修行とは貪愛を断じるためにあります。貪愛は六根が六境に触れるところで生じますから、六根が六境に触れるところで貪愛を止めなければなりません。眼根が色境に触れる時、心に貪愛が生じなければ貪愛を止めたのです。耳根が声境に触れる時、心に貪愛が生じなければ貪愛を止めたのです。鼻根が香境に触れる時、心に貪愛が生じなければ貪愛を止めたのです。舌根が味境に触れる時、心に貪愛が生じなければ貪愛を止めたのです。身根が触境に触れる時、心に貪愛が生じなければ貪愛を止めたのです。意根が法境に触れる時、心に貪愛が生じなければ貪愛を止めたのです。心の貪愛の習気に従えば、本来色声香味触法への貪愛が生じるはずですが、修行に力があるため貪愛の現起を制止し、貪愛を止めました。これが修行の功徳です。貪愛がなければこれが修行の徳であり、こうして修行から功徳が生まれます。徳とは品性、徳行であり、心の善なる行相です。善があれば解脱に向かい、善があれば自在に近づきます。貪瞋痴の煩悩は束縛であり、解脱せず自在ではありません。
功徳は容易に現れません。無始劫以来の貪瞋痴煩悩が根深く、習気が深重で、降伏し抜除するのが容易でないからです。長久多劫にわたる思惟観行を経て、貪愛の苦しみを観じ、少しずつ貪愛を降伏させなければなりません。もし貪愛の苦しみを知らなければ、貪愛を降伏させることはできません。衆生は皆楽を好み、楽に向かい、苦を避けるからです。眼前に苦を観察して初めて、苦を避け苦患を消除しようと選択します。故に修行の第一歩は、苦を観察し、苦を知り、苦を感知することです。そうして初めて心を六境に触れるところから引き戻し、六境深く入り込まなければ、貪愛の苦が生じません。第一歩の苦を観じ知ることがなければ、第二歩の集を断つことも、第三歩の滅を慕うことも、第四歩の道を修めることもありません。ですから人が道心を発すことは非常に容易ではなく、貪愛の習性によるものです。
一切衆生を見渡せば、六境の楽触を貪愛せずにはおらず、六境への触受を放棄しようとしません。実際には貪愛は全て苦受であり、楽受はないのに、衆生は皆貪愛の苦中にあることを自覚していません。無数の仏法修行者も、仏法を学ぶ目的は依然として世俗生活を享受するため、楽受を追求しています。しかし結果は全て苦であり、ただ無始劫来この理を認識する智慧がなく、盲目的に楽を追求しても真の楽しみを享受できていないのです。これが愚痴です。愚痴の煩悩は最も脱し難く、世尊が苦口婆心に諭されても、衆生は依然として愚痴無明の中にあります。修行は容易でしょうか。全く容易ではありません。だからこそ最初に我見を断つことの難しさは天に登るよりも難く、この点を直視し、事実に基づいて自惚れないよう心掛けなければならないと説かれるのです。
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