私は仏法を学ばず、修行せず、戒律を守らず、禅定を修めず、智慧を開かず、解脱を求めず、自由自在に振る舞い、自然のままに任せる。この「私」とは何か?第八識を指す。ここでの主体を第七識に置き換えることは可能か?第七識と五蘊は第八識のように、仏法を学ばず、修行せず、戒律を守らず、禅定を修めず、智慧を開かず、解脱を求めず、自然のままに任せることはできるか?できない。二つの「私」は互いに入れ替わることはできるか?それもできない。
ある者は「第八識を学び、第八識に依り止まり、第八識に転依すべきであるならば、第八識のようであるべきだ」と言う。この言葉は正しいか?正しくないとも言え、正しいとも言えない。厳密な論理思考が必要であり、どの面で第八識に学ぶべきか、どの面で学ぶべきでないか。いつ第八識に学び、いつ学ばないか。成仏後の第七識は第八識と同じく、仏法を学ばず戒律を守らず禅定を修めず智慧を開かず解脱せず成仏しない。成仏前、衆生の段階では仏法を学び戒律を守り禅定を修め智慧を開き解脱を求め成仏を求めるべきである。
成仏前は五陰身の運営における第八識の清浄性、貪・瞋・痴なき性質を学ぶべきである。成仏後は第七識が第八識と同じく清浄であるから、もはや第八識の清浄性を学ぶ必要はない。仏は無学なる者であるから。
第七識と第八識という二つの「私」は、時として互換可能であり、時として不可能である。二つの「私」を明確に理解してこそ修行は成就する。混同してしまうならば、修行も成就も叶わない。
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