観行の定力が不足している場合、解剖図を参考に色身の虚妄無我を観じようとしても、どれほど観じ続けても、解剖図はあくまで解剖図であり、自身は自身のまま、何ら変化は起こりません。ただ人体解剖学の知識が増えるに過ぎないのです。解剖学を滔滔と論じたとしても、それで身見を断じる智慧の証量を得たことにはなりません。口で言うことはできても、定がなければ観行には至りません。それは単に学習しているだけです。止観双運、定慧等持こそが真の修行の出発点です。理論知識を学ぶことと、実際に観行することは、修行の二つの段階です。決して理論学習を観行そのものと混同し、暗記した知識を自らの智慧だと錯覚してはなりません。
未到地定を具えておらず、少しも禅定を得ていない者が、自ら我見を断じたとか初果・二果に至ったなどと語ることは不可能です。心の底から確信することはできず、たとえ意識では確認できたように思えても、深層にはなお疑念が残り、真に確信することはできないものです。
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