原文:阿羅漢が習わない十一の法がある。何が十一か。漏尽の阿羅漢は終に法服を捨てて白衣の行いを習わない。漏尽の阿羅漢は終に不浄行を習わない。漏尽の阿羅漢は終に殺生しない。漏尽の阿羅漢は終に盗まない。漏尽の阿羅漢は食事に終に残さず余さない。漏尽の阿羅漢は終に妄語しない。漏尽の阿羅漢は終に群れを成して互いに助け合わない。漏尽の阿羅漢は終に悪口を吐かない。漏尽の阿羅漢は終に狐疑を抱かない。漏尽の阿羅漢は終に恐懼しない。漏尽の阿羅漢は終に他の師を受けず、再び胞胎を受けることもない。諸賢者よ、これを漏尽の阿羅漢が終に十一の地に処さないという。
釈:阿羅漢がもはや造作しない十一の法がある。いずれが十一か。第一に、煩悩がすでに断じ尽くされた阿羅漢は永遠に袈裟を捨てて在家の白衣として世俗の事を行わない。第二に、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は永遠に不浄な男女の欲貪を持たない。第三に、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は永遠に殺生しない。第四に、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は永遠に盗まない。第五に、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は食事の際、残飯を残さず余食を留めない。第六に、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は永遠に妄語しない。第七に、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は永遠に徒党を組んで自ら団体の頭目とならない。彼らは世俗の人情とは異なり、独りを好み群れを成して互いに支え合うことを好まず、自我の欲望や思惑を持たない。第八に、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は永遠に口を開いて悪言を吐かない。第九に、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は永遠に仏法に対して狐疑不信を抱かない。第十に、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は永遠に再び恐懼の心を生じない。第十一に、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は小乗の無学の聖人であり、もはや他の者と生死解脱の小乗の法を修学する必要がなく、再び母胎に投生することもない。諸賢者よ、これを漏尽の阿羅漢が永遠に十一の境地に処さないという。
もし阿羅漢がなお少しでも世間法に関わり、心が少しでも世間法にあれば、それは阿羅漢ではない。ゆえに阿羅漢はすべて出家者であり、在家として一日も生活できない。もし彼が還俗して家に戻れば、直ちに三果の者となる。しかし彼が世俗法の中で生活するのは三ヶ月を超えず、やがて嫌気がさし、再び出家して四果阿羅漢を証得するであろう。
たとえ還俗した阿羅漢がいたとしても、それは慧解脱の阿羅漢であり、禅定が特に優れているわけではない。俱解脱の阿羅漢は永遠に還俗の念を起こさず、彼らは少しの世俗法にも耐えられない。
大乗の菩薩がもし三果・四果を証得したならば、世俗法の中で生活することを望まず、世俗の事に関わらない。たとえ自らが取るべき無数の財宝があったとしても、それに心を費やすことを好まない。衆生を度するために衆生と共にいるのはやむを得ないことであり、たとえ共にいても心は常に離れている。たとえ弘法に金銭を用いる場合でも、金銭を得るために頭を悩ますことを好まず、非合法や世俗法に迎合することを望まない。
2
+1