自分に智慧があると思い込んでいる多くの人は、禅宗の公案を前にしてどうすることもできません。また、自分は道があると思い込んで禅宗の公案を講義する人もいますが、そのすべてが世俗法に堕しており、俗人にはむしろ好んで読まれていますが、その中に一体どんな味わいがあるのかは分かりません。仏法を学ぶ人の中には、文字の殻に潜り込み、文字を肢解し、言葉や語彙をあれこれ研究して、表面的な意味が少し分かったような気がすると、もう道を得たと思い込み、あちこちに貼り付けては慢心を大いに発揮する者がいます。実のところ、仏を学び修行するというのは、文字の殻に潜り込むことではなく、その功夫は詩の外にあります。菩薩の六度の上で多く心を用いて修行し、煩悩を降伏し、心性の修養を高め、福德を培い、禅定を強化する、これらの面で精進修行すれば、菩薩の条件を絶えず完備していくことができます。一日中文字の山に埋もれて、それらの文字を研究することではありません。もし仏を学ぶことが単なる文字の功夫だけなら、大学院生や博士課程の学生はみな大乗の明心見性の菩薩になれるはずですが、実際にはそうではありません。また、三帰依は必要ない、五戒を受けなくてよい、ただ真剣に文字を参究すれば明心見性できると強調する人もいます。そうであれば、外道はみな聡明伶俐な人々なのですから、外道は仏を信じなくても、ただ仏法を研究すれば、仏法を解悟できることになります。しかし、彼らは永遠に大乗の実義菩薩にはなれず、たとえいくつかの答えを知っていても、大乗の菩薩ではなく、智慧が生起しておらず、菩薩の心性を備えていないからです。聡明伶俐な人は至る所にいますが、仏法をしばらく钻研すれば、いくつかの表面的な内容は理解できるでしょう。しかし彼らは菩薩の心性を備えていないため、永遠に真の菩薩にはなれず、仏・菩薩と護法善神の加持と庇護を受けることもできず、それゆえ真に証悟することもできないのです。
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