背景 戻る

書籍
作品

日常法話集録

作者: 更新時間:2025-07-13 14:29:54

第一章 浄土篇

一、阿弥陀経における往生の条件

原文:若(も)し善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説き聞(き)かんことを聞(き)きて、名号を執持し、若(も)し一日、若(も)し二日、若(も)し三日、若(も)し四日、若(も)し五日、若(も)し六日、若(も)し七日、一心に乱れず。その人、命終わらんとする時、阿弥陀仏と諸の聖衆、其の前に現在せん。是の人は終わるとき、心に顛倒(てんどう)することなく、即ち往生を得て阿弥陀仏の極楽国土に生ずべし。舎利弗(しゃりほつ)、我れ是の利を見るが故に、此の言を説く。若し衆生ありて、是の説を聞く者は、まさに発願すべし、彼の国土に生まれんと。

釈:もし善男子・善女人が極楽世界に阿弥陀仏がおられると聞き、往生を願って阿弥陀仏の名号を称え、あるいは一日称えて一心不乱の境地に達し、あるいはそれぞれ二日、三日、四日、五日、六日、七日と称えて一心不乱の境地に達したとする。この人が臨終の時、阿弥陀仏と諸聖衆がこの人の前に現れるであろう。この人が命を終える時、心に乱れがなく、娑婆(しゃば)世界の一切の人・物・事に執着せず、阿弥陀仏の極楽国土に往生できる。舎利弗よ、私はこのような殊勝な利益を見たからこそ、この言葉を説くのである。もし衆生がこのような説を聞くならば、往生を願い発(おこ)すべきである。

仏はここで往生の条件を明確に説かれた。一心不乱に修め、念仏三昧が現れ、かつ命終わる時、心に乱れがなく、娑婆世界を思い慕ってはならない。もし娑婆世界を思い慕えば、たとえ阿弥陀仏と諸聖衆が面前に来られても、お戻りになり、導くことができなくなる。この意味は、念仏して予知時至(往生の時を知る)までに至っても、往生が保証されないということである。なぜなら臨終の時の禅定は変数であり、固定不変ではなく、心念と業力もまた変数であるからだ。定力が消え失せ、心が散乱し、雑念が生じれば、何も語ることはできない。定力に影響する要因は多く、臨終時に何らかの因縁が現れ、心が散乱するかもしれず、往生は不可能となる。

一心不乱は達成できるが、臨終時に心に乱れがないこと、これが鍵であり、非常に困難である。臨終時に、もし業障が現れ、怨親債主(怨みや恩のある者、借りがある者)が訪れれば、心に乱れのない者はほとんどいないであろう。一瞬の貪りさえ生じれば往生できない。信はどのように信じ、どの程度まで達するべきか、願にはどのような心の願いを持つべきか、行にはどのような行動を取るべきか、何をなすべきか。信・願・行の内容は豊富である。もし往生を望むなら、まず坐禅三昧経の冒頭で仏が説かれた各種の心を治める内容に触れ、心を調えて乱れをなくしてこそ、往生の望みがある。

年配者や病を患う者は、行門(実践行)に力を入れ、不必要な法義理解に時間を費やすべきではない。なぜなら臨終時はこの生涯の行いが後世の趣向を決定し、解った法義は決定的な作用を持たないからである。浄土を求める上で最も重要なのは願力と願行であり、心の願い、心念の力が重要である。願力を堅固にするには、世間の苦を深く認識しなければならない。世間の苦を知らなければ、心は貪愛によって懈怠(怠り)を生じる。多くの学仏者は、学ぶ期間に関わらず、心は悠々として緊迫感がなく、毎日あちこち見て回り、何にでも興味を持ち、乱雑に知識を吸収し、修行に対する正しい認識や計画がなく、後世に対しても無知で畏れを知らない。このような者は往々にして初心者であり、初生の牛は虎を恐れず、初心の学仏者は苦も死も恐れない。

念仏の法門を修学しようとする者は、まず浄土宗初祖である慧遠大師の修行の事跡を見て、大師が如何に修行されたか、なぜ三度も三昧中に聖像を拝見できたのかを観るべきである。我々は如何に修行に励めば、命終えて浄土に往生できるかを学ぶべきである。

二、往生後、蓮華台において何の法を熏習するか

阿弥陀経原文:彼の国には常に種々奇妙なる雑色の鳥あり。白鶴・孔雀・鸚鵡(おうむ)・舎利(しゃり)・迦陵頻伽(かりょうびんが)・共命(ぐみょう)の鳥。是の諸の衆鳥は、昼夜六時に、和雅(わげ)の音を出だす。其の音は演暢(えんちょう)して、五根・五力・七菩提分・八聖道分、是の如き等の法を宣べる。其の土の衆生、是の音を聞きて已(おわ)り、皆ことごとくに仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。

