衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月04日    火曜日     第5開示 合計1580開示

菩薩は常に畢竟空に遊ぶ

『諸法無行経』の「行」は、運行・運転して現れるという意味であり、諸法は実はその実体がなく、運転していない。なぜそうなのか。一切の法はみな涅槃相であり、寂静にして何ら作為もなく、不生不滅、繋縛もなく、解脱もなく、常に自ら寂静にして虚空のようである。一切の法はみな如来蔵相であり、如来蔵を見れば、一切の法を見ず、これすなわち如来蔵の中に潜んでいるのである。どの法が如来蔵でないというのか。すべてが如来蔵の空性 (śūnyatā) である。それゆえ、三界の世俗の法相はなく、善悪の相はなく、壊乱の相はなく、対立の相もない。

菩薩は常に畢竟空に遊び、心は常に定 (samādhi) の中にあって何にも執着しない。もし何か執着するところがあれば、それは菩薩ではない。もし一切の好悪の相を見るならば、それは菩薩ではない。それゆえ、私の心は軽やかで柔らかく、柔軟の極みにして、言葉では言い表せないほどである。明心の後は、真の大乗菩薩となる。もし心性が明心の前に真に転換されておらず、まだ合格した大乗菩薩の心性を備えていないならば、真の大乗菩薩となることは難しい、あるいはなれないであろう。

菩薩には菩薩格があるべきであり、人には人格があるべきであり、仏には仏格がある。その心性はいずれもその果位に相応すべきであり、これこそが正常である。さもなければ、それは偽の菩薩、偽の仏である。人格を備えていない人は、完全な人間でもなく、真の意味での人間でもない。

菩薩は無量劫にわたって十方の諸仏菩薩に学び受けてきた。説法のうち正しい部分は十方の諸仏の法であり、誤りのある部分は自分の修証がまだ完全でない法である。仏法は一尊の仏の所有に帰することはできず、ましてやある菩薩の所有に帰することはできず、凡夫はなおのこと仏法を持つことはできない。仏法を持つものは仏であり、菩薩法を持つものは菩薩であり、凡夫法を持つものは凡夫である。各階層の人には各階層の法がある。それゆえ、一人ひとりが大心を発し、一日も早く仏法を具足して、一日も早く成仏できるようにすべきである。

——生如法師の開示
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