離念とは、念を離れた状態であり、何の念もないことである。霊知とは、敏速な了知である。念がなくてもなお敏速に了知できるならば、七つの識のうち、どの識がこれを成し得るだろうか。
意識が念を持たない時でも、依然として色声香味触法を知っている。その時、眼識は知性を有するか。赤橙黄青藍紫を知ることができるか。有する。耳識は知性を有するか。音声の粗重相、震動相を知ることができるか。有する。鼻識は知性を有するか。香塵の粗重相、鼻を刺す相を知ることができるか。有する。舌識は知性を有するか。味塵の粗重相を知ることができるか。有する。身識は知性を有するか。触塵の粗重相を知ることができるか。有する。意識は知性を有するか。五塵上の法塵を知ることができるか。有する。第七識は知性を有するか。一切の六塵境界を知ることができるか。有する。第八識は知性を有するか。意根の心行を知り、業種を知り、宇宙器世間を知ることができるか。有する。これを見れば、意識が無念であっても、いかなる識の知性にも影響しないことが分かる。意根の知が六識を統べ、第八識の知が一切法を統べるのである。
同様に、意識が善も悪も思わない時、どの識が作動しているのか。八つの識全てが作動している。ではこの時の妄心である七識と真如の第八識をどう区別するのか。どうすれば第八識を証悟し、六七識の心を第八識と誤認しないで済むのか。
ある者は五蘊の作動するある法において、それを第八識の作動であるとする。それならば、今後六識を滅して第八識に独自に作動させ、七識を滅して第八識に独自に作動させ、七識を離れた後第八識が如何にしてなお作動し得るかを見れば、明らかにこれは不可能である。ならば五蘊を観行し、五蘊を我とする知見を否定断除し、六七識の作用を真実の我と認めなければ、不生不滅の真如第八識を認めることになる。
現代人の悟りは、基本的に八識の和合作動の結果を全て第八識一つの識に帰し、七識の機能作用を消滅させている。もし七識の機能作用が消滅するならば当然良く、時処諸縁において全て第八識の機能作用となり、七識を必要とせず、一切法が第八識単独の機能作用となり、全てが第八識となるならば、一真法界を証得し、成仏に近づく。しかしその中に六七識の機能作用がなければ、この時誰が一切法が第八識であることを知るのか。七識を離れ、第八識が単独で作用を起こせるならば、無余涅槃において第八識は依然として一切法を生じ得るが、これは果たして涅槃の境界と言えるのか。
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