釈:これは極楽世界国土における衆生の修行の状況を紹介している。極楽世界には常に種々奇妙で色彩豊かな鳥類がおり、白鶴、孔雀、鸚鵡、舎利、迦陵頻伽、共命の鳥がいる。これらの鳥は昼夜六時に和雅(優雅)な音声を発し、その内容は三十七道品である。和雅音は極楽世界の蓮華台に住む衆生に向けて唱えられ、衆生はこれを聞いて、三宝(仏・法・僧)の恩徳と功徳を念じる。

したがって、衆生が極楽世界に往生しても、依然として四聖諦の法および助道の法を修め、まず五蘊無我を熏習し、我見を断つ基礎を築き、明心見性し華開見仏(悟りを開き仏を見る)する基礎を築かなければならない。我々が娑婆世界で仏法を学び修行する際、阿含経を学ばず、四聖諦を理解せず、三十七道品を修めなければ、果たして良いのだろうか。より多くの法を修め、より多くの理を明らかにすることは、往生の保証を少しずつ増し、極楽世界に往生してからの修行をより迅速にする。極楽世界に往生した衆生は、過去の願力、発心、修めた法に従って大小乗に分かれるが、大乗であれ小乗であれ、蓮華台において四聖諦と三十七道品を熏習し、煩悩を降伏して初めて蓮華台の外に出て、仏や菩薩に会い法を聞く機会を得、証果を得る機会、明心見性する機会を得るのである。

三、下品下生の往生条件

観無量寿経原文:下品下生(げぼんげしょう)とは、或(あ)る衆生、不善の業を作(な)し、五逆十悪(ごぎゃくじゅうあく)、諸(もろも)ろの不善を具(そな)う。此(か)くの如き愚人、悪業の故を以(もっ)て、応(まさ)に悪道に堕つべし。多くの劫を経歴(けいりゃく)し、受くる苦窮(くきゅう)めなし。此(か)くの如き愚人、命終わらんとする時、善知識に遇(あ)い、種々に安慰し、妙法を説きて、念仏せしむ。彼の人は苦に逼(せま)られて、彼の仏を念ずるに遑(いとま)あらず。善友、告げて言(い)わく、「汝若(も)し彼の仏を念ずること能(あた)わざれば、応(まさ)に無量寿仏を称(しょう)すべし」と。是の如く至心(ししん)に、声を絶えざらしめ、十念を具足(ぐそく)して、南無阿弥陀仏を称す。仏名を称するが故に、念々の中に、八十億劫の生死の罪を除く。命終わるとき、金蓮華を見る。猶(な)お日輪の如く、其の人の前に住(とどま)る。一念の頃(こう)の如く、即ち往生を得て極楽世界に生ず。蓮華の中に於(おい)て、十二大劫を満(み)て、蓮華方(はじ)めて開く。観世音(かんぜおん)・大勢至(だいせいし)、大悲の音声を以て、其の為(ため)に諸法実相を広く説き、罪を除滅する法を説く。聞きて已(おわ)り歓喜し、応時(おうじ)に即ち菩提の心を発(おこ)す。

釈:下品下生の状況は次の通りである。ある衆生は不善の業行を作り、五逆十悪の罪業さえ作り、一切の不善業を具足した。このような愚痴な者はこれらの悪業の故に、三悪道に堕ち、多くの劫の時間を経て、尽きることのない苦しみを受けるべきである。このような愚痴な者が臨終の時に善知識に出会い、彼に対して種々の教導と慰め励ましを与え、妙法を説き、念仏を教えた。その愚痴な者はすでに苦痛に迫られ、念仏ができなかった。

善知識は彼に言った、「もしあなたが阿弥陀仏を念じられないなら、無量寿仏の仏名を称えなさい」と。そこでこの者は非常に誠実に仏名を称え、声を絶やさずに十遍の南無阿弥陀仏名号を念じた。彼が至心に仏名を称えた故に、一念一念の中で八十億劫の生死の罪を除滅した。命終わる時に金色の蓮華が日輪のように大きく、彼の前に浮かぶのを見た。この者は一念の間に極楽世界に往生した。蓮華の中に正に十二大劫住み、蓮華が開いた。蓮華から出た後、観世音菩薩と大勢至菩薩が大悲の音声で彼に諸法の実相を広く説き、彼の罪業を除滅した。この者はこれを聞いて大いに喜び、直ちに菩提心を発した。

至心に念仏できる者は、皆真実の心で念仏する者であり、心の奥底から念仏するのであって、口で念じ心では念じない念仏ではない。ただ意識で信受し念仏するだけでなく、意根も信受し念仏してこそ、念念において八十億劫の生死の罪を消滅できる。この罪が消えれば、障りがなくなり、極楽世界に往生するのである。罪業は皆意根と相応するため、意根も念仏してこそ、念念において八十億劫の罪業を消滅できる。もし単に意識で仏を信じ念じるだけで、至誠でなければ、業を消すことはできず、まして往生はできない。大悪業を作った者が臨終に際して善知識の摂受に巡り会うのは非常に容易ではなく、至心に念仏できる者は、娑婆世界ではなおさら見つけがたい。一生念仏しても意根に熏習されていない者は至る所にいる。したがって大悪業を作った者が臨終に極楽世界に往生できることは稀有で得難いことである。

