日常法話集録
八つの識心は形もなく相もなく、物質的な色法ではなく、物質的な色法との間には物理的属性を持つような触れ合いがない。したがって識心は物質的な色法である色身の内外や中間には存在しない。もし識心が色身の内側にあるなら、色身という物質的な色法を分解して一片一片に切り開けば、識心を見ることができるはずである。しかし、たとえ色身を細かく切り刻んでも、識心が飛び出してくるのを見ることはできない。後頭部の勝義根 (indriya) を分解しても八つの識を見つけることはできず、だから識心は色身の内にはない。
もし識心が色身の外側にあるなら、色身の外側は虚空であり、識心は虚空の中に存在できず、虚空とは二つの異なる属性であり、互いにその中に存在し合うことはできない。たとえ識心が虚空の中にあるとしても、それはあなたとは関係がなく、誰のものでもない識心であり、万人が共有することもできない。識心が他人の身にあればそれは他人のものであり、無情物の上にあるなら、その物を砕いても見つからない。だから識心は色身の外にはない。
もし識心が色身の中間にあるなら、中間の位置が見つからない。もし色身の表面にあるなら、それはやはり色身の内に属し、中間ではない。位置がどこか一箇所にあるならば、それは色身の内であって中間ではない。だから識心は色身の内・外・中間のどこにもない。
具体的には楞厳経第一巻を参照されたい。世尊が説いた六識は色身の内外中間にないという説法であり、第七識・第八識も六識と同様に、色身の内外と中間にはない。色法と非色法は物理的属性を持つような触れ合いを持つことができず、非色法は色法の内外と中間に存在できない。
すると誰かがこう問うだろう。では八つの識は一体どこにあるのか?どこにもないとは言えないだろう?八つの識は当然それぞれの作用の場所にあるが、目で見て見えるものではない。なぜなら形もなく相もないからである。八つの識が具体的にどのような作用を持つのか、自ら工夫して思惟すれば、ある時点に至ってそれぞれの識を証得することができ、その後、各識がどこにあるのかを知ることになる。そのうち前六識は証得しやすく、第七識・第八識の二識は極めて困難であり、相当な因縁条件を具足して初めて証得できる。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、如来蔵 (tathāgatagarbha) は万能法ではない</h3>問:真の大神通には如来蔵 (tathāgatagarbha) を証することが必要であり、自ら如来蔵識の妙用を運用できてこそ真の大神通であり、これは少なくとも阿羅漢以上の境地である。一般の衆生の小神通も道理から言えば如来蔵の妙用のはずだが、彼らはまだ如来蔵を証しておらず、如来蔵の妙用を持っていないはずである。では、これらの小神通はどこから来たのか?如来蔵は一つの宝蔵であり、どれだけ開発できればどれだけ運用でき、大神通は百分百開発し尽くしたもので、小神通は少しだけ開発したものだ、と言うべきだろうか?
答:一切の衆生は時時刻刻如来蔵を運用しており、使わない者は一人もいない。細菌や蟻のような衆生も含まれる。違いは、証悟した人は知って用いるのに対し、証悟していない衆生は知らず知らずのうちに用いていることである。実はどちらも受動的な用い方であり、用いないわけにはいかず、如来蔵が主体的に助けているのである。仏菩薩のような智慧ある人は善く用い、心地が染汚している人は悪く用いる。しかし善く用いるにせよ悪く用いるにせよ、いずれも如来蔵が意根と五蘊に主体的に協力して生じさせる用であり、意根と五蘊が善であれば如来蔵は協力して善法を造り、意根と五蘊が悪であれば如来蔵は縁に随って悪法を造る。鍵は意根と業種にある。だから修行とは意根を修めて善い種子を蓄えることであり、そうすれば如来蔵は善縁に随って善法を造る。我々はただ修行することだけを考えればよく、如来蔵をどう用いるかを気にする必要はない。意根をうまく用いれば、如来蔵もうまく用いたことになる。
一般に言う神通は五種の神通、すなわち天眼通・天耳通・神足通・他心通・宿命通 (pūrvanivāsānusmṛti) であり、いずれも四禅八定から来るものであり、憑依の類は神通に属さない。如来蔵の機能作用を方便として神通妙用と言う。衆生の意根の心量と智慧が開かれ、禅定が現れれば、神通や大神通が現れる。これは如来蔵が意根に随って顕現したものである。だから修行は主に意根を修めることであり、まずは意識を修める。
