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日常法話集録

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年09月16日 閲覧数: 1360

第九章 意根訓練篇

一、観行、観想、観察と想像の区別

観とは、一般に客観的な観察を指し、現前にあるものをそのまま観察することであり、現観や直観とも呼ばれる。一方、想像とは現前に存在しないものを妄想すること、現前の境を離れ事実を離れた脳内補完であり、現観・直観とは正反対で、意識の思惟活動であり、修証の大忌である。

数日前、日常生活の中で意根を訓練するスレッドで述べたように、香の先端をじっと見つめるのは意識が見つめているのであり、意根を牽引して香の先端を観察させるためであり、しかも意識は余計なことを考えず、何かを想像せず、頭の中に画面を出さず、意根の観察を邪魔しないようにする。香の先端一つに、何を想像するというのか? そんなに多くのことがあるはずがなく、まして画面が出るものか? 意識の妄念が止まらなければ、意根も静まらず、心が定まらなければ観できない。禅定があるときにこそ観と呼べるのであり、禅定がなければそれは意識の雑念である。意根を訓練すると同時に、意識も訓練しているのであり、まず意識を妄念妄想なく、雑念のない状態に訓練してしまえば、意根もほぼ訓練が済んだことになり、このときになって初めて観の話ができる。意識の心念を動かさない観であり、参に入ることもでき、その後三昧に入れば、観行と参究が成就するのである。

四念処観において、観身不浄は、観呼吸と白骨観を含む。呼吸は現前に存在する法であり、観とは観察観行と名づけられる。白骨は現前に見えることもあれば見えないこともあるが、いずれにせよ白骨は誰もが見たことがあり、何物であるかを知っているので、想像する必要はない。観呼吸・観白骨の観は観察観行とも呼べるし、観想とも呼べる。

観受是苦において、受は自分自身が直接感じたものであり、現前に存在するか自分が経験したものであるから、想像する必要はなく、観受の観は観察観行観想と名づけられる。

観心無常において、心は自分の現前に存在し運行している妄心であり、自分で感じ取ることができるので、想像する必要はなく、観心の観は観察観行観想と名づけられる。

観法無我において、法とは我々が修する四聖諦の理、三十七道品、五蓋、五蘊十八界などであり、これらは現前に存在する法であるから、想像する必要はなく、観法とは観察観行観想である。

しかし智慧が不足しているため、現前に存在する法を正しく認識できず、意識の思惟想像に頼ると、現量の観行ができなくなる。呼吸のような単純な現象でさえ、多くの人は現量で観ることができず、意識の思惟想像に頼る。意識が動けば意根を遮蔽し、現量の観と思が働かなくなり、得られる結果は偽のものとなる。

観像念仏では、目の前に一尊の仏像を置くか、あるいは仏像を描き、意識は仏像を見つめ、意根は直接観に行く。禅定が不足しているときは、意識が意根を輔助して観を行い、多少の思惟分析を行う。禅定が十分になれば、意識の分析を取り去り、意根が単独で現量の観を行う。三昧が現れると、意根の観行による現量境が現前し、証量が現れ、観像念仏が修成就する。このとき、意識が仏像を想おうと想うまいと、仏像は現れるのであり、意識の左右を受けず、身心はともに三昧の中にある。意識がコントロール・指揮できないものは、すべて意根の現量境であり、真実で信頼できるものである。

観無量寿経の十六観には参照物がなく、観るのが非常に難しく、自分の願力と阿弥陀仏など諸仏菩薩の加持力に頼らなければならない。第一観の日観には沈む夕日という参照物があるが、後の十五観にはいかなる参照物もなく、意識で思惟想像することもできない。極楽世界では一草一木でさえ想像がつかないのであり、ましてや数多くの景観や宝物などは聞いたこともなく、地球上にはまったく存在しないものばかりで、これをどうやって観るというのか? しかし第一観の日観さえ成就すれば、心が三昧の中にあり、意根の思が開かれ、さらに諸仏菩薩の加持が加われば、第二観・第三観にも成就の望みが出てくる。第三観が成就した後は、どうあろうと、三昧は永遠に消えることなく、臨命終時まで保持され続け、その三昧の中で極楽世界に往生する。そして三昧の境地を永久に保持できるのは、諸仏菩薩の加持の結果であり、さもなければ保持できない。だから第一観が成就していないのに、直接後の数観を修めば、それは並外れて困難であり、どう修めてよいか想像もつかない。

