衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2019年05月31日    金曜日     第2開示 合計1566開示

父子合集経選講(六二)

原文:佛言大王。耳闻舍声。起于舍想。如人梦中。闻他宣说。不了义句。于意云何。是人觉已。忆念梦中。所闻之声。为实有不。王曰不也。

佛言大王。是人所梦。执以为实。是智者不。王曰。不也世尊。何以故。梦中毕竟。无有音声。何况更有。不了义句。当知是人。徒自疲劳。都无有实。

解釈:仏はおっしゃった。大王よ、衆生が耳で善でも悪でもない捨離両辺の声を聞いて、それを真実だと執することは、まるで誰かが夢の中で他人があまり意味のない、文にならない言葉を話すのを聞いて、夢から目覚めた後、絶えず夢の中で聞いた言葉を思い返すようなものである。あなたはどう思うか、このことは実在するのか。浄飯王は言った。実在ではありません、世尊。

仏はおっしゃった。大王よ、この人が自分の見た夢を真実の存在だと執しているなら、この人は智慧のある人であろうか。浄飯王は答えた。この人には智慧がありません、世尊。なぜなら、夢の中にはそもそも何らの音声もなく、まして文にならない言葉などあるはずがないからです。この人は確かにいたずらに自分の心を駆り立てて疲れさせているだけで、根本的に実事は何もありません。

捨心とは、楽しくも憂い悩みもせず、中間にあって両辺を離れた状態にあり、貪愛することも厭悪することもなく、良くも悪くもなく、苦しくも楽しくもなく、このとき心は平静で波風が立たず、高低の起伏がない状態である。たとえばある人を見て、特に何の感覚もなく、好きでも嫌いでもないと感じるなら、これが捨心である。もし好きという心が生じたなら、それは楽を感受し楽受があるということである。もしこの人が嫌だと思えば、それは一種の苦受であり、瞋恚の心が現れているのである。したがって感受は三種に分けられる。すなわち苦受、楽受、そして苦でも楽でもない捨受である。

そして捨の声とは、このような声が善性にも属さず、悪性にも属さず、中間の良くも悪くもない状態にあることを指す。この人は夢の中で他人が文にならない言葉、意味のない言葉を話すのを聞き、心の中では別にどうとも思わないのに、それを実在のこととして、絶えず思い出し続ける。たとえこの捨の境界を実在だと執著し、この捨念に貪着して、捨の六塵の境界も同じく虚妄であり、生死を離れないことを知らなくても、である。

ここでの不了義句は、仏経における不了義経とは区別があり、同じ意味ではない。仏経は了義経と不了義経に分けられる。了義経は真実であり、実法を説いたものである。不了義経が説くのは実法ではない。了義経は大乗経典の第一義諦如来蔵法を説く。これを了義と呼び、根本法実相法である。その他の経典、如来蔵法を説いていない経典は、了義の経ではない。私たちの真実心如来蔵という法を説いていないものは、不了義であり、根本の経典ではない。もちろん了義経の中にも不了義の文はあり、不了義経の中にはなおさら不了義の文がある。

——生如法師の開示
前へ前へ

心行が業種の善悪を決定する

次へ 次へ

念じて念ぜざるはすなわち念仏三昧(buddhānusmṛti-samādhi)

ページトップへ戻る