一般の神通はいずれも禅定を修めた結果であり、如来蔵を証得したか否かに関わらず、神通は世俗法であり、定学の成就である。世俗法の事柄には如来蔵を持ち出す必要はない。例えば一つの技術を習得したいなら、ただその技術に専念して研鑽すればよく、如来蔵を持ち出しても役に立たない。料理を上手に作りたいと思っても、如来蔵を持ち出しても役に立たず、かえって事を誤る。小乗の空や外道の空であっても、如来蔵を持ち出しても役に立たず、すべての事を如来蔵に結びつける必要はない。しかし地上菩薩の大神通は如来蔵の証悟と関係があり、それは禅定と大智慧の結合であり、どれか一つが欠けても大神通は現れない。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、如来蔵に帰属性があることは、如来蔵が共用できないことを示している</h3>一切の法には帰属性があり、物質的な色法は数量で区分できるが、識心は数量で区分することができない。如来蔵にも帰属性があり、七識五蘊に帰属するが、数量では区分しない。眼識・耳識・意識・意根といういくつかの識心のように、いずれも帰属性があり五蘊に帰属するが、いずれも数量では区分できない。識心は数えることができないが、いずれも帰属性を持つ。そうでなければ衆生は共用できることになり、それは大混乱を招く。もし帰属性がなければ、善悪の業にも帰属性がなくなり、それは因果がないのと同じことになる。甲が業因を造り、乙が業果を得るなら、世間にも出世間にも正理がなくなる。
如来蔵に帰属性があるからこそ、仏の如来蔵は常楽我浄の性を具え、衆生の如来蔵には常楽我浄の性がない。五蘊七識が異なり、業因が異なり、業果も異なるため、如来蔵も異なる。等覚・妙覚の菩薩の如来蔵でさえ常楽我浄の性はなく、凡夫の如来蔵はなおさら常楽我浄の性とは縁遠い。だから仏と衆生のそれぞれの如来蔵には大きな差別がある。凡夫は三大阿僧祇劫を修行して初めて、如来蔵は常楽我浄の性に変わることができる。如来蔵はどのようにして仏地のあの常楽我浄の性に変わるのか?これは七識心を修め、七識心を完全に清浄 (viśuddha/pariśuddha) に修め、無明をなくし、如来蔵の中に蓄えられた染汚をすべて除去すれば、常楽我浄の性に変わる。だから衆生の修行の時劫と程度が異なるため、その如来蔵の功用にも差別がある。
実は衆生と仏の如来蔵の本体はいずれも平等であるが、七識五蘊が平等でないため、如来蔵の機能が制限を受け、差別が生じた。七識とは前の七つの識を指す。衆生の七識と仏の七識には極めて大きな差別があり、それによって如来蔵にも大きな差別が生じる。七識の識性を智性に転じれば、第八識如来蔵は大円鏡智 (ādarśa-jñāna) となり、衆生は成仏する。仏の如来蔵は大円鏡智と呼ばれ、凡夫の如来蔵は阿頼耶識 (Ālayavijñāna) と呼ばれる。機能に区別があるため、名称も異なる。本来、阿頼耶識と大円鏡智の神通妙用は無二無別であるが、前七識の業が異なるため、染汚業が阿頼耶識の広大な功用を制限し、大円鏡智のあの広大無辺の神通妙用を発揮することができない。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、俗諦に執着すれば真諦を見ず――道なし</h3>手把青秧插満田、低頭便見水中天。心地清浄方為道、退歩原来是向前。
この四句に表れているのは、あの特別な、形もなく相もない道であり、示されているのはすべて如来蔵の運作である。しかし未悟の人は、心が完全に境界の中に入り込み、その中の意境を琢磨し、人を見、境を見、事をも見て、景に触れて情を生じ、感慨万千である。実は境界を琢磨することは大いなる過ちであり、実は琢磨すべき境界など存在しない。この詩はいかなる境界も表現しておらず、人もなく境もなく事もなく、すべてが一つの字、すなわち「道」である。問おう。道はどこにあるのか?人と境が対接するすべての事の上にあり、人と境の上にもあり、至る所にある。しかし凡夫は道を見ず、ただ俗相を見るのみである。金沙が漫天に舞い、眼に落ちれば翳となる。金沙は目で見るものではなく、見ればすべて砂土であり、心で体会すれば、すべてが金である。
ある人は言う。あなたのそのような言い方は悪取空ではないのか?これは悪取空ではない。悪取空とは、如来蔵という道の存在さえ認めず、一切の法をすべて空にして、何も残さず、因果さえもなく、因も果も戒律もなく、一切の身口意行に顧慮がないことである。この四句が示しているのは、人もなく境もなく事もなく、まさに空でないあの道――如来蔵であり、人・境・事に執着することこそ、まさに空に執着しているのである。凡夫はまだ道を証していないため、どのような見方をしても正しくなく、人・境・事に執着しているとき、どうして如来蔵を見ることができ、如来蔵を証得できようか?
