衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月05日    水曜日     第1開示 合計1581開示

学仏人の精進は外道に劣ってはならない

仏在世のとき、長爪梵志という外道がいました。彼は自分の甥である舎利弗と論議するために、外道のいくつかの大部の典籍を学ぶことを志し、学び通達しない限り爪を切らないと誓い、人々から長爪梵志と呼ばれました。外道といえども、世間で無意味な論議のために、これほどまでに努力し、長年爪を切らず、爪を切る時間さえなかったのです。仏を学ぶ我々は、どのように努力しているのでしょうか?毎日お茶を淹れてはおしゃべりし、街をぶらつき、掃除をし、食事をし、親族と団らんし、さらに養生のためにヨガや気功をし、道友同士で無駄話をしては自慢をし、たっぷり寝て、一日が終わったとき、どれほどの時間を修道に使っているのでしょうか?

この世に、外道たちのように修行に精進している学仏人がどれほどいるでしょうか?おそらくごくわずかでしょう。外道のように世間を見切り、世俗を放下して修道に赴く学仏人がどれほどいるでしょうか?おそらくごくわずかでしょう。三人の中には必ず我が師がいると言います。我々は本当に外道から多く学ぶべきであり、彼らの長所や優れた点、そして放下する精神と精進努力の精神、世俗を淡く見る精神を学ぶべきです。もし学仏人がこのような精神を持てば、法義が正しいことと相まって、道を得ないことも難しいでしょう。

さて、努力する外道も仏に出遇えば度されるのです。戒行は清浄で、禅定は具足し、智慧も優れていれば、適切な仏法に出遇い、凝然と一思すれば、ただちに証果します。それは真の証であって、解ではありません。我々学仏人にそれができるでしょうか?戒は持つことができず、禅定は修めず、大乗の法の中にどれほど長く薫染しても、証悟の縁には触れられず、せいぜい解いてみるくらいのものです。内道と外道の差はどれほど大きいのでしょうか?中には外道を見下す人さえいます。あのような外道なら、私がもし出遇って教化するなら、どれほど楽なことか、決して心を疲れさせることはないでしょう。ただ、彼らが大心を発せないだけのことです。学仏人が発する大心もまた、進んだり退いたりして、頼りになるものではありません。

——生如法師の開示
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