衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月10日    金曜日     第3 回の開示 合計1512回の開示

意識と意根、どちらが指揮者なのか?

ある人が甲地へ行くためバスに乗ろうとバス停へ向かい、1番バスと2番バスがあるのを見つけました。彼は両方の停留所名を見て、意識が2番バスに乗るべきだと認識し、2番バスに乗ることを決めました。乗車後、無事目的地に到着しました。

問:意識が認識した内容を、意根は知っているのでしょうか?2番バスに乗ると決めたのは意識の決定ですか、それとも意根の決定ですか?バスに乗ったのは意識の指揮ですか、それとも意根の指揮ですか?

答:意根は六識を利用して自らが認識したい法を了別します。意根が塵と接触して意識を生じさせ、意識が法を了別する際、意根も常に触・作意・受・想・思を続けています。意根が法に触れなくなれば、意識はその法において消滅します。したがって意識が知る法を意根も同時に知っており、両者の違いは二つの識が認識する内容が一致するかどうかにあります。

意根は微細な内容を了別できず、意識が代わりに了別します。意根は分析・推理・判断ができず、意識が代行します。意根は認識した後、自ら再考を重ね、意識の観点と一致すればその判断を承認し、一致しなければ再び意識に考察を求め、その後また自ら検討します。この意根の恒常的な審査・思量の作用は常に現起し、全ての法に対して最終的な関門となり、自らの最終的な選択を下すのです。

問:意識が2番バスでなければ目的地に到達できないと知った時、意根もこの道理を証得する必要がありますか?もし意根がこの道理を思量・証得できなければ、目的地に到達できますか?

答:意根が意識の了別内容を知るには、必ず自ら思量を経なければなりません。意識が何と言おうとそのまま受け入れるわけではないのです。意根の恒審思量はまさにこの役割を果たしており、意根は独自の思想と智慧を備えているのであって、単なる人形ではありません。

意識が2番バスの必要性を理解しても、意根は必ずしもこの道理を知りません。もし意根がこの道理を思量・証得できなければ、目的地に到達することはできません。これは意根の智慧の問題であり、意識の思考分析能力の問題でもあり、さらに煩悩の障壁の有無、そして定力の問題にも関わってきます。

意識が理解・認識する多くの法を意根が理解しない場合、決断が遅れ、行動が起こせなくなります。例えば布施を行う際、意識は必要だと感じても、意根が理解しなければ実行したがりません。同様に、意識が五蘊の苦・空・無常・無我を思惟分析する時、意識が表面的に流れ観察を深めなければ、意根は分析理解力が乏しいためこの道理を把握できず、本当に無我となることを恐れ、無我の利益を知らないため、意識にこの思惟を続けさせないのです。

したがって、たとえ意識が多少なりとも五蘊無我を理解しても、意根は必ずしも理解しません。意識が証得したからといって、意根が証得するとは限りません。意根が五蘊無我を証得できなければ、三結を断じることができず、一切の身口意行を改めることができず、生死の問題を解決することはできないのです。

バス乗車の決定権は全て意根にあります。ましてや生死の大事を意識に委ね、意根が決定しないということがあり得ましょうか?最初の一口のご飯、次の一口のおかず——これら全ては意根が決定します。意識はあくまで参謀役であって、何を食べるか食べないか、どれだけ食べるかは、やはり意根という主人が決定権を握っているのです。

仏法を学び生死を超越するには、ダチョウが砂に頭を埋めるように事なかれ主義でいてはなりません。問題を直視し解決すべきであって、回避してはならないのです。生死の大事は回避できず、正面から向き合い解決してこそ、初めて安心を得られるのです。

——生如法師の開示
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