そして空とは、大小乗の法が指し示すものである。色受想行識の五蘊の人の空、内外の六塵境界の空、人もなく境もなければ、事もない。これらの虚妄の法を空にして初めて、あの空でない如来蔵を見ることができる。空の法に執着すれば、慧眼が覆われ、どうして空でない如来蔵を見ることができようか?
<h3 style="text-indent: 2em;">五、声聞縁覚は第一義空を見ない</h3>大般涅槃経原文:中道者名为佛性。以是义故。佛性常恒。无有变异。无明覆故。令诸众生。不能得见。声闻缘觉见一切空。不见不空。乃至见一切无我。不见于我。以是义故。不得第一义空。不得第一义空故。不行中道。无中道故。不见佛性。
解釈:中道を仏性と名づける。それゆえ仏性は常恒で変異がないと言う。無明が心眼を覆う缘故で、諸々の衆生は仏性を見ることができない。声聞縁覚の修行は現象界の中にのみあり、現象界の外に超脱することができないため、現象界の一切法の空しか見ることができず、現象界の外の空でない仏性を見ることができない。さらには声聞縁覚は現象界の中の一切法がすべて無我であることしか見ることができず、現象界の外の仏性我を見ることができない。それゆえ声聞縁覚は第一義の空を証得することができない。第一義空を証得できない缘故で、声聞縁覚は中道を行っていない。中道がないため、中道の仏性を見ることができない。
仏性の中道性については、楞厳経の中で仏が説いた如来蔵の中道性を参照されたい。如来蔵と仏性はいずれも有法であり、真実に存在し、本体は空でなく、性質は空である。衆生は無明のために世俗界の現象法に執し、現象界の背後にある実法・真法を探究する智慧がなく、如来蔵と仏性を証得できない。
声聞縁覚にも大乗法の無明があり、現象界の背後にある実法・真法を探究せず、如来蔵と仏性を実証できず、現象界の空しか見ず、背後の真法の空でないものを見ない。まさに真法の第一義の空でないものがあるからこそ、現象界の空があるということを知らない。それゆえその行は空に偏り、中道がない。あの真法こそ衆生の本体、本来の面目であり、すなわち衆生の我、真我である。真我から五蘊世間の仮我が衍生するが、仮我は我ではない。だから声聞縁覚の空は究竟のものではなく、中道でもなく、偏ったものであり、純空に偏り、空と有が円融できない。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、本有種子と新熏種子の関係は何か?</h3>本有とは、無始劫以前から本来有り、縁もなく存在しているものを意味し、それは如来蔵の中の七大種子、すなわち地・水・火・風・空・見・識であり、これらの種子は不生不滅である。本有の七大種子は、五蘊七識が造作しなくても天然に存在し、語るべき道理もなく、それを生じさせる法もなく、それを滅ぼせる法もなく、清浄本然にして、法界に周遍して現れ、薫習を受けず、変異せず、永遠に清浄である。
新熏とは、五蘊が出生した後、七識の業行が現れて落ちた種子を意味し、業種とも言い、後天的に出生したもので、生滅し絶えず変異するものである。新熏の種子は、後天に五蘊七識が業行を造作して形成したものであり、因縁所生法であり、善・悪・不善不悪の業種に分かれる。七識が清浄になった後、業行を造作すれば、残るのはすべて清浄な業種であり、悪業の種子がすべて消滅した後、如来蔵は転識成智し、仏道を成就する。
本有の種子と新熏の種子の関係は、本有の種子が三界の中に出生して五蘊七識の世間万法を形成し、七識が因縁法を借りて業行を造作すると、業行の種子が如来蔵の中に落謝する、ということである。本有の種子がなければ、後天の新熏の種子もない。
心に疑問があるときは、ただ問題の中の概念をはっきりさせれば、問題は半分解答されたことになる。概念の内包がはっきりしなければ、たとえ他人が答えたとしても、自分も容易に混乱してしまう。概念がはっきりしなければ、問う問題自体が不明確で問題があり、一般の人は答えにくくなる。もし甲乙丙丁が本有と新熏についてそれぞれ自分の理解を持って一緒に討論するとき、何年何月に観念を統一し、共通認識を形成できるだろうか?