下品下生は、大悪業を作り、かつ仏法を信じる機会がなかった者を摂受する。このような者は臨終に際してすぐに地獄に堕ちようとしており、地獄の悪相がすでに現れていることさえある。この時、この悪人は恐怖心を生じる。善知識が彼に極楽世界浄土念仏の法門を開示すると、この者はなお若干の善根があり、内心の恐怖と無力感から、直ちに非常に信受し、たった十遍の念仏でその場で極楽世界に往生できる。このような条件を備えた者のみが下品下生できるのであり、以前にすでに仏法を信じていた者が再び悪業を作れば、往生できなくなる。なぜならすでに仏法を信じ学んでいるため、念仏に対してとっくに懈怠し誠心がなく、これほどの大罪を犯した以上、臨終に悪相が現れても至誠心が生じず、したがって往生できないからである。

四、臨終時に如何にして心に乱れなく極楽世界に往生できるか

仏説阿弥陀経原文:若し善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説き聞かんことを聞きて、名号を執持し、若し一日、若し二日、若し三日、若し四日、若し五日、若し六日、若し七日、一心に乱れず。その人、命終わらんとする時、阿弥陀仏と諸の聖衆、其の前に現在せん。是の人は終わるとき、心に顛倒することなく、即ち往生を得て阿弥陀仏の極楽国土に生ずべし。

釈:もし善男子と善女人が、西方極楽世界に阿弥陀仏がおられ、人を導き往生させてくださると聞き、ただ阿弥陀仏の名号を称え、かつ一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日と、そのような時間の中で絶え間なく念仏し、かつ一心不乱であれば、この人が臨終の時、阿弥陀仏と極楽世界の諸大菩薩および阿羅漢などの聖人大衆が、この人の前に現れるであろう。この人がまさに命終わろうとする時、心に乱れがなければ、直ちに阿弥陀仏と諸聖衆に随って極楽世界に往生するであろう。

前の言葉:(念仏七日)一心不乱、其の人命終わらんとする時、阿弥陀仏と諸の聖衆、其の前に現在せん。後の言葉:是の人終わるとき、心に顛倒することなく、即ち往生を得て阿弥陀仏の極楽国土に生ずべし。この二つの言葉の意味には違いがある。前の言葉はただ臨終時に、仏と諸聖衆が念仏者の前に現れることを示しているが、この念仏者が必ず往生できることを意味するものではない。なぜなら後の言葉にはさらに「心に乱れがないこと」という往生の条件があり、後の言葉は前の言葉を補足し、臨終時に心に乱れがなければ往生できることを示している。前の言葉は阿弥陀仏と諸聖衆が念仏者の面前に来て導きの準備をするが、まだ導き去ってはいないことを示し、後の言葉はこの者が心に乱れがない時に初めて導き去られることを示している。もし心が乱れれば、導き去られることはない。

たとえ阿弥陀仏と諸聖衆がこの人の前に現れても、もしこの人が臨終の時に心が乱れ錯乱すれば、結果として往生できない。普段念仏して一心不乱の境地に達しても、臨終の往生は保証されない。もし業障が現れ、心が乱れ錯乱すれば、阿弥陀仏と極楽世界に相応しなくなり、極楽世界に行くことはできない。したがって極楽世界に往生することは、行きたいと思えば行けるものではない。非常に大きな福德を必要とする他に、業障を消滅させ、清浄な大願を持ち、願力を業力より大きくし、深心と至誠心を持たなければならない。

一心不乱は心に乱れがないことと等しくはない。予知時至(往生の時を知る)でも必ずしも往生できるとは限らない。阿弥陀仏が導きに来られても、必ず導き去れるとは限らない。往生できるかどうかの根本は、往生を準備する者が臨終の時に心が乱れているかどうかにある。臨終最後の一念が非常に重要である。この一念の前は一心不乱で心に乱れがなくても、最後の一念が保てなければどうしようもない。この最後の一念が後世の趣向を決定する。兵を千日練り、兵を用いるは一時にあり。生死の試練は最後の一念にある。もし以前に念仏して一心不乱の境地に至っていなければ、最後の一念はほとんど乱れて自ら制御できず、業力が主導権を握る。もしこの時願力が業力より大きければ、状況は異なり、願力が牽引して後世の趣向が決まる。

一心不乱は定を主とし、少量の慧を含む。心に乱れがないことは慧を主とし、少量の定を含む。定慧が具足し不可欠であってこそ往生できる。心に乱れがない智慧を持つには、如何に修めるべきか。浄土を修める者が往生しにくいのは、単に功夫(修行の成果)が修めにくいだけでなく、主に智慧が不足しているためである。何の智慧が不足しているのか。世間の苦に対する智慧が不足しているため、普段業障が消滅せず、臨終に心が乱れるのである。もし普段苦聖諦を修習し、娑婆の苦を知り、五蘊世間を貪らず、真心で往生を願い発し、万縁を放下し、一心不乱を得てこそ、初めて往生の望みがある。

