須菩提よ。もし汝が『阿耨多羅三藐三菩提心を発した者は諸法を断滅と説く』と考えるならば、そのような念いを起こしてはならない。何故ならば、阿耨多羅三藐三菩提心を発した者は、法について断滅の相を説かないからである。
釈:世尊は須菩提に告げられた。須菩提よ、もしお前が『既に阿耨多羅三藐三菩提心を発した者は一切の法が断滅空であり、本来何ものも存在せず、成仏の時にも一切の法がなく、一切の法相を具足していない』と考えるなら、速やかにそのような考えを滅し、そのような思想観念を抱いてはならない。何故そのような思想観念を抱くべきでないのか。阿耨多羅三藐三菩提心を発した者は、断滅しない実相心を信受しているが故に成仏の心を起こすのであり、もはや一切の法が断滅であるなどとは説かないからである。
真に成仏を願う心を発した者は、この時十信位の菩薩の条件を満たしており、全ての衆生が不生不滅の真実心たる如来蔵を有することを確信している。十方諸仏が真実心如来蔵を有し、この如来蔵に依って修行し、阿耨多羅三藐三菩提を成就することを深く信じている。自らも如来蔵の存在を信じ、将来その悟りを得て諸仏と同様に成仏でき、十方世界の衆生もまた不生不滅の金剛心如来蔵を有する故に成仏できると確信する。この信心が生じた時、十信位が満たされ十住位に入り、六波羅蜜の菩薩行を修め始めるのである。もし自らに如来蔵が存在することを信ぜず、如来蔵が真実に存在することを信じないならば、仏・法・三宝への信心が未だ満たされず、十信位の修行も具足せず、真実の成仏の道心を発することはできない。
十信位が未だ満たされぬ者は、如来蔵が真実に存在することを信じられず、如来蔵を単なる仮名・概念と考える傾向がある。彼らは如来蔵の空を如来蔵の非存在と同一視し、この概念を諸仏の方便説と見做す。仏の説く究竟の了義法を正しく理解できず、仏の方便説・方便法と誤解する。彼らは表立って「仏が衆生を戯れている」とは言わないが、本質的にそのような意味を抱いている。この考え方は仏法を誹謗するものであり、仏の一切の了義究竟説法を未了義・不究竟の法と見做すことで、仏の真実義を甚だしく曲解している。衆生の仏法誹謗の悪業が普遍的に存在するのは、衆生が歴劫の修行時間が短く福徳が不足しているためである。
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