衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年08月07日    水曜日     第3 回の開示 合計1786回の開示

菩薩たちの大乗と小乗の教えにおける修行

声聞の修行者は第三果以降、煩悩を断除するのであって伏除ではない。断除であるが故に五欲六塵に束縛されず、三界を離れ解脱を得る。煩悩の伏除とは煩悩を抑圧するもので、第二果以前、特に見道以前に煩悩を降伏させる段階を指す。第三果において初めて煩悩を断除しうるのであり、伏除のみでは煩悩から離脱できず解脱を得られない。

大乗菩薩の修行もまた声聞行者の行いを離れることはできない。小乗の修行を離れては菩薩とは称されず、ただの凡夫に過ぎない。菩薩も最初は個人の修道過程において声聞と同様、戒律を遵守し威儀を備え、衆生の模範となる。戒律を遵守するが故に禅定を得て、見道に至るのである。菩薩も小乗における我見の断除から修行を開始せねばならず、果を証さずして大乗見道はあり得ない。小乗の戒定慧と見道による法眼清浄は、大乗菩薩たちも超越できず、さもなくば大乗菩薩も小乗行者も存在し得ない。

菩薩たちは小乗の見道で初果を証した後、さらに初禅定を加行し、五下分結(三縛結に貪欲と瞋恚の煩悩を加えたもの)を断除しなければならない。その後初めて大乗法中において禅宗三関を通過し、陽炎関と如梦観を経て初地に入る資格を得る。初地に入って後、意図的に煩悩を完全に断尽せず、阿羅漢のような正性離生を取らず、つまり四果阿羅漢の果位を証取せず、極めて微細な煩悩を残すことにより無余涅槃に入らず、無余涅槃に入れば仏種が断たれるからである。

菩薩がいかに悟りを急いでも、小乗の各関門を越えることは許されない。もし故意に越えようとするなら、その者は真の修行者ではなく、まして大乗菩薩とは言えない。四相と煩悩を具足した菩薩は菩薩にあらず、凡夫と同等である。もし菩薩に悟りを急ぐ心行があれば、その心は有所求の心であり、無為の心ではない。私的目的を有する心は必ず四相を具え煩悩を有する、つまり凡夫の心である。凡夫の心と相応するなら、真の菩薩とは成り得ない。真の菩薩は必ず相を破った菩薩であり、我相・人相・衆生相・寿者相もなく、証果相や開悟相も持たない。これらの相を有する者は即ち凡夫である。

——生如法師の開示
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