<h3 style="text-indent: 2em;">七、阿羅漢の如来蔵は異熟識と呼べるか?</h3>阿頼耶識 (Ālayavijñāna)、異熟識、無垢識 (amala-vijñāna)、この三つの名称はいずれも第八識如来蔵を表す。名称が異なるのは、含蔵している業種が異なるからである。業種の変化は、生死をもたらす無明が相当な程度まで軽減されたこと、あるいは滅尽されたことを示している。そのうち阿頼耶識という名称は分段生死 (pariccheda-maraṇa) があることを表し、悪業の種子がまだ重く多いことを意味する。分段生死がなくなりながら変易生死 (parināma-maraṇa) がまだあるとき、すなわち煩悩の現行がすべて断尽されたとき、悪業の種子が消滅し、三界の分段生死を感召しなくなる。これは小乗四果阿羅漢の境地であり、このときの如来蔵は異熟識と呼ばれる。如来蔵を何と呼ぶべきかは、含蔵している生死業種によって、煩悩が断尽されたか否か、習気が断尽されたか否かによって決まる。異熟識の最低基準は煩悩の断尽であり、最高基準は煩悩を断尽するだけでなく、相当な程度の習気も断つことであり、これは同時に八地菩薩の唯識種智も具えていることを示している。
阿羅漢は煩悩を断尽したため、もはや分段生死がなく、すなわち三界の六道輪回がない。六道の中で輪回はしないが、六道の外の聖者の身分と修道の道場はまだあり、この身分で三界の中に修行を続け、成仏に至るまで三界の外に出ない。だから阿羅漢は煩悩を断尽すれば、六道輪回の分段生死から脱離し、阿頼耶識は異熟識と改名される。その解脱の境地は八地菩薩に相当するが、習気はまだ断ち始めていない。八地菩薩は習気を断つが、まだ断尽しておらず、断尽していなければ変易生死があり、その如来蔵も異熟識と呼ばれる。
このことから見て取れるように、生死は煩悩と煩悩の習気から来る。修行の指し示すところは煩悩を断ち、習気を断つことであり、大乗の修行であれ小乗の修行であれ、目標はいずれもこれである。ただ小乗の修行は煩悩の断尽の程度にしか達することができず、習気を断つことができないため、引き続き大乗を修めて、一切の無明を断尽し、仏果を成就することを期さなければならない。小乗の法理は深さが足りず、究竟でもないため、行者に習気を断つよう指導することができないが、大乗の法義は次第に深入りし、微細に至るまで深く、遺漏がなく、行者に一切の無明習気を断尽させ、最終的に成仏させることができる。この道理を明らかにした後は、学仏修行の中で時々自分の心性を検査し反観し、煩悩が軽減されたか、心地が少しでも清浄になったかを見なければならない。学んだ理論を究竟と考えてはならない。理論は煩悩と習気を断つために奉仕するものであり、習気が断尽されれば、一切の理論は用いる場所がなくなる。
阿羅漢が無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) から出てきた後、菩薩の六度の中で、大乗如来蔵の智慧が具わっていないだけでなく、福徳も不足しており、大乗の戒行も完備していない。しかし修めば、すぐに修め足りるはずである。阿羅漢がひとたび開悟して如来蔵を証得すれば、その果位は七住位ではなく、初地前後であるべきであり、初地に入るのは非常に速くできる。すでに煩悩を断尽しており、禅定も初禅定以上であるため、初地菩薩の果位に達するのはそれほど困難ではない。初地以上の菩薩は煩悩がまだ断尽しておらず、解脱の智慧と禅定の面では阿羅漢に及ばないが、福徳が非常に大きく、阿羅漢は遠く及ばない。最終的に誰が先に成仏するかは、言い難い。
総じて言えば、小乗の極果は大乗八地菩薩の解脱の智慧の証量に相当するが、八地菩薩の甚深な唯識種智はなく、転識成智もしていない。智慧の面では、阿羅漢と八地菩薩の差は極めて大きく、初地菩薩との差も極めて大きく、さらには大乗の無生の智慧と三賢位の菩薩の間にも大きな差別がある。もし行者が小乗の解脱だけを修め、大乗を修めなければ、その解脱は依然として究竟のものではなく、生死の大事は結局真に解決されていない。涅槃できるとはいえ、依然として生死がある。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、衆生はなぜ豚肉を食べられないのか?</h3>ある学人が問う。「如何にして階級に落ちないか?」黄檗禅師云:終日吃饭未曾咬着一粒米,終日行未曾踏着一片地,与么時無人我等相,終日不離一切事,不被諸境惑,方名自在人。更時時念念不見一切相,莫認前後三際,前際無去,今際無住,後際無来,安然端坐,任運不拘,方名解脱,努力努力!此門中千人万人,只得三個五個,若不将為事,受殃有日在,故云着力。今生須了却,誰能累劫受余殃!