二、意根に思考させ問題を解決させる訓練の方法

問題に遭遇したとき、慌ててすぐに意識で思惟分析して結論を出してはならない。事が特に緊急でないなら、心を沈静化し、できる限り雑念を排除し、心の中ではただ目の前のこの事柄だけを見つめ、意識の分析を行わず、意識の推理を行わず、意識の判断を行わず、まして意識の結論を出してはならない。他の念頭を空にし、この問題を見つめ続け、心の中に言語文字を持たず、心声を持たず、静かにこの問題を見つめ続ける。しかし心は空なのではなく、この問題を考えていないのではなく、意根が心の中で静かにこの問題を懸けており、こっそりとこの問題を思量しているのである。

意識は思惟分析を行っていないのに、意根はこの問題と向き合い、言語文字も声もなく思考し、思量している。経験がないうちは、心が細かくないときは、意根に心理活動があることを感じ取れないが、神様には確かに極めて多くの心理活動があり、ただすべてが意識の活動に覆い隠されているだけである。ある人は意根のエネルギーが非常に微弱で、思考力も微弱である。それは雑念が多すぎて、細切れ細切れにエネルギーが分散され、心力が不足し、一つの問題に精力を集中して考えることができず、一つの問題を完璧に、合理的に、深層的に解決することもできないからである。

衆生の智慧が劣弱であるのは、その重要な原因の一つが雑念の多さであり、心が乱れ雑然としていて、一本の明晰な主線がなく、重点がないことである。まるで一つの戦闘チームのようで、メンバーがそれぞれ勝手に行動し、チームの力が分散して、一つに集まって巨大な力を形成することができず、勇敢に敵対勢力に立ち向かって成功することができず、結果としてどの敵対勢力に対しても敗北する。もう一つの重要な原因は福が薄いこと、福が著しく欠けていることであり、福徳の支えがないことであるが、これは今は論じない。

それでは、智慧を高めるため、特に意根の智慧を高めるためには、雑念を排除し、心念を集中させる能力を身につけ、極めて少数の、重要な、鍵となる問題に注目しなければならない。これを達成するには、意識を抑圧し、意識をあまり使わず、できる限り意識の言語文字と声を動かさず、常に内心の声を持たず、常に独白を持たないようにすることである。時には内心に意識の独白があっても構わないが、それ以外に、意根の専注した思慮があるべきであり、意識が一方で独白し、意根が一方で思慮し、両者が注目している事柄は同一のものであるべきである。このとき意根のエネルギーは大きくなり、力が集中し、内心の暗闇と無知を突破し、問題の根源を見つけ、根本から問題を解決する。

意根は思慮がはっきりすれば、根本から問題を解決できる。一方、意識で考え抜いた問題は、たとえ解決しても徹底せず、確実でなく、安心できず、まして問題を解決しにくい。意根は作主識であり、神様自身がはっきり考えた問題は、解決した後に後悔することがないが、意識の分析に従うと、後悔しやすく、心意や考えを変えやすい。変わりやすい人は、みな意識で思惟する習慣があり、意根を使わない人であり、比較的浅薄な人である。自分の意見がなく、他人に依存するのを好む人は、みな意根で問題を考えることに慣れておらず、意識を使うことに慣れている人であり、自分の意識が当てにならないので、仕方なく他人に依存するのである。

一方、意根で問題を考え解決することは、確実で、信頼でき、徹底的で、究竟であり、根源を直截できるが、往々にして比較的遅い。思想が深ければ遅くなり、思想が浅いときにのみ速くなるからである。井戸掘りと同じで、深く掘れば手間がかかり遅くなり、浅く掘れば手間がかからず速い。しかし遅く掘れば水が出るが、速く掘っても水は出ない。だから遅いことは速いことであり、速いことも遅いことであり、効果が異なるので、速度を求めてはならず、質が最上である。我々が問題を考え、解決するのも同様で、深く思考し抉択するには時間がかかるが、遅い仕事こそ細やかな仕事が生まれ、結果は完璧である。深く考えることに慣れた人、意根を使うことに慣れた人は、一般に思惟が比較的遅く、物事も比較的遅いが、相対的に効果が良く、間違いを犯しにくく、後悔しにくい。

