問:座禅で呼吸の出入りを観じていると、後には観じる念だけが存在し、呼吸を観照しなくなり、ほぼ1時間ほど入定しましたが、これは適切でしょうか。
答:能観は見分であり、所観は相分です。能観がある限り所観があり、観じた結果を自証分と呼びます。心に観じるものはあるが呼吸がない場合、他の相分が存在しているのであり、そうでなければ二禅定に入っている状態です。
呼吸を観じる目的は、心を制御し一処に定めるためです。第一に定を得、第二に観慧を生じて法を証得するためです。呼吸が観じられなくてもよく観じられ、心が安定しているなら、一定の目的は達成されており、何も間違ってはいません。定力が十分に高まったら、再び心を呼吸の観察に移し、呼吸の生滅変異が無常であり、我にも我が所有にも属さないことを証得し続けなさい。
いかなる禅定であれ、外道の定であろうと内道の定であろうと、心を制御することを戒とし、ただそれを用いればよい。心が制御された後、定中で仏法を観行することに何ら非はありません。仏陀が修した四禅八定は外道の定であり、その四禅定の中で仏法を思惟し、阿耨多羅三藐三菩提を証得されました。外道と共通の四禅八定がなければ、諸仏も成仏できず、凡夫は菩提を証得して菩薩となることができません。黒猫でも白猫でも、鼠を捕まえる猫が良い猫です。
定を修めるのは観行慧を得るためです。観行慧があれば仏法を証得し、大智慧を生じさせます。どのような定か、どう定めるかは気にせず、定まればそれでよい。凡夫の猿のような心が諸方に攀縁するよりはましです。目標を定め、その目標に向かって進めばよく、水路を行くか陸路を行くかは気にせず、直路であればよいのです。
外道の色身と仏法を学ぶ者の色身は同じです。仏法を学ぶ者の心と、外道で仏法を学ばない者の心も同じです。心を降伏させるためには、世俗的な心理学や生理学も仏法修行者に適用でき、心を調伏することが重要です。
定を修めるのは観行のため、観行は智慧を生じさせるためです。智慧の誕生は1時間という時間に拘りません。もし無心定に1時間入り、思惟がなくても、出定後に身心が爽快で覚受が非凡であれば、一日中身体が快適で心情が穏やかであり、煩悩が生じず、思惟が鋭敏で反応が迅速、人に対応する際にも智慧があり、教養と品性が高まるなら、なぜ行わないことがあろうか。禅定は身心世界を調伏し、人徳と教養を高めるために用いるものです。心を養い道を養うこと、なぜこれを良しとしないのでしょうか。
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