階級とはここでは修行の次第を指す。階級に落ちないとは、直接に法の最も根本的で最も究竟のところに到達するという意味である。どのようにすれば直接に空性 (śūnyatā) を証得したと言えるのか?黄檗禅師は答える。もしでき得るなら、終日食事をしながら一粒の米をも食べたことがないかのように、心は空で我に着せず、終日歩きながら一片の地をも踏んだことがないかのように、心は空で我に着せず、自分の食事や歩行の相に落ちない。この境地に達したとき、心中に人相も我相もなく、終日一切の事を離れないが、諸々の境界に惑わされず、諸相に縛られない。これをもって自在人と名づける。さらに時時念念、一切の相を見ず、前際・現際・後際の三際を認めてはならない。前際は去ったことがなく、現際は念念として留まらず、後際は来たことがないからである。一切の時の中で安然として端坐し、任運に行き、法に縛られない。これをもって解脱と名づける。
これは禅宗の般若 (prajñā) 証悟後の境地であり、五蘊の空の境地である。なぜ空なのか?如来蔵が生じたものであるから、空と言うのである。この境地は小乗の空の境地よりさらに一歩進んでおり、凡夫の有の境地よりどれほど高いか知れないが、それでも唯識の空の境地ほど究竟ではない。小乗と般若の次元は人空であり、唯識の次元は法空である。法空は人空の基礎の上に、さらに細緻入微であり、範疇はより広くより深い。
例えば食事という事について、般若の次元では、食事をする我はなく、食事をする私はなく、私は食事をする我相に着せないと考えるが、唯識では飯の相さえもない。例えば皆が興味を持つ豚肉を食べるという事について、五蘊は根本的に外相分の実質の豚肉に接触できず、後頭部の中の内相分の豚肉にしか接触できないと言う。しかし豚肉を食べ終わった後、内相分の豚肉がなくなっただけでなく、外相分の豚肉もなくなっている。これはなぜか?
実質の豚肉を食べられないということは、豚肉を食べていないのと同じである。では口に入り腹に呑み込まれたものは何か?口が食事をし、飯は後頭部の中の飯であり、口も歯も舌も後頭部の中のものであり、食事をするあなたも空である。あなたは飯を食べたと言えるのか?飯を豚肉に置き換えて、あなたは豚肉を食べたと言えるのか?あなたが食べたのは内相分の豚肉であり、外相分の豚肉はなくなっている。どのように消えたのか?秘密である。特大の秘密である。一生かけて参るに値し、幾大劫もかけて参るに値する。
この法は非常に深い。小乗の断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) と大乗の明心の基礎があっても、容易に参れない。内外相分の生滅はいずれも如来蔵が起用しているものであり、六識の機能も如来蔵が起用した結果である。法法皆如来蔵であり、開悟しなければ根本的に参ることができない。
無始劫以来、色声香味触法の六塵境界において、衆生は一つとして接触したことがないのに、時時刻刻六塵境界を己のものとしている。心口に念念として言葉がある。これは私のもの、あれは私のもの、私の身体、私の家族、私の言う言葉、私の聞く声、私の食べる肉、飲む水、寝るベッド、私の権力地位名声などなど。この香、あの味、あなたはどれにも接触できない。どれがあなたのものなのか?生生世世追求し追いかけたものは、実はすべて空と張り合い、空と争い、空とゲームをしていたのであり、しかも自分自身も空である。空と空が争い、ゲームの主役さえいない。いわゆる争いもまた空である。皆が世俗法のゲームに時間を浪費するなら、真にこれらの真理を探究するほうがまさっている。生生世世白々しくゲームをすることのないように。真理はあなたを引きつけないのか?