物事をし問題を解決する効果を良くしたいなら、速さを図らず、熟慮深考し、意根を多く使って思考し抉択し、意根の思考力を多く訓練し、言語文字や声のない専注力と観察力を多く練習することである。訓練の時間が長くなり、意根の使い方が熟練すると、意根で考えることは趣と味わいがあり、魅力があり、考えれば考えるほど止めたくなくなることが分かる。そこで孤独を好むようになり、邪魔されたくなくなり、しかも智慧はますます深くなり、問題の解決はますます思いのままになる。一人の意根が訓練され、使い慣れると、この人は深沈に見え、内包と特質に富み、思想は深邃で、見解は独特で、能力が高く、鍵は重厚で信頼でき、頻繁に変節しないことである。

三、道と術の関係

意根の訓練は術の範疇に属する。道の高さに達していなければ、術だけではどうしても見道できず、術を世俗法の中で使って生活を営むことしかできない。しかし道が一定の高さに達していれば、術は訓練しなくても自然に具足する。道は根本であり、術は枝末であり、道は心であり、術は心によって成り、心の一つの状態である。心が成就すれば、術は自然に成就し、影が形に随うようである。一つの法に対して深く渇求し、心心念念これにあり、他の念がなければ、この法は必ず骨髄に深く入り、意根の心に刻まれ、斗転星移しても、朝朝暮暮動揺することがなく、術は求めずして自ずと現れる。

意根の精力と注意力が高度に集中でき、単独で事理を考量衡量できるときというのは、誰もが直接経験したことがあるが、ただこの点に思い至らないだけである。たとえば意根が特に好き、特に興味がある、特に関心がある、特に驚愕震撼動揺する、特に驚く、特に恐怖する、特に驚喜する、非常に感激する、非常に怒る・憤る、このようなときはすべて意根が一心のときであり、意識は参与できず、意根は意識に何をさせる必要もなく、一心に現在の情境に浸り、深い感知、深い体験と思量を行っている。このときこそ意識の心念を動かさず、意根が単独で受け取り接触した情報や塵境を消化しているのであり、往々にして口を開いて呆然としたり、ぼんやりしたり、驚き呆れたり、呆然と立ち尽くしたりする。このとき意識は思惟しておらず、愚か者のようであり、意根が自ら迅速に深く思量し、神様は以前には発見できなかった事実と真相を発見する。発見した後、意識は「なるほどそうだったのか」と感じ、問題の真相も知る。日常生活で遭遇するこの種の事柄を総括・抽出し、自分の修証を導く方式方法を形成すれば、修行はより深い一つの階層に入る。

抽出・総括された経験には、道と術が含まれている。道とは心であり、心の状態であり、仏教の修行から見れば、菩提心であり、仏法に対する態度であり、善根福徳である。術とは功夫と技巧であり、道の後に培養訓練を経て初めて具足し、その後は成果が出るのを待つばかりである。

道である発菩提心の面については、私は極めて少しかじったため、大部分の弟子が発菩提心に対する認識が不足し、術の面で比較的多く用功しているのに、進歩は速くない。発菩提心は基礎的な修学内容に属し、私について修学する弟子はとっくに具足しているはずで、私が特別に教える必要はない。私の精力は初級の衆生の需要に応えることを許さず、衆生の修学に必要なすべての内容を引き受ける精力はない。

四、四念処経における意根の訓練方法(意根訓練篇)

世尊が説いた四念処経の観行方法は、まさに意根を訓練する方法である。まず観呼吸から見ると、世尊は弟子たちに如実に観させた。現前の呼吸がどんな状態であればどんな状態を観るのであり、意識の思惟と想像を加えてはならない。意識は意根を呼吸という事柄に牽引することだけを担当し、他のことは構わず、念頭を動かさず、事を探して起こさない。意識はどのように意根を呼吸に牽引するのか? 意識は注意力を呼吸に固定し、呼吸を見つめていさえすればよく、言語文字や独白を使ってはならない。このとき意根は意識を指揮できず、他の法は攀縁できなくなり、意識の焦点に従って呼吸を観るしかない。

観呼吸の中で、意識は呼吸の出入や長短などの状況を了知し、いかなる加工もせず、意根も次第に衆縁を擯棄し、意識とともに専心して呼吸を観り、その一つ一つの当下の呼吸の状況を了知し、次第に習慣となり、自動化したかのように、行住坐臥すべてで呼吸を観るようになる。習慣を養うということは非常に重要であり、習慣が一旦成れば、主宰となり、日を経月を経て、因縁が成熟すれば、呼吸の真相、色身の空と無我の真相が発見される。他の法を観るのもすべてこのように観るのであり、意根という野馬を繋ぎ止め、念茲在茲とさせ、心が髪のように細かくなったとき真相が発見される。意根を繋ぎ止めなければ、意根は心猿意馬となり、注意力が分散し、智慧が生まれず、真相を発見できず、生死の流れに随って流転し続ける。

