衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年04月25日    木曜日     第1 回の開示 合計1457回の開示

釈尊はなぜ在家者が出家者を議論することを禁じておられるのか?

虚雲和尚が南華寺にいた時、ある僧侶が規律に反する行為をしたようで、執事の師父が別の僧侶を香板で打つ場面を居士が目撃し、「僧侶が慈悲心を持たずに人を打つとは」と批判する事態が発生した。これは居士が出家者の戒律や寺院の規約を知らず、安易に出家者を論評できないことを示す好ましくない事例である。後山の護法神である龍王さえもこの僧侶の行為を見かねて平手打ちを加えたが、虚雲和尚はこれを知るや龍王を叱責し、僧侶の事柄に干渉することを禁じた。これによって僧侶の事柄は僧伽自らが処理すべきであり、たとえ龍天護法といえども安易に介入できないことが明らかである。

全ての比丘が聖人ではないため、過失が生じるのは必定である。しかし比丘に過失があれば、仏制定の戒律に基づき僧伽羯磨によって対処され、在家居士が随意に論評干渉すべきではない。たとえ破戒比丘であっても、初発心で出家した功徳は百千万億の在家信者を超勝する(経典に云う「破戒比丘は戒無くとも、初発心の出家功徳は百千万億の白衣人に勝れり」)。金製の器が破損しても、完璧な木製の器より尊ばれるが如し。ある大徳は「破戒は人の屍の如しといえども、残れる功徳あり。牛王の死して苦胆を留め、麝香の屍に麝香あるが如し」と述べた。

仏も金口親しく、出家弟子はたとえ戒を破ろうとも一切の世間外道を超勝すると宣べられた。出家者は破戒しても如来の袈裟を纏い、清浄なる梵行者と共住し、常に三学の聖教を聞思するため、容易に慚愧を発して罪業を懺悔し、修行を改めることができる。健足の人が不覚にも転倒しても直ちに起き上がる如く、在家者とは異なる次第である。

『讃僧功徳経』に云く「欲火に心を焼かれ、屍羅清浄戒を汚すとも、速やかに自ら懺悔し、還って如来聖衆の位に入らん。人が暫く道を失うとも、目あれば本道を尋ね得るが如く、比丘世尊の禁を犯すとも、暫く犯すも還って滅せん。平地にて足を蹴るも、足あれば速やかに起き上がるが如く、比丘屍羅を欠くも、犯すも暫くして還って補わん」。

経典にはさらに、出家者が地獄に堕ちるも毬を打ち水に入れるが如く直ちに浮上するが、在家者は石の水没の如く昇る極めて難しと説かれる。

よって因縁ある者に勧む。決して如来の教えに従う僧宝衆を誹謗せぬこと。自らの悪心悪行を抑制せねば、業報成熟の時には如来さえも誹謗しかねない。僧を謗り、毀損し、悩ます身口意の悪業は、万劫にわたり三悪道に沈淪し出期を得難い。もし過去の無知により僧侶を悩まし誹謗したなら、今まさに大恐怖を生じ、克く誠を尽くして懺悔し、未来際にわたって永く再び造らざることを誓うべきである。

『大乗大集地蔵十輪経』に云く「在家相を帯びる諸有情、鬚髪を剃らず袈裟を着せずとも、一切の出家別解脱戒を受くこと得ず、一切の羯磨布薩自恣ことごとく遮遣されるとも、聖法を得て聖果を証するが故に、勝義僧に摂せられ、これを勝義僧と名づく」。

末法の今時、出家衆には玉石混交があるが、否定できない事実として、彼らは依然として人天の福田、仏法の住持者であり、その刹那の功徳に形体あれば尽大地も容れ難し。