ある人が木の棒で机をコツコツと叩き、そして非常に確信を持ってこう考える。見よ、私は机を叩いた、私は威風をふるった、私は鬱憤を晴らした、と。実際にはどうか。木の棒は後頭部の中の木の棒であり、手は後頭部の中の手であり、机は後頭部の中の机であり、行為は後頭部の中の行為である。この行為を見るのは後頭部の中で見ており、声を聞くのは後頭部の中で聞いており、鬱憤が晴れたと感じるのは後頭部の中で感じている。すべての五蘊の活動は後頭部の中で造作されている。
後頭部はどれほど大きく、これほど多くの法を容れられるのか?これらの法どころか、億万の法、無量数の法がすべて後頭部の中で生じている。空の法、実質的性質のない法だけが後頭部の中に落ちるのであり、実質のある有相の法は後頭部の中に落ちない。世間の一切の法には実質がなく、すべて空であり、すべて影像であり、すべて影である。だからこそ、すべて後頭部の中の法なのである。豚肉も同様であり、豚肉を食べることも同様であり、私が豚肉を食べることも同様に、その人もその事もない。それでも何に執着し、何を追求するのか?愚か者たちよ!
この理を証得するには、まず断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) をし、次に明心をしなければならない。断我見で五蘊の空を証得することは非常に重要である。内外相分の問題は、開悟してから参るべきであり、禅定と智慧がともに深くなって初めて、少し手がかりが得られる。如来蔵という角度から参ってこそ、眉目が得られる。なぜなら一切の法の実質は如来蔵の機能作用だからである。
如来蔵も五蘊の我も、世間のいかなる法にも接触したことも所有したこともない。しかし世間一切の法の外相分と内相分は、そのように絶えず生々滅滅と演変され、絶えず造作されている。この現象は確かに受け入れがたい。空の法は、世間の人には信じがたく、有に執することに慣れている。しかし仏法は大乗であれ小乗であれ、すべて空を指し示している。空の果てまで、一糸まとわず、究竟に空を徹底すれば、成仏するのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、六祖の頓悟と神秀の漸修の関係</h3>唐代の南宗門派は六祖を首領として頓悟を主張した。六祖の有名な偈は「菩提本無樹、明鏡也非台、本来無一物、何処惹塵埃」である。北宗門派は神秀を首領として漸修を主張した。神秀の偈は「身是菩提樹、心如明鏡台、時時勤払拭、勿使惹塵埃」である。六祖の偈は、彼がまだ小乗の空の境地にのみあり、大乗はまだ悟道していないことを示している。神秀の偈は、彼がまだ身心を修理する段階にあることを示している。当時の人も後世の人も多くは六祖を讃え、神秀を貶めたが、その中にそれぞれ道理があることを知らない。根基が異なり、因縁が異なるため、修める法も同じであるべきではない。両者は頓悟と漸修の関係であり、一致を強要してはならない。
漸修と頓悟の関係について、私はかつて一つの例を挙げたことがある。一本の大木を鋸で切るようなもので、大木が切り倒されるときを頓悟に喩え、大木が切り倒される前の作業を漸修に喩える。漸修して初めて頓悟でき、頓悟した後もさらに漸修が必要である。前の修行と後の修行で修める法は異なり、悟後の修行と悟前の修行は、修めるものが必ず異なる。神秀の言う漸修は、頓悟の前の漸修であり、基礎を打つ段階にある。このような漸修がなければ、後の頓悟はあり得ない。一方、六祖の本来無一物は、まだ大乗の頓悟ではないが、彼の前の修行の工夫が前世においてすでに完成しており、何世何劫も前に完成していたのかもしれず、今世では内心がすでに空になっており、身心を修理して時時勤しく払拭する必要がない。
六祖の立場に立てば、六祖の根性をもってすれば完全に直接空に行くことができる。大乗の空には達していないが、禅宗の頓悟にも属さないとはいえ、六祖には畢竟空にする能力があり、この境地は確かに神秀よりはるかに高く、すでに漸修という段階を過ぎており、因縁が到来すれば、いつでも頓悟の境地に至ることができる。一方、神秀は頓悟からまだ遠く、彼は必ず漸修し、必ず時時勤しく払拭し、心の上の汚濁を一掃しなければならない。そうでなければ頓悟できず、小乗の空さえ不可能である。
どこにいるかによって何を言うかが決まり、どの段階にいるかによって何の法を修めるかが決まる。各人が置かれている境地が異なるため、修める法は同じであるはずがない。小学生には小学生の修める法があり、大学生には大学生の修める法がある。すべての人に大学の課程を学ぶよう要求することはできない。ほとんどすべての人が前の小学と中学の段階を経なければならず、道は一歩一歩歩くものであり、途中の過程は飛び越えることができない。時間の長短は人によって異なるが、この過程は必ずなければならず、一瞬の過程であってもなければならない。これらすべての過程を歩み終えて初めて、最後のあの頓悟の境地に至ることができる。これが六祖と神秀の頓悟と漸修の弁証的関係である。