四念処という経は非常に優れており、その修行方法は大小乗に通じ、その用功方法は実直に観ること、如実に観ること、他の想を起こさず、加工を加えず、意識が意根を牽引し、意根が意識の妄想を抑制し、共同で協力して五蘊無我を証得することである。この行門は一切法の観行と修証に通じ、後世の修行に通じ、後世に再び仏法に出会っても、自動的にこのように観行し、修証は容易になる。四念処経で教えられた観行方法は、まさに意根を訓練する方法であり、意根を導き牽制して観行の習慣を養わせれば、後は自然に水到渠成となり、無功用行になったかのように、任運自然で、必ず智慧を開くことができる。

五、楞厳経における意根の訓練方法 鼻端白を観る(意根訓練篇)

楞厳経原文:孫陀羅難陀即従座起。頂礼仏足而白仏言。我初出家,従仏入道。雖具戒律。於三摩地。心常散動。未獲無漏。世尊教我及拘絺羅。観鼻端白。我初諦観。経三七日。見鼻中気。出入如烟。身心内明。円洞世界。遍成虚浄。猶如琉璃。烟相漸銷。鼻息成白。心開漏尽。諸出入息。化為光明。照十方界。得阿羅漢。世尊記我。当得菩提。仏問円通。我以銷息。息久発明。明円滅漏。斯為第一。

解釈:孫陀羅難陀が最初に出家したとき、心が散乱していたため、三昧を修め出すことができず、無漏の道果を証得できなかったので、世尊は彼と拘絺羅の二人に自分の鼻頭の息気が白くなるのを観るよう教えた。孫陀羅難陀はわずか二十一日観ただけで、自分の鼻の中の吸気と呼気がともに煙のように見え、身心世界もすべて清く明らかで、世界の全体が空虚と清浄になったことを円満に洞察でき、琉璃のように明澈であった。そこで鼻孔から出入りする息気の煙相が次第になくなり、白色に変わった。この三昧の中で智慧が開き、煩悩が断じ尽くされ、鼻端から出入りするすべての息気が光明に変わり、十方世界を照らし、阿羅漢果を証得した。世尊は彼に将来無上菩提を証得すると授記した。彼の円通法門は、鼻端から出入りする息気を銷去することであり、時間が長くなると智慧が生じ、円満になった後、煩悩を滅し尽くすのである。

孫陀羅難陀が得た三昧の成就は、意根の観による成果であり、修証から出た成果であり、意識の思惟分析から出た成果ではない。意識のいかなる作用も事物の真相と本質を見ることができず、それゆえ成果を出すことができない。成果は意根の修証から来る。意根は事物の真相を見ることができ、大千世界の真相を見ることができ、五蘊の空相を見ることができるからである。これらの真相は意識の想では想い出せない。意識が触れる法は、意根が触れる法と一層隔たっており、さらに一層虚偽であるからである。意根は如来蔵と緊密に連なり、触れる法は帯質境であり、直接に本質境から来るのであり、その間に過渡の法はもうない。一方、意識が触れる法は、意根が触れた後に再度変現されたものであり、意識が真相を見ようとするのは、あまりにも難しく、意根に頼るしかない。

この法門は私は修めたことがなく、具体的な修行過程と殊勝な結果をはっきり語れないが、大まかな修行の入手処は客観的な観であり、意識の息気に対する思惟分析の作用を加えず、意根の直覚で直接に鼻端の息気を感知し、次第に専一に至り、定慧等持で三摩地に入る。いかなる観行法門においても、意識の思惟などの機能が一たん働くと、観の状態にはなくなり、当下の境界を離れ、如実でなくなり、結果は信頼できなくなり、三昧の境地は出ない。意識を多く使うほど、意根の観に対する遮障が大きくなり、道から遠ざかる。

だから意根の観を訓練するには、直観の方法を用い、意識の思惟を泯し、意識には牽引の作用だけを起こさせ、残りはすべて意根に任せる。意根の観は客観的で実際的な観であり、現実から離れた非量の想像はなく、境界の変化を主導でき、境に心を随わせるのではなく、心に境を随わせ、それによって身心世界を変える。入手処は一見単純に見えるが、実際には功夫が難しい。その原因は、心理的に掛碍する人事が多すぎて、心が絡め取られ、安静で専一の観行状態に入れず、定慧も現れないので、当然修証の果の話にはならないからである。