一心不乱の後も、心が乱れることがある。乱れるとはどのような心念か。乱れないとはどのような心念か。阿弥陀仏が面前に現れて導こうとする時、あるいは臨終の時には、一心に阿弥陀仏を念じ、一心に極楽世界を念じ、仏の功徳と相好(優れた姿)を念じるべきである。そうしてこそ阿弥陀仏と極楽世界に相応し、これが乱れないことである。

もしこの時突然、家の親族を思い、五欲六塵を思い、娑婆世界の良さを思い、心にほんの少しでも未練や名残惜しさがあれば、阿弥陀仏と一心ではなくなり、少し三心二意になる。これが乱れることである。ある者は臨終の時に思う:「私は菩薩である。菩薩は常に衆生を救うべきである。私は今極楽世界に行こうとしている。これはまさに衆生を救う好機である。私は大衆に私の往生の殊勝な様子をしっかり見せ、彼らの往生の信心を増すべきだ」。このように思う時、心は乱れており、一心不乱ではなく、心が乱れ、往生できなくなる。

往生を願うなら、普段の功夫を十分に積み、理を明らかにしなければならない。五蘊世間が苦・空・無常・無我である理を明らかにする。理を明らかにした後、業障を消滅させ、自らの苦を知り、衆生の苦も知る。自らの苦を解脱したいと願い、衆生の苦も解脱したいと願ってこそ、真実心・至誠心を生じ、菩薩の清浄な大願を発起でき、阿弥陀仏と諸聖衆に相応し、極楽世界に相応し、臨終に乱れることなく、極楽世界に往生できるのである。

五、観無量寿経第八観

原文:諸仏如来は、是れ法界身なり。一切衆生の心想の中に入る。是の故に汝等、仏を想う時、是の心即ち是れ三十二相・八十種随形好なり。是の心は仏を作(な)す。是の心は仏なり。諸仏の正遍知海(しょうへんちかい)は、心想より生ず。是の故に応(まさ)に、一心に念を繋(か)けて、諦(つまび)らかに彼の仏、多陀阿伽度(たたあかど)・阿羅訶(あらか)・三藐三佛陀(さんみゃくさんぶつ)を観るべし。

釈:これは観像念仏の方法を紹介している。第七観から観像念仏を修め、修成すると、仏像が心中に自然に現れ出る。これは臆想でなく、仏像自らが現れるものであり、これは一種の定慧等持の三昧の境地である。身心が観像念仏三昧の中にあり、明心(心の本性を悟る)証悟する。第七観は仏の坐す蓮華座を観じ、第八観は仏像を観る。初めは意念の方法で観像するが、禅定力と慧力が具足する時、三昧が現れ、仏像自らが面前に現れる。独頭意識(深層意識)で見え、他人には見えない。この仏像は形ある相のある像であり、五蘊の身を持つ仏像である。観像念仏は仏の五蘊の報身を観じ、仏の法身を証するのである。

したがって衆生が仏を想う時、仏像が衆生の心中に出現する。仏像は衆生の心が念じ出し、想い出し、感応し出したものであり、衆生の心が変幻したものである。この仏像は即ち如来の法界身であり、五蘊・十二処・十八界を具え、三十二相八十種随形好を具足する。像は心が生み出すものであり、どのような心かによって、どのような像が現れる。どのような像が現れるかによって、どのような心かが分かる。心と像は一如である。もし衆生の心が念念五欲六塵、色声香味触、財色名食睡であり、念念六道の事であれば、衆生は六道の生死衆生の像であり、心と像は一致し、心と境界は合致する。衆生の心が善であれば、像も善く境界も善い。衆生の心が悪であれば、像も悪く境界も悪い。同様に、衆生が心で仏を想い念じれば、衆生は三十二相八十種随形好の如来仏である。まさに衆生の心は仏を作ることができ、衆生の心は即ち仏である。

仏の十大名号の一つ、正遍知(しょうへんち)とは、正しく誤りなく一切の法を知り、一切智を具足することを指す。十方の諸仏が集まれば、正遍知海となる。もし衆生が心で十方諸仏を念ずれば、正遍知海が衆生の心の中から生じる。例えば念仏三昧が現れる時、十方諸仏が面前に立ち、正遍知海が生じ、自身の独頭意識で見えるが、他人には見えない。諸仏は皆衆生の心が想い出したものであり、心の外に仏はない。心を離れても仏はない。したがって衆生は一心に仔細に彼の仏像を観じ、雑思乱想すべきでなく、世間の妄想を交えるべきでない。世間を妄想すれば世間が現れ、仏は現れない。仏を見て悟りを得ようとするなら、一心に仏を念じ観じなければならない。

