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日常開示

2019年06月21日    金曜日     第2 回の開示 合計1633回の開示

行蘊は我ならず、我と異ならず、相互に存在せず:大乗と小乗の意涵

いかにして行(サンカーラ)が我であると見るか。六思身(シクタ・カーヤ)を指す。眼触によって生じる思、耳・鼻・舌・身・意触によって生じる思なり。この六思身の一一において我と見る、これを「行即我」と名づく。いかにして行は我に異なると見るか。色(ルーパ)は我なり、行は我が所有する所なり。受(ヴェーダナー)・想(サンニャー)・識(ヴィンニャーナ)は我なり、行は我が所有する所なり、これを「行異我」と名づく。

いかにして我の中に行ありと見るか。色は我なり、行は中に住す。受・想・行・識は我なり、行は中に住す、これを「我中行」と謂う。いかにして行の中に我ありと見るか。色は我なり、行の中に住し、その四体に周遍す。受・想・識は我なり、行の中に住し、その四体に周遍す、これを「行中我」と名づく。

釈:いかにして行蘊(サンカーラ・カンダ)が我であると見るか。行蘊とは六思身なり。眼根が色塵に触れて眼識を生じ、眼識に思あり。耳根が声塵に触れて耳識を生じ、耳識に思あり。鼻根が香塵に触れて鼻識を生じ、鼻識に思あり。舌根が味塵に触れて舌識を生じ、舌識に思あり。意根が法塵に触れて意識を生じ、意識に思あり。意根はこの六思身をすべて我と見做し、我(意根)はこの六思身なりと認むる、これを「行即我」(意根)と称す。

実際には行は我にあらず、六思身は我にあらず。六思身が我にあらざることを証得する時、六思身を我とする我見を断除す。その後、意根はもはや六思身を我と見做さず、眼根が色塵に触れて生じる眼識の色を見る行蘊を我(意根)と認めず、耳根が声塵に触れて生じる耳識の声を聞く行蘊を我(意根)と認めず、鼻根が香塵に触れて生じる行蘊を我(意根)と認めず、舌根が味塵に触れて生じる舌識の味を嘗める行蘊を我(意根)と認めず、身根が触塵に触れて生じる身識の触を覚える行蘊を我(意根)と認めず、意根が法塵に触れて生じる意識の法を思う行蘊を我(意根)と認めず。意根はもはやこれらの機能作用を我と見做さず、五蘊に我なし。意識が六根を観行する時、意識意根は意根もまた我にあらず、生滅変異無常なる空苦なることを証得す。かくして意根は真に我見を断じ、五蘊七識の我を断除す。小乗法においては我なし。

しかし大乗法にはなお真我第八識(アーラヤヴィジニャーナ)あり、断除すること能わず、永遠に存在して滅せず、これこそ真の我なり。ただし具体的な観行においては、大乗法を修学し禅を参じて第八識を証得する時なり。例えば般若心経には第八識を証得する時、五蘊皆空(第八識)を照見し、色は空(第八識)に異ならず、空(第八識)は色に異ならずなどと説かる。これは大乗の角度より参破後の甚深なる智慧の境界にて、悟り浅き時はなお観察し得ず。

いかにして行が我に異なると見るか。即ち意根が色蘊を我(意根)と認むれば、行蘊は我(意根)の所有する所なり。意根が受蘊・想蘊・識蘊を我と認むれば、行蘊を我の所有する所と見做す。これを「行異我」(意根)と称す。

実際には行は我(意根)に異ならず、行蘊は我(意根)の所有する所にあらず。行蘊の機能作用は我のものにあらず、生滅変異無常にして苦空なるもの、把捉すべからざるものなり。故に意根は行蘊を我異我とする我見を断除す。

これは小乗法の観行角度より説くものなり。大乗法の角度より見れば、菩薩が禅を参じて第八識を証得した後、五蘊が第八識に異ならざることを観察し得。五蘊全体は第八識より出生し、第八識に属し、第八識の機能作用にして、第八識と不一不異の関係なり。小乗の修学段階においては証得し得ず。

いかにして我(意根)の中に行ありと見るか。即ち意根が色蘊を我と認むれば、行蘊は色蘊の中に住す。意根が受蘊・想蘊・識蘊を我と認むれば、行蘊は受蘊・想蘊・識蘊の中に住す。これを我が行蘊の中にあると指す。

実際には我は行蘊の中になし。色蘊・受蘊・想蘊・識蘊の我はすべて生滅するもの我にあらず、行蘊もまた生滅するもの我の所有する所にあらず。我なく我所もなし。これは小乗の観行角度と結果より説くものなり。大乗般若の観行角度と結果より見れば、行蘊は第八識の中に住さず、第八識は形相なく、行蘊は空なるが故に、二者は互いに存在し得ず。

いかにして行の中に我ありと見るか。即ち意根が色蘊を我と認むれば、色蘊は行蘊の中に住し、我は行蘊の中に住し、行蘊は四肢全身に周遍す。意根が受・想・識蘊を我と認むれば、受・想・識蘊は行蘊の中に住し、我は行蘊の中に住し、我は身体全体に周遍す。これを「行中我」と名づく。

実際には行蘊の中に我なし。行蘊は空にして生滅し、色受想識蘊もまた空にして生滅す。空なるものは無なり、無の中に法なし。故に我と行蘊は互いに存在せず。

これは単純に小乗観行の角度より説くものなり。大乗観行の角度と結果より見れば、第八識と行蘊もまた互いに存在し得ず、第八識は形相なく、行蘊は空なるが故に、二者は互いに存在し得ざるなり。

——生如法師の開示
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