六、貪淫を滅除する観行の妙法

楞厳経第五巻原文:(烏芻瑟摩)我常先憶。久遠劫前。性多貪欲。有仏出世。名曰空王。説多淫人。成猛火聚。教我遍観。百骸四肢。諸冷暖気。神光内凝。化多淫心。成智慧火。従是諸仏。皆呼召我。名為火頭。我以火光。三昧力故。成阿羅漢。心発大願。諸仏成道。我為力士。親伏魔怨。仏問円通。我以諦観。身心暖触。無碍流通。諸漏既銷。生大宝焔。登無上覚。斯為第一。

解釈:烏芻瑟摩は、久遠劫前に自分が貪欲心が重かったことを回想している。空王仏は彼に告げて言った、心性に淫が多い人は、淫欲が多いため、毎日猛火の集まる部落の中にいるかのように、自分の身心を燃やし、絶えず身心の焦灼を感じ、安寧を得られないと。この焦灼から脱するために、仏は烏芻瑟摩に貪淫に対治する妙法を教えた。それは毎日、自分の全身の百骸四肢の中の冷気と暖気を観行することであり、頭から足へ、足から頭へと全部観行し尽くすのである。

これは火大から入手して観行するものであり、火大の色身上の現れは体温であり、冷たり熱たりして、全身の上下と内外に遍満し、すなわち百あまりの骸骨と四肢の中にあり、仏は烏芻瑟摩に全身の冷暖をすべて観行し尽くさせた。烏芻瑟摩はしばらく観行した後、身心に巨大な変化が現れた。神光内凝、化多淫心、成智慧火。神光とは何か? それは精神、精力、注意力、心力であり、主に意根の精神的な力を指す。六識の注意力が外に散らなくなっただけでなく、最も重要なのは、意根の精力も外に漏洩して淫欲を宣泄しなくなり、身内に凝聚し、すべて身体の中の冷気暖気を観ることに用いられたことである。本来外に宣泄されるはずだったこの精力とエネルギーは内に転化し、観察力と智慧力に転化し、智慧の光が生まれ、心火が慧光に変わった。

仏の教える方法は、淫心を無理に抑圧して起こらせないのではなく、巧みに転化し、転移させることである。同じ一筋の精力と情熱を、別の場所に転移させ、智慧を開発するところに、解脱するところに用いる。なんと巧妙であろうか? 抑圧は苦痛と葛藤を引き起こし、賭博や麻薬を断つように耐え難いが、転化は引火帰元であり、別の場所で使用することである。十分に利用した後、火光三昧が生じ、身心はともに生気あふれる活力を放ち、煩悩は漏れ尽くし、清涼寂滅で、心は大自在を得て、阿羅漢となる。烏芻瑟摩が修めた円通法門は、一心に身体の百骸四肢のすべての冷暖の触を観行し、身体の中の火大が障害なく全身に流通運行でき、もはや淫欲に阻碍されず淫欲の中に滞留せず、この日からすべての煩悩が滅除され、三界世間を解脱する大智慧が生じ、無上の覚悟の道に登った、ということである。

地水風空の四大から入手して観察するのも同様に観るのであり、いずれも身触の根塵処を観るのである。貪淫は火大に帰し、広範な貪欲は水大に帰する。身内の水界と身外の水界とを観て等しく差別なく、すべて空に帰せしめ、それによって貪欲を滅除し、煩悩を漏れ尽くすことができる。瞋恚も火大に帰し、同様に心火が空に帰するのを観て、それによって瞋恚を滅除し、解脱を得ることができる。五蘊の中のいかなる法も観行の所縁とすることができ、すべて道に入ることができ、煩悩漏を滅除することができ、涅槃して解脱を得ることができる。

七、どのように観行すれば見道できるのか?

楞厳経第五巻原文:(周利槃特迦)仏愍我愚。教我安居。調出入息。我時観息。微細窮尽。生住異滅。諸行刹那。其心豁然。得大無碍。乃至漏尽。成阿羅漢。住仏座下。印成無学。仏問円通。如我所証。返息循空。斯為第一。

解釈:仏は周利槃特迦に一箇所に安居し、出息と入息を調えるよう教えた。調えると同時に、それが出入息の観察である。周利槃特迦は出入息を観るとき、観る最後に自分の出入息が非常に微細であることを観察し出し、微細の度合いは今にも断れようとするほどであった。さらに出入息の生じること、暫く留まること、変異すること、滅去することの微細な過程を観察し出し、出息と入息がともに刹那刹那に運行していること、すなわち入息出息は一刹那ごとの過程であり、連続した完全な過程ではなく、分割可能な機械化された過程とプログラムであり、組み合わせてつなぎ合わせたものであることさえ覚知できた。