六、極楽世界に往生するために必要な善根・福德・因縁とは何を指すか

善根の「善」とは、仏法において善心と清浄心で修めた善業、行った善行を指す。例えば深く心を三宝に帰依し、三宝を供養し、正しく仏教を信じ、精進して戒定慧を修持し、相当程度の福德と仏法の理念を持ち、もはや世俗法を帰依の対象とせず重んじず、大菩提心を発し、誓願して一切衆生を救済する。三宝の教導に背かず、仏の説く一切の経典を深く信じ、教導に随順し、喜んで修習し誹謗せず、仏に教化され、仏の深い恩を感じ、身心の一切をもって仏法僧三宝に報いようと願うなど。善根の「根」は、根器の意味であり、すでに種となった意味であり、基礎が堅固で確実で揺るがない意味であり、善法が心に深く種付けられた意味であり、また善法善果を生じさせる意味である。もしこの善根がなければ、極楽世界および諸の上善人(すぐれた善人)に相応せず、相応しなければ極楽世界に共に住むことはできない。

以上は善根に対する定性的な記述であり、定量的な記述はできない。善根の深浅の程度を判定する基準は具体的に表現できず、相当の経験と智慧を持つ者のみが理に適い真実の通りに判断できる。もし経験と智慧がなければ、たとえ基準を与えられても、それに基づいて真実に判断することはできない。これは世間法の判断とほぼ同じである。例えば大学教授と講師の等級評価は、基準に依るものがあるとしても、小学生や中学生はそれに基づいて真実に判断できず、素人は玄人を判断できず、低レベルは高レベルを判断できない。

仏法の修持程度の判断はなおさらである。大多数の者は皆素人と低レベルの段階にあり、如何にある人物が善知識であるか、開悟し入地(菩薩の階位に入る)したか、説く法が真に仏の説く意趣に合致するかを如何に判断できようか。たとえ模範解答と照らし合わせても、真実の通りに判断できない。したがって衆生を深く害する邪魔外道に対しては、仏菩薩や護法神がひそかに処理すればよく、衆生にそのいきさつを説明する必要はない。ある者は後になって長く思考を重ね、徐々に理解するようになる。

福德の面では、もちろん極楽世界の衆生の福德に相当し、天人の福德に相当し、極楽世界の福を享受する資格があること、すなわち自らがすでに極大の福德資糧を集積し、命終えて初めて往生し、最終的に極楽世界でこれらの福德を享受することを指す。もしこれほどの大福業を種付けていなければ、大福を享受できず、往生できない。この類の福は主に清浄福を指す。例えば持戒の福、禅定の福、念仏の福、智慧の福、恭敬信楽三宝の福など。これらの福は皆学仏の功徳に相応し、娑婆世界で享受できる栄華富貴の世俗の福ではない。

往生の因縁とは何を指すのか。因縁はすなわち条件である。因は修めた善業の種子である。例えば念仏の功徳である一心不乱、心中で娑婆世界を捨て去る縁である心の乱れのなさ、戒定慧を具足し、貪瞋痴を降伏し、一心に極楽世界を向往し、成仏して衆生を救うことを願うこと。縁は善業の縁が熟し、善友が助け、悪業が現れず、怨親債主が遠ざかり、障りがなく、修めた福德と功徳が、命終に諸仏菩薩聖衆が来て手を授け迎えることを感得できることである。善根・福德・因縁のすべてが具足した者のみが極楽世界に往生でき、一般の者は修持が不足すれば往生できない。

七、如何にして極楽世界に往生できるか

各人の業力が異なるため、臨終の時に色身に現れる状態が異なる。業障が比較的重い者は臨終に四大(地水火風)が調和せず、身体が硬直し、死後は三悪道に堕ちて報いを受ける。業障がさほど重くなく、一生涯で多くの善業を行った者は、心が善法に相応し、四大は調和し、身体は柔軟で、死後は三善道に生まれ、臨終に苦受がない。末法の世の大多数の者は煩悩が重く、一生涯で善業が少なく悪業が多く、臨終には非常に苦しいと感じる。善道に往生できるように、家族は人を招いて助念(念仏を助ける)し、一部の業障を消滅させ、若干の福德を増し、助念の過程でこの四大が調和すれば、身体は柔軟になる。ある者は死者が確実に極楽世界に往生した、少なくとも天道に行ったと考える。しかしこれは必ずしもそうではない。身体が柔軟になるのはただ業障が軽減され、善根と福德が増したことを示すに過ぎない。

私はある実例に遭遇した。ある女性の居士(在家信者)がおり、彼女の夫は仏法を信じてはいたが修行せず、長患いの末亡くなった。寺院の出家者に助念を依頼し、七日間四組の者が交替で助念し、一分たりとも途切れることはなかった。助念するほど死者の身体は柔らかくなり、ついには全身が丸められるほど柔らかくなった。皆は彼が極楽世界に行った、たとえ極楽世界でなくても天道に昇ったと思った。七日が過ぎ火葬した後、死者が女性居士に夢で応(あ)らわれた。夢の中の表情は彼が非常に不満げであった。この女性居士が私にどういうことかと尋ねに来た。私は言った:彼は自分が置かれた境遇に不満足であり、依然として苦受がある。おそらく往生しておらず、天道にも昇っておらず、人身にも生まれ変わっていない。もしすでに生まれ変わっていれば、夢で応らわれることはできず、たとえ応らわれても喜んでいるはずで、愁いを帯びた顔ではない。