<h3 style="text-indent: 2em;">十、金剛経第三分の真実義</h3>第三分原文:大乗正宗分
佛告須菩提。諸菩薩摩訶薩。応如是降伏其心。所有一切衆生之類。若卵生。若胎生。若湿生。若化生。若有色。若無色。若有想。若無想。若非有想非無想。我皆令入無余涅盤而滅度之。如是滅度無量無数無辺衆生。実無衆生得滅度者。何以故。須菩提。若菩薩有我相人相。衆生相寿者相。即非菩薩。
金剛経第三分の中心思想は、仏が菩薩にどのようにその心を降伏させるかを教えたことである。なぜその心を降伏させるのか?菩薩の心中には我相・人相・衆生相・寿者相があり、四相ある者は真の菩薩ではないからである。菩薩はどのようにしてその心を降伏し、四相を滅除するのか?仏は言う。たとえ四生九有の一切衆生をすべて無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に度入れて滅度したとしても、あなたは衆生を度した、衆生が度されたと考えてはならない。法界の中には実は衆生もなく、我もないからである。我がないから、あなたは我が衆生を度したと考えてはならず、衆生がないから、あなたは無量無辺の衆生があなたに度されたと考えてはならない。こうして四相が滅除され、その心は清浄 (viśuddha/pariśuddha) となり、降伏を得た。全文を通じて、衆生を無余涅槃に入らせることに重点を置いて説いているのではなく、あなたが本当にこれほど多くの衆生を無余涅槃に度入れたと仮定しているのである。実際にはそうではない。
人に我相があれば、私はどうこうだ、私はどうしたい、私は必ずどうしたいと考える。重点はすべてその彼の我にあり、至る所で我を中心とし出发点とし、我性が必ず顕彰される。
人に人相があれば、人の善悪是非好悪に執着し、人々の群れから離れられず、至る所で人々に依存して世俗の利益を得ようとし、人々から離れるとどう安住すればよいかわからなくなる。人に衆生相があれば、自分が衆生に囲まれ追いかけられること、衆生の首になることを望み、名聞利養を追い求める。人に寿者相があれば、自分が長命百歳で、長生不老で、寿命が長く続くことを望む。
そしてこの四相はいずれも虚偽の相、幻化不実の相であり、実有ではない。心に四相があれば断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) できず、結縛を断てず、生死輪回を止息できない。だから菩薩はまず断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) して四相を破るべきである。四相を破って初めて、菩薩は心を空にでき、無為になれ、福徳が広大無辺になり、この広大無辺の福徳をもって無上正等菩提を成就できる。
ある人が問う。仏はなぜ無量無辺の衆生を無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入らせたのか?全文から見れば、仏は衆生を無余涅槃に入らせたのではない。全文の宗旨とその中の一句话、一つの言葉との差は非常に大きい。仏は衆生に、法を学び経を読むには義に依るべきで語に依るべきではないと告げている。義は完全な一書・一章・一節・一段の中でこそ、如実に体現されるのであり、その中から一部分を抽出すれば、その含義は歪められるのではないか?経を読むには仏経の全貌と宗旨を完全に十分に理解すべきであり、断章取義したり、断句取義したりしてはならず、義に依るべきで語に依るべきではない。さもなければ三世の諸仏の冤となる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、一切法皆菩提、二相なし</h3>楞厳経原文:佛告文殊及諸大衆。十方如来及大菩薩。於其自住三摩地中。見与見縁。并所想相。如虚空華。本無所有。此見及縁。元是菩提妙浄明体。云何於中有是非是。
解釈:仏は文殊および諸々の大衆に告げて言う。十方の如来および登地した大菩薩たちは、神様 (祂) らが自ら住着する甚深な三昧 (samādhi) の中において、諸法を見る見性と、この見性が依拠する縁、および神様 (祂) らの相、心中に顕現した一切の六塵法相は、いずれも虚空の中の花のように、本来いかなる世俗法相も存在しない。この見性および見性を生じさせる縁は、本来菩提の妙浄明体であり、どうしてこの一切の法相の中に、菩提であると菩提でないとという二相を生じさせることができようか?
