衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月31日    金曜日     第1 回の開示 合計1565回の開示

心行が業の種の善悪を決定する

問:ある人がこう言いました。末那識が自ら経験した後、縁を求めようとするある法について、意識が極めて強く記憶しようとする意欲がないため、末那識は意識の判断に従い、如来蔵に重要な場所に宿らせることをせず、時間が経つと忘れてしまう。末那識は如来蔵に法を重要な場所あるいは重要でない場所に宿すようにさせることはできるのでしょうか。

答:如来蔵は形も相もなく、内部に場所も存在せず、内外の区別もありません。六識が造作した業種は無形無相の情報であり、同様に形相や場所を持つことはできません。如来蔵に場所が存在しない以上、ましてや場所の重要・不重要など論じる余地はなく、如来蔵は業種や業行の重要度を了別することもなく、そのような判断能力を持たず、どの法が重要かどうかを分別することもありません。したがって業種の収蔵は、法の重要度によって行われるものではあり得ないのです。

一歩退いて言えば、仮に如来蔵に重要・不重要の場所があったとしても、末那識が如来蔵に法の重要度に従って種子を保存させるという理屈は成り立ちません。これは仏法の理にも、如来蔵が法爾自然に任運する種子保存の理にも合致しません。

実際には、五陰身心が造作する一切の法を、如来蔵は分別することなく常に心体に収蔵します。業が異なれば種子も異なり、心行が異なれば種子も異なり、種子が成熟する時劫も異なります。心行が異なるとはどういうことかと言えば、末那識と意識が法の運行において示す作用、貪瞋痴の煩悩の有無、故意か無心か、意図的か否か、思想観念の内容、執着の有無、厭離の有無、智慧の有無、定心か散乱心かなど、要するに幾つかの識心の心所法を指します。第六・第七識の心行が異なり、法への関与の仕方が異なり、用心の在り方が異なれば、形成される業種も自ずと異なるのです。平易に言えば、業種とは心の行為の記録であり、心行が異なれば記録も当然異なるのです。

また一方で、経験した法について、意識が時に心を用いて記憶しようとする場合、鍵となるのは末那識が記憶しようとする意思を持つかどうかです。末那識が記憶することを望まなければ、意識が如何に記憶しようとしても無駄であり、結局は記憶されません。記憶するか否かに関わらず種子は保存されますが、保存される種子は全く異なります。末那識と意識の主従関係を弁えれば、意識の作用をこれほどまでに高く評価することはなくなるでしょう。

——生如法師の開示
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