またしばらくして、彼女の家のベランダでパチパチという音がした。後日女性居士は夫が家に戻ってくる夢を見た。これは死者が、第一に往生していない(一般に極楽世界あるいは天・阿修羅・人の三道への往生を指す)、第二に生まれ変わっていない(広く受生、六道輪廻の一期の生命の誕生を指す)、第三に彼女のいる境遇は中有身(死と再生の中間の存在)の環境にあることを示している。この事は他人が如何に助念しても、もし死者の善根福德が深くなければ、心が極楽世界に相応しなければ、極楽世界に往生できないことを示している。もし心が天道に相応しなければ、天に昇ることもできない。助念する者の功徳が非常に非常に大きく、彼の業種を変え得る場合に限り、彼は天に昇るか、往生するか、あるいは人道に生まれ変わることができる。

なぜ身体が柔軟になっても善道に往生できないのか。助念はただ彼に若干の福德を増し、若干の業種を変えたに過ぎず、往生できる程度にははるかに及ばない。往生を願うなら、自ら心を修め、心を極楽世界に相応するように変えなければならない。数日の助念では死者の心を変えることはできない。修行はそう容易なものではない。生きている者が一生修行しても心を清浄な程度に変えられるとは限らない。自ら修行せず、他人の助念に頼って心を極楽世界と阿弥陀仏に極めて堅固に信受し、娑婆世界の一切の業縁を放棄するほどに変えることはできない。死者が往生したかどうかを正確に判断するには、天眼を持ち、人の識神(心の本体)が蓮華台に乗り、諸仏菩薩が迎えに来るのを見、極楽世界に到着するのを見なければならない。そうでなければ、判断は正確でなく、推測に過ぎず、信頼できない。

修行の問題は功徳に関わる。功徳は誰が修めたかが得るのであり、修めなければ得られない。父母と子女の間でさえ互いに代わらない。仏陀とその家族の間も互いに代わらない。『楞厳経』に説かれているように、阿難は仏の従兄弟であることを頼りに、自らはあまり修行せず、仏の威神力と加持力に頼れば自然に成就できると思ったが、結果はそうではなく、受けるべき試練は依然として受け、仏の家族も皆そうであった。修行の功徳は外から来るものではなく、自らの心が生み出すものであり、他人が与えることはできない。死者が往生できるかどうかは、自らに念仏の功徳があるかどうかによる。この功徳は助念する者が彼に与えることはできず、自ら念仏修行する必要がある。修行の功徳がなければ、相応する業果報もない。

今、多くの浄土法門を学ぶ者は、全ての望みを臨終の一念に託している。もし普段十分に修めず、心が変わらず、業種が清浄でなければ、臨終の一念に頼るのは賭けに等しく、信頼できない。普段自らを修め成就してこそ、臨終に往生の確信が持てる。もし普段夢の中の念さえ制御できず把握できなければ、臨終には病苦が交錯し、業障が現れ、怨親債主も借金の取り立てに来る。最後の一念はなおさら把握しにくい。したがって臨終だけを当てにせず、普段から何らかの成就を収め、心を変え、業障を消滅させ、福德を増し、心念を制御できなければならない。

極楽世界に往生しようとするなら、福德が極楽世界に相応しなければならない。相応しなければ共に住むことはできない。どこに行こうとも、福德はその環境に相応し、その業種を持たなければならない。その業種を種付けず、福德も相応しなければ、どうしてその場所に行けようか。心がもし極楽世界に相応しなければ、極楽世界を変現(現れさせる)できず、どうして極楽世界に往生できようか。いかなる修行の法門も、皆心を修めることである。心がどの程度修まったか、どの程度変わったか、どの境界に相応するかによって、初めて相応する環境の中で共に住み生存できるのである。

八、極楽世界往生を保証する条件

仏が衆生の極楽世界往生を保証されるのは三つの条項のみで、全て観無量寿経の中にある。第一条、十六観の第三観で、水観が修成されれば、命終わって必ず極楽世界に往生することを保証する。後の第四観から第十六観は、さらに命終わって極楽世界に往生することを保証し、第三条と合わせて一つの条項とみなす。第二条、我見を断った者は、命終わって必ず極楽世界に往生することを保証し、中品上生する。第三条、明心(心の本性を悟った)者は、命終わって必ず極楽世界に往生することを保証し、上品上生する。その他の修行方法でも極楽世界に往生できるが、保証されず、確定せず、往生する可能性もあれば、往生しない可能性もあり、最後の一息の状況による。