ここでさらに解釈説明する必要があるのは、諸仏菩薩はしばしばそれぞれの三昧 (samādhi) の中にあり、この三昧 (samādhi) は禅定に唯識種智を加えた定慧等持の境地であり、智慧の不足な者は測り知ることができない。三昧 (samādhi) の中にある諸仏菩薩も法を見、世俗界の六塵境界を見る。これは七識の虚妄心の見であり、仏性の見ではない。もちろん七識の見はいずれも仏性の見から離れられず、そうでなければ見ることができない。そして七識の見も、種々の縁に頼って初めて現れるものであり、縁がなければ見はあり得ない。縁に依頼して生じる見は、当然虚幻不実の見である。
諸仏菩薩は六塵法相を見た後、心中に法相の影像が現れる。これは見の対象と結果であり、五蘊の中の想蘊の機能作用であり、各種の法相に対する認知と確認である。仏は、諸仏菩薩の七識の見性と、見性を生じさせる縁、および心中に現れた法相、この三者はいずれも虚空の中の花のように、本来存在せず、この見・縁・相の三者の世俗相はないと説いた。では、この見性と縁は一体何なのか?明らかに有るのに、無いと言う。仏は言う。これ本来、清浄で微妙で明浄な菩提の本心であり、真心自性とも呼ばれ、如来蔵 (tathāgatagarbha) とも呼ばれる、と。どうして見と縁が菩提の自性そのものである、あるいは菩提の自性そのものではないと言えようか?
黄金が金器、金の皿・金の碗・金の腕輪に打ち立てられたように、これらの金器は黄金ではないとは言えず、これらの金器が黄金そのものだとも言えない。畢竟、黄金が形を変え、俗用を持ったのであるが、たとえそうであっても、金器には黄金の価値と影がある。しかし凡夫は完全に金器を俗物と見なし、皿・碗・腕輪の機能作用に執着し、毎日金の碗を持って物乞いをし、飯を盛り、食事をし、碗の俗用を捨てようとしない。
ここに至って黄金は完全に俗物と見なされ、黄金そのものの価値が覆い隠された。黄金そのものの価値がひとたび覆い隠されると、所有者は大富長者から物乞いの乞丐に変わり、流離失所し、窮困潦倒し、悲苦が交々する。金の碗を捧げて街頭で餓死するとは、何と不幸で、何と愚痴なことか。凡夫がひとたび慧眼・法眼・仏眼を開き、金を識別すれば、直ちに凡夫から仏菩薩の本尊に回帰する。では、我々はどのように参禅し実相を参ずべきか、すべて了然したであろうか?
原文:文殊吾今問汝。如汝文殊。更有文殊是文殊者。為無文殊。如是世尊。我真文殊。無是文殊。何以故。若有是者。則二文殊。然我今日非無文殊,於中実無是非二相。
解釈:文殊よ、私は今あなたに問う。あなた文殊について言えば、そのほかにもう一つの文殊が文殊本尊であるのか、あるいはもう一つの文殊が文殊本尊であるということはないのか?文殊菩薩は答えて言う。その通りです、世尊。私は真の文殊であり、もう一つの文殊が文殊であるということはありません。なぜそう言うのか?もしもう一つの文殊が文殊であるなら、二つの文殊があることになるからです。しかし私は今、文殊が文殊本尊であるということがないわけでもありません。この事柄の中には、実に是と非という二つの法相がないのです。
文殊本尊はどうして是非の二相を生じさせることがあろうか?文殊は文殊であり、別の是と非はない。これは偽命題であり、戯論である。同理、一切法は皆菩提であり、別の是と非の二相はない。全体が即真如であり、この理を証得すれば、即ち三界の本尊の身分に回帰し、もはや物乞いの乞丐ではない。一切の衆生はできるだけ早く眼の上の塵を拭い去り、厚い目隠しの布を剥ぎ取り、宝蔵を識り取って自性の家園に回帰せよ!