衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月05日    日曜日     第1 回の開示 合計1496回の開示

金剛経唯識深義(一四二)

須菩提は言う:なぜ仏は微塵衆を説き、ただ名のみをもって微塵衆と呼ぶのでしょうか。仏の説かれる微塵衆とは、即ち微塵衆にあらず、これを名づけて微塵衆となす。これら微塵衆は仮の名に過ぎず、実体あるものではないゆえ、仏は仮の名をもって微塵衆と呼ぶのです。世尊よ、如来の説かれる三千大千世界は真実に存在する三千大千世界ではなく、ただ仮の名を付けて三千大千世界と呼ぶに過ぎません。

これらの微塵衆は真実の相ではなく、各々の微塵もまた真実の相ではありません。微塵の構成や数量も真実の相にあらず。いわゆる微塵とは、物質的色法を細分化した仮の名称に過ぎず、これらの微塵に真実の相があるでしょうか。我々が知るように、物質は地水火風の四大種子が組み合わさって形成されるものです。これを細分化して最小単位の物質を得ても、依然としてそれは色法であり、地水火風の四大種子によって構成されています。

大いなる物質も四大種子の組み合わせに過ぎず、その数量が多いにすぎません。これを細分化しても各々の小物質は依然として四大種子の構成比率を保ち、ただその数量が減少するだけです。種子の数量が減じるに従い、物質の体積と面積も縮小し、極微の状態に至って微塵と呼ばれます。物質を如何に細分化しようと、それが可視であれ不可視であれ、全て地水火風の四大種子の組み合わせなのです。

これら四大種子は如来蔵が刹那刹那に送り出すことにより、微塵粒子の生・住・異・滅を維持しています。如来蔵が四大種子を送らなければ、微塵は消滅して実体を失い、空無と化します。微塵が空無でない限り、それは四大種子の形成物であり、如来蔵が刹那に出力する生滅の連鎖によって、物質の一時的な不滅現象を構成しているのです。

故に仏は「微塵衆は即ち微塵衆にあらず」と説きます。「非」とは実相ではなく、実体なき仮名に過ぎません。もし実体あるなら、仏はこれを微塵衆と呼ばないでしょう。実体存在は不生不滅であり第八識と等しいからです。現実には微塵衆は生滅法であり、四大種子によって構成される生滅法に仮名を付すのです。

微塵衆の相は四大種子が形成する粒子の相に仮名を付したもの。これら四大仮合の物質粒子が更に集合して大いなる物質を形成しても、依然として地水火風の所産であり、如来蔵が刹那に四大種子を送り続けることで存在を維持しています。故にこれも真実の相ではなく、虚妄にして生滅変化するものです。

因縁が散ずる時、如来蔵が四大種子を送らなくなれば、微塵から成る物質は消滅します。これらの物質が如何に大規模に集合しようと、全て四大種子の形成物であり、如来蔵が刹那刹那にその存在を支えています。物質が集合して天体を形成し、小世界・小千世界・中千世界へと発展しても、その本質は変わりません。

大千世界に至るも、物質粒子は虚妄にして実体なきもの。三千大千世界も同様に虚妄であり、共業衆生の如来蔵が共同で四大種子を送出して形成した仮象世界です。その本質は如来蔵性そのものであり、仏が説く如く「三千大千世界は即ち世界にあらず、これを名づけて世界となす」のです。この三千大千世界は物質粒子の仮合に過ぎず、刹那生滅する虚妄の相。ただ仮名を以て世界と呼ぶに相応しい、名のみ存在するものなのです。

——生如法師の開示
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