九、認知症や記憶喪失の者は往生できるか

認知症になったり記憶を失ったりした者は、業障が比較的重い。主に脳に障害が生じている。これは意識の機能を阻害しているが、もし普段念仏してすでに意根に熏習され、業障の大部分が消滅し、念仏三昧の中にあり、常に阿弥陀仏を思い出せるなら、どうして認知症になることがあろうか。どうして記憶を失うことがあろうか。福徳があり、業障が軽微な者が、どうして認知症になり、どうして記憶を失うことがあろうか。

認知症や記憶喪失の時、もし最も親しい息子さえも分からず、自分が何という姓かも分からなければ、なおさら仏を思い出せず、念仏できるだろうか。仏と彼の息子と比べて、彼は誰と最も親しいか。もちろん息子と親しい。最も親しい息子さえ思い出せないのに、どうして仏を思い出せようか。彼が認知症や記憶喪失になったのは、心に阿弥陀仏がおらず、念仏によって業障を消すことができず、念仏が意根に熏習されなかったからこそ認知症になったのである。もし念仏が意根に熏習され、心が阿弥陀仏で満たされていれば、どうして認知症になろうか。記憶を失うこともあり得ない。心が仏で満たされ、業障の大部分が消滅し、仏力の加持力が彼に及べば、どうして記憶を失おうか。仏を思い出せない以上、どうして往生できようか。正常な人でさえ、禅定のある者でも、往生できるとは限らない。往生は非常に容易ではなく、証果や開悟に劣らず難しい。

ただ自らが実際に経験してから説く法のみが信頼できる。経験せず、経文の解釈に頼り、自ら想像して如何に如何にと、実現できていないなら、どうして保証があろうか。それは信頼できない。もし私が浄土や往生について講じるなら、やはり仏経のあの幾つかの条項に従って講じるべきであり、仏経を離れては講じられない。なぜなら私は往生したことがなく、具体的にどのような状況で往生できるか分からないからだ。ただ仏経に頼って講じるしかない。たとえ私が念仏して仏から保証を得たとしても、「あなたは臨終に如何なる状況でも必ず正念を保ち、必ず往生できる」と言われて初めて信頼でき、それ以外は信頼できない。

では浄土宗が法を説き人を摂受して往生させようとするなら、最も適格で適した者は浄土宗の初祖慧遠大師のみである。彼が皆を導いて浄土を修めれば、法法皆人を信受させ、法法皆信頼でき、彼が「このように行持すれば必ず往生できる」「あのように念仏すれば必ず往生できる」と言う言葉は皆信頼できる。それ以外の者の説法は信頼できない。なぜ浄土初祖慧遠大師の言葉は信頼できるのか。彼が自ら浄土の行門を実践し、かつ成功したからである。彼が浄土を修めた時、身心は常に三昧の中にあり、阿弥陀仏が彼の三昧の中に自ら幾度も出現し、極楽浄土の境界も彼の三昧の中に幾度も現れた。彼は常に三昧の境界の中にあって定から出ず、必ず往生することは疑いない。

では彼の禅定と智慧の経験をもって、彼が如何にすれば往生できるか説く言葉こそが確実で信頼できる。なぜなら彼はその程度に修めたからであり、経験がある。経験のない者は皆信頼できない。同様に、ある者が明心開悟について講じるが、真実の開悟を経験していないため、説く明心開悟も信頼できない。彼らの説く明心開悟の理論は正しいかもしれないが、正しくても実際には真に開悟できず、結局自ら経験しておらず、行持が正しくなければ、説くことは信頼できない。いかなる者も法を弘めるには、必ず自ら修行し終え、その道を通り終えて、初めて説くことが信頼できる。それ以外は信頼できない。浄土を弘める者で、念仏往生の事について少しの経験もない者は、彼らが如何に如何に念仏すれば必ず往生できると説くことは、皆信頼できず、ただ浄土経典のみが最も信頼できる。浄土経典を離れて往生を講じることは、皆臆測と幻想である。

十、南無阿弥陀仏と阿弥陀仏を念ずる違い

南無は帰依の意味であり、真実に依りどころとして帰順することを表す。阿弥陀仏は仏の本尊の名号である。仏の名号を念ずるのは、仏を感応し、仏に相応し、仏の加護を求め、手を授けて救い導くためである。二つの念仏方法に本質的な違いはないが、二文字多いと、心念が回りくどくなり、阿弥陀仏を念ずる方がより直接的で、心が単純であり、三昧を得やすい。

念仏は純粋に念仏のためではなく、心を摂(おさ)め、真実に阿弥陀仏に帰依し、念仏三昧を得るためである。念仏三昧の中で初めて阿弥陀仏を感応し、阿弥陀仏に相応し、往生の確信が持てる。したがって念仏も心をできるだけ定め、心を専一にし、仏号を唱える時、心に仏を持ち、恭敬心を持って念ずべきである。心を摂めて定を得るためには、仏号を唱える時の声をあまり高く上げてはならない。そうすると気を消耗し、心が散乱しやすく、収めにくい。声を低く、集めるようにし、気を集め、心神を安寧にし、心を専一に雑念なく、定を得やすくし、念仏三昧を得、仏の加護を得る。

