識の了別や思惟を無視する。通常、五識の了別は比較的直観的で速く、意識の了別は微細で五識よりわずかに遅い。重大な事柄では意根は五識の反応を主とし、意識の反応を顧みる余裕がない。したがってある突発事件では意識の分析思惟を用いることができず、意根が指揮して事を終わらせ、意識は後で気づくことになる。要するに、思惟とは六・七識の思惟を指す。前五識の思は思惟より簡単で大まかであり、直接的で深くはなく、深く入る必要もない。なぜなら五塵法は浅く粗く直観的だからである。

目次

ページトップへ戻る