衆生の心がどのようなものであるなら、意根もそのような心所法を持ちます。衆生が善人であり善心を持つなら、意根は善心所法を持ちます;衆生が禅定を修めて定力を持つなら、意根は定心所法を持ちます;衆生が智慧を持ち、世出世间の一切法に対応するなら、意根は慧心所法を持ちます。
意根が善心所法を持たなければ、世间には善人は存在せず、仏を学ぶことも成就を得られず、衆生は天界で福を享受できず、善の果報も得られません。意根が不善であれば、意識がどのように意根を熏染しても无用であり、衆生は永遠に善になりません。意根が定心所法と相应しないなら、禅定を修めても无用であり、どのように修めても定を得られません。意根が低劣な慧しか持たないなら、智慧的な抉择ができず、何事にも対処できず、修行も証果と明心を得られません。智慧がない、智慧が低劣であれば、永遠に識を智に転成できず、永遠に仏のような智慧を得られません。难道仏の意根もそのような低劣弱であるでしょうか?それでは、仏はどのように意根によって報身仏を成就したのでしょうか?
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