陰の隔たりの迷いのない再来者は、生まれながらにして聖人であり、一切の法に迷うことなく、自らの修行の果位や智慧の程度を自覚している。前世において意根が既に証得しているため、今世の意識が新たに生じたものであっても、宿命通を具え、前世に証得した仏法をそのまま覚知する。六識・七識ともに迷いなく智慧を具え、前世との連続性を保つため、生来より聖人であり、再び証得を要しない。
前世において意識のみが証得し、意根が未証得で迷いを残した場合、今世の意根も迷い、意識も同様に迷う。両識がともに迷うならば、必ず定観行思惟を共に修め、証果の準備をしなければならない。しかし前世の意根が未証得であるため、五陰無我に対する印象が全くなく、意根を熏染することは極めて困難である。意識も新たに生じたため、前世の修行を記憶せず、一から開始せねばならず、長期間の熏習を要する。
陰の隔たりの迷いを有する再来者が今世で再び証果明心するには、数年にわたる精進的な修学が必要である。それに対し、前世に基盤のない凡夫が今世で仏法に遇い、短い年月で証果するとは、いかなる根器か。再来者よりも迅速であるというのか。
仏は証果明心の前提として三十七道品の具足、菩薩の六波羅蜜の具足、戒定慧の具足を説き、その後因縁が具足して初めて証果可能であるとされた。しかし今や状況は異なり、仏の教えは空文と化し、三十七道品や六波羅蜜の苦行を要せず、戒定慧も修する必要なく、戒律は守らず、禅定も修さず、参禅もせず、浅い理を理解するだけで果を得るという。禅定なき者は煩悩が増し、戒律を守れぬ者ほど容易に証果し、釈尊の教えに従って着実に修行する者ほど却って証果し難い。これが倒錯した時代の乱象である。
如来蔵こそ真の主人であるが、意根は妄りに自らを主人と認める。この偽りの主人は一切の法を我及び我がものとし、第八識の機能作用を我のものとし、六識の機能作用を我のものとする。我見を断つにあたり、この主人たる意根が我見を断たず、従属する六識だけが我見を断っても何の益があろうか。意根が日夜「我、我」と執着し、その我見を断つことを許さず、参謀や従者にのみ我見を断たせようとするのは無意味である。
今なお悟りを開かぬ者は、自らの脳を検査すべきである。どこか錆びついてはいないか。脳に除錆剤を塗布する方法はないか。意根と意識が同時に証果明心する理を繰り返し説くことに、最早辟易している。それでもなお「意識のみの証果明心で足りる」と主張する者たちがいる。何故これほど智慧が劣り、単純な道理が理解できないのか。どのような業障が心を覆い、偽りの果位に固執して一歩も進まぬのか。意識による証果は容易で、自心を慰安し得るが、意根の証果は遥かに困難であるから、わずかな安堵を得ようとするのであろう。
ある果位を愛着し、他人の崇拝を求め、互いに「菩薩だ」と讃え合うのは、依然として「我」の現れである。この我を除かねば、我見を断じた者と言えようか。この我執は世俗人の我より深刻で、「証果開悟の我」を加えた分、世俗人とは比べものにならぬ特別感を抱く。この我は世俗で熏染された我慢よりも断ち難いのである。
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