長年にわたり無念無想の定を修める者がおりますが、どれほど修行を重ねても初禅が現れず、道が開けて智慧を得ることもありません。このような修行は貴重な仏法修学の時間を浪費するものです。長く無念無想に留まり、仏法に基づく如理作意の観行を行わねば、いかなる智慧も生じず、証果を得ることができません。命終の時、この有漏の身をいかに安置すべきでしょうか。
ただ身体を修め、心を修めずして、いかに長く定に入ろうとも、初禅定は現れません。欲界に対する離欲、貪りと執着を断つ時にこそ、初禅定は現れるのです。未到地定の暗黒の境界に長く安住することに、いったい何の益がありましょうか。
定力を修め、正見が具わった時、禅定の中にあって参究の念頭を起こさねばなりません。もはや何も思惟せずにいるべきではありません。疑情を抱く念頭あってこそ、その疑情を破り智慧を得るのです。定力なくして疑情を抱くことは、厳しく言えば闇雲の思弁に等しくなります。
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