衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年06月04日    火曜日     第5 回の開示 合計1579回の開示

真に解脱を求める仏教徒はどうすべきか?

真に解脱を求める仏道修行者は、日々の生活において、自心に生じる様々な覚受を仔細に観察し、何に貪愛を抱き、何事に執着し、如何なる事柄に心労を費やしているかを検証すべきである。これを明らかにした後、その心理状態の本質を分析し、その意義と帰結を明らかにしなければならない。そして貪愛と覚受を対治する方法を講じるならば、修行の障礙は除かれ、道業の進歩は速やかになる。

我々は無始劫来より貪りの習気が甚だ重く、自らこれを発見し難い。慣習化し日常化しているが故に、貪りを断じ貪りを降伏せしめた先達のみが、自他の貪心を照見し得るのである。長く芳庭に居る者は香りを覚えず、久しく便所に在る者は悪臭を感じぬが如く、庭外の者こそ清馨を嗅ぎ分け、便所外の者こそ腐臭を弁ずる所以である。

貪りの範囲は広大で、欲界に属する法において、愛着するものは全て貪りである。詩詞歌賦に長けた文豪や、筆意自在の画工は、ほとんど鬼道に去って逍遙する。これらは皆貪りに属する故であり、ましてや情愛などは更に貪りが深く、鬼道の生を受けること免れない。常に馬を描く者はその神髄を得て、死後は馬胎に生じ、鬼神小説を綴る者はその妙を得て、死後は鬼道に生まる。常に思念する所のものと、死後相伴うこととなる。画工が馬を描くに専念すれば、心は馬と相応じ、来世には馬身を受く。鬼神小説を綴る者は心を鬼神に投入し、鬼神と相応じて死後鬼道に生まる。今我らが念仏するは心仏と相応じ、仏の傍らに生まれ出づ。善と相応ずれば善道に生じ、悪と相応ずれば悪道に堕つ。

鬼道の業報尽きてなお福徳残る者は畜生道に生じ、畜生道の業報尽きて福徳残る者、初めて人間界に再生する。故に人身を得る時は極めて短く、三悪道に在る時は甚だ長し。全ての衆生は苦受多く楽受極めて少なし。されば未来世を慮り、福を享くるを少なくし、後世の為に福を蓄え、大福を以て速やかに人身を得んことを図るべきである。

善根福徳厚き者は仏の傍らに在り、仏の教化と薫陶を受け、修行は甚だ速やかに進む。仏無きも煩悩を断じたる菩薩や阿羅漢の傍らにあれば、修行同様に速やかなり。朱に近づけば赤く墨に近づけば黒しと言うが如し。大貪は細心に観察すれば尚気付くべしも、微細な貪りは極めて多く、凡夫の観察及ぶ所にあらず。煩悩を断じた者に非ざれば見分け難し。人身を得る機縁は如何に稀なるか、人身を得る時は如何に短きか、人身を得て証果解脱するは如何に稀にして難きか。既に人身を得たる我らは、この希有なる機を如何に把握し、精勤修証して微少なる解脱を得んか、これ常に深く思惟すべき問題である。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

悟りを成就する時、必ずや意根による悟りの成就でなければならない

次の記事 次の記事

菩薩は畢竟空に常住す

ページのトップへ戻る