衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2019年05月10日    金曜日     第4 回の開示 合計1513回の開示

意根心所法

意根と意識の協働には、多くの秘密が秘められている。世間に伝わるような単純なものではない。意根の勝解と不勝解によって蔵される種子も異なり、意根の有心無心によって蔵される種子も異なり、意識が主導する場合と意根が主導する場合の種子も異なり、意識が知りながら意根が証得していない種子と、意根が意識と共に証得した種子もまた異なる。仏法は極めて精妙であり、大衆に流布されているようなものではない。

計算問題を解く際、意根が精力を集中するか否かによって結果が異なる。表面的には意識の集中度や発揮力、思惟能力、知力の差異として現れ、結果を分ける。

詩人が詩を吟じ絵を描く時、精神を凝らし静かに思索を巡らせ、歩みながら推敲を重ねる様は、禅を参ずる功夫に等しい。定があって初めて慧が生じる。仏法を学ぶという大事業において、定がなければ決して成就せず、定が浅くても問題解決には至らない。

多動症の子供に、どうして良い成績が取れるだろうか。仏道修行に心が散乱している者に、どうして立派な修行ができようか。

もし意根が勝解できなければ、意識が「東へ行くべきだ」と言っても、意根が理解しなければ西へ向かうか動かぬままとなり、結局事を成せぬばかりか、甚だしい懊悩を招き、精神錯乱に至りかねない。目の前を車が猛スピードで走って来る時、意根が状況の危急を勝解できなければ、即座に避けることができず、結果はどうなるか。熱湯が手にかかった時、意根が身体の状態を勝解できなければ、身識が耐えられなくなるまで火傷し続け、意根は依然として状況を把握できぬままだ。これは如何なる結果を招くか。

意根は国家の大統領に譬えられる。理解できず自ら実行できないことは部下に委ね、万事自ら行う必要はない。しかしもし大統領が無能で智慧が低劣であり、勝解も欲も念も定も持たないとしたら、この国家が健全であるはずがない。大統領を貶めることは国民全体を貶めることに等しい。自動車のエンジンが錆付いて機能しなくなったら、その車はどうなるだろうか。

——生如法師の開示
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