心で仏を念じ、念仏三昧を得るために、次のように念仏してみる:ゆっくりと「阿」の字を念じ出す。「阿」の音を長く引き、「弥陀仏」は念じない。同時に心には阿弥陀仏本尊があり、「阿」の字が外に現れ、「弥陀仏」の三字は心の底に隠れる。一文字の音が仏全体を代弁し、心に雑念なく、全てが仏である。このように念仏すれば三昧を得やすい。

十一、仏と諸聖はなぜ神通力で衆生を強引に導き去らないのか

仏は心中の仏、聖は心中の聖。心に仏あれば仏即ち現れ、心に聖あれば聖即ち顕る。もし心に仏聖なければ、仏聖現れざるは心の咎(とが)。

十二、如何にして意根で念仏するか

意根で念仏するとは、真心実意で念仏することで、形式だけのスローガン的な口先だけの念仏ではない。これを行うには、念仏という事に対する認識が十分で、思想が徹底的に変わり、深く信じ切実に願い、一切の行為が仏に向かい、身心世界が仏に満ち、娑婆の縁を放下し、念念が極楽であること。心法と行門が具足すれば、命終わって必ず極楽世界に往生する。

仏法のいかなる法門の修行にも二つの側面がある。一つは内在的な心の門、もう一つは外在的な行の門。心の門は心を修め性を養う門であり、道とも呼ばれ、意根の門である。行の門は功夫(修行の成果)の門であり、術とも呼ばれ、六識の門である。もちろん意識は行の門だけでなく心の門でもあるが、ただ意識の慧は浅く、得やすいため、重点ではない。道は根本であり、内在的な駆動力である。術は末梢であり、道に制約され、道を補助する。二者が結合して、法門は初めて成就する。

念仏の法門も同様に、全体として信・願・行の三資糧を修める。信願は道に属し、行は術に属する。念仏に成就しようとするなら、まず道心が成就し、思想認識が変わり、覚悟の心が生じ、大願が発起され、それに精進の念仏行門の功夫が補助されてこそ、往生の望みは大きい。その中で行門の業には戒定慧、菩薩の六度、三十七道品の修行が含まれる。心の門とは即ち意根で念仏する門である。意根に仏を念じさせようとするなら、意根に仏の無量の功徳、仏の無量無辺の偉大な事跡、仏の慈悲喜捨の四無量心、仏の宏大な願力、仏の三大阿僧祇劫の修行の過程を理解させるべきである。これらを理解した後、仏に対して自然に比類なき崇敬と向往が生じ、自然に精進念仏でき、行門は成就しやすくなり、最終的には心心念念が仏となり、念仏三昧を修成する。

信願が具足した後、意根が降伏し、世俗法を念じず、心が収摂され、禅定が徐々に現れる。この時、意識の念仏が意根に熏染し、徐々に意識の言語・文字・音声のある形相の念仏から、意根の言語・文字・音声のない無形相の念仏に移行し、功夫は徐々に成就する。もし意根を収摂せず、意根が至る所に攀縁(とらわれる)し、世俗法に貪着し、心が散乱し、専心して念仏できなければ、念仏三昧は現れない。

もし心の門を修めず、ただ行の門の道のみを歩み、機械的に念仏し、数を追求し、数で勝とうとすれば、功夫が深まれば意根に熏染し、量変が質変に達し、意根の思想観念を変え、心念が仏に満ち、三昧を修成する。このように修めるのは非常に困難で、成功しにくい。大多数の念仏者は皆このように修めている。ただ時間をかけて長く念仏し、念仏が非常に熟達し、脳を経由せず、いかなる境界に遭遇しても口を開けば阿弥陀仏が出てくるようになり、自動化されたロボットのようになる。しかし煩悩は相変わらず煩悩であり、散乱は相変わらず散乱である。このような念仏に何の実質的利益があろうか。多くの寺院や団体で念仏七(七日間の念仏修行)が行われ、一週間で百万遍の念仏が唱えられ、仏号の声が声声耳に入り、念念絶え間ないが、世間の雑事も事事心に入り、あまり遅れず、貪瞋痴の三毒は皆そのままで、業障が消えた様子もあまり見られず、念仏三昧は影さえない。

一切の法門は心の門である。念仏の法門も心の門である。心を修めなければ、成就しにくい。心を修めるとは即ち意根を修めることである。意根を主として修行し、意根が修まれば、則ち一切の法門が成就できる。ただこの心は無始劫以来染汚が甚だしく、煩悩が熾盛で、把握が難しく、降伏しにくい。しかし苦海を離れるためには、どれほど難しくても何とかして捻じ曲げ制服しなければ、依然として生死の苦海に沈み抜け出せないであろう。

目次

ページトップへ戻る