このときに至り、出入息が空で虚妄であり、真実ではないことを豁然と発見した。そこで周利槃特迦の心は豁然と開け、自身の五蘊が空で無我であることを頓悟し、もはやこれらの生滅法に障碍されることなく、たちまち煩悩を断じ尽くし、四果の大阿羅漢を証得した。周利槃特迦の観行の体会は、出入息の来るところと去るところを反観し、来処が空であること、去処もまた空であること、出入息の生住異滅の全過程がすべて空であり、了不可得であることを発見するまで観る、ということである。

観出入息は、観呼吸の過程の後の部分である。観呼吸の最初の部分は、鼻孔から出入りする気を観ることであり、この部分は比較的粗く、観やすい。気が身体の中に入った後、次第に脈絡と連なる息に変わり、この部分は比較的微細になり、非常に微細な息は、鼻孔の呼吸気と関係がなくなることさえある。それは身体自体が自動的に運行する息脈であり、たとえ呼吸が停止し、外の気が鼻孔から身体に入らなくなっても、この息脈は依然として緩やかに微かに運行する。これは四禅で呼吸が停止する境界であり、人は死なない。では息はどのように発起されるのか? 人の身体には毛孔があり、外の気が毛孔を通って身体の中に入り、さらに息に変わり、身体の血液の流動を促し、生命活動の基本的な需要を維持する。

もし四禅定の中でなければ、これほど微少な息気では血液を速く流動させることができず、身体に必要な血液の養分の供給が不十分となり、息苦しく耐えられないと感じる。四禅定は捨念清浄定であり、心念がなく、それほど多くの気血を消耗する必要がなく、毛孔呼吸が提供する養分で十分である。

息の大本営は丹田のところにあり、丹田から全身に運行する。観出入息は主に丹田のこの部分の息を観ることであり、丹田が一起一落するのが一息である。精力が十分で心がさらに細かくなると、息に随って全身に運行し、全身の息を観るようになる。息には粗いものと細いものがあり、急なものと緩やかなものがある。観るときはただ淡然と、疎遠に、客観的に息の運行状況を感受し、いかなる心思と考えも加えない。禅定が深まり、心思が非常に細やかになった後、息の運行が非常に微弱で緩慢であること、一段一段と運行しており、前後の連結がそれほど緊密でなく、つなぎ合わせたように見えること、それほど真実に感じられないことを観察し出す。

これは火の輪を観るのに似ている。普段は火の輪を見れば火の輪であり、一本の松明を速く振り回して形成されたものであり、火の輪などまったく存在しないことを知らない。これは錯覚であり、見間違えた感覚である。心が細かくなった後、注意深く観察すると、火の輪などどこにあるのか、松明が固定した円形の軌道に沿って一点一点と移動しているだけだと発見する。そこで豁然と開け、心の中で大悟し、火の輪などまったくなく、松明もまた空であり、心はたちまち空になり、解脱し、この日からもはや火の輪に縛られず、毎日火の輪の周りをぐるぐる回って落ち着くことがないこともなくなる。

観出入息、および一切法を観るのもすべてこの原理であり、観る最後に、その事もその物もその人もその法もまったく存在せず、すべて空であることが発見され、これで見道となる。如実に法の生住異滅を観察し出しさえすれば、一瞬にして見道できる。観行の指す方向を明らかにし、正しい観行方法を習得し、功夫を修め切れば、見道は難しくない。難しいのは心が修道の上にないことであり、世俗法を依然として重んじ執著し、放下しようとしないことであり、思想観念が決定的な役割を果たす。

衆生は愚痴のため、心が非常に粗く、禅定力がなく、何を見ても錯覚であり、世間の一切法を見ればそのまま一切法であり、真々実々、少しも疑わない。それゆえ必死に絶えず一切法を抓取し、頭を血みどろにし、傷だらけになり、命さえ犠牲にしながら、なおも頑強に戦い続ける。それを美しく努力奮闘と名づけ、大きな志を抱くと名づけ、積極的に進取すると名づけ、事業心があると名づけ、理想があり責任があり引き受けがあると名づけ、まったくその人もその事も存在しない空法のために、すべての代価を払う。まったく愚かで言葉もない。

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