慢は七種に分かれる:慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑劣慢・邪慢。これらは全て所謂"我"によって生じる慢である。故に我慢は根本であり、これによって他の慢が生じる。その他の慢は修行によって先ず断除され、我慢は最後に断除される。小乗は四果阿羅漢位において我慢を断ずるが、なお我慢の習気が残る。大乗は初地菩薩位において我慢を断ずるが、習気は残存する。この我慢の習気は八地菩薩位に至って初めて断尽される。これを見れば習気の根深さが分かる。
何を我慢の習気というか。例えれば、木の上にいる嫌悪すべき虫が身体に落下した時、普通の人は無意識に即座に振り払う。考える必要もなく、思惟せずに即座に反応できる。これは意根の自我保護習慣であり、思惟を介さずに危険を回避し、自らが嫌悪するものを拒絶する。これが即ち我慢の習気である。何故衆生は皆この習気を有するのか。衆生の意根は無始劫以来、五陰身を執着して我と為してきた。この習気は根深く、仮に我見を断じ我慢を除き去っても、意根の深層にはなお五陰我の概念と念いが残り、習慣的に五陰の影が未だ清除されていない。七・八地菩薩に至って初めてこの我慢の習気を断除できる。阿羅漢は我慢を現行させず、初地以上の菩薩から徐々に我慢の習気と貪瞋痴煩悩の習気を断ち始める。阿羅漢の煩悩断除も現行を断ずるに過ぎず、全ての習気は初地以上の菩薩位から漸次断除され始める。
我々の心中の煩悩は極めて深重で、その数も極めて多く、断除は困難である。しかし真に難しさを言えば難しくもない。勇猛精進して修行すれば、煩悩は朝日が雪を融かす如く消融する。故に難易は全て自心に在る。悟道の者が禅宗開悟の難易を形容した如く、龐蘊は曰く「難しや難しや、十担の麻油を樹上に攤くが如し(参禅開悟は十担の胡麻油を木の上に広げるが如く困難)」。続いて龐婆は「易しや易しや、百草の頭に西来の意有り」。霊照は「難しとも易しとも言わず、飢うれば飯を食い、倦めば眠る」。三人の開悟に対する三種の感覚、三つの見解。故に一切の法の難易は人に在り、人の根機利鈍に在る。難易は相対法であり、仮相であって、真に難易が存在するのではない。
無上菩提は世間の一切の邪見を破する。邪見は何処より来るか。これも我見より生ず。凡夫が果位を証得せざる前は、皆「我」が存在すると考える。色身は我、五陰は我。凡て我を基点とする様々な知見は全て邪見に属す。仏法の修証は一切の邪見を破し、有情衆生の一切の罪悪を滅除する。初果を証得すれば、我に関する邪見等三つの結縛を破し、無始劫以来に造った三悪道の業は消除され、未来永劫三悪道に堕ちず。残りの業報はただ人中に報い、人中で苦を受ける。人中の苦しみは如何に甚だしくとも、三悪道の苦に比すれば楽であり、苦は軽微である。
初地を証入せざる者を凡夫異生と称し、初地を証得した者を聖人と為す。異生性を滅除し、生死の悪業を造作せず。生死の染汚業種を未だ断ぜざる衆生は皆異生に属す。この一段の寿命が終われば次の生命が続く。ただ時を異にし、処を異にして生まる。或は天上、或は人間・地獄・餓鬼。これを異時異処に生ずと云う。初地菩薩と凡夫異生は皆分段生死を有す。例えば人が一世に百八十年、或は千八百年生き、寿命尽きれば次の世が有る。生死は分段されたものであるから分段生死と称す。初地菩薩が天界に生を受ければ寿命極めて長く、人間に生を受ければ凡夫衆生と同様の寿命を有し、分段生死を有す。願力によって畜生道に生を受ければ、寿命も畜生の如く短く、分段生死を有す。分段生死の外に変易生死有り。所謂変易生死とは寿命極めて長きも、如来蔵心中に生死の染汚種子が未だ悉く滅除されず、なお生死の業を感得し得、永遠に生死の仮相を滅除せず。心中の生滅種子は仏地に至る前には断除できず、故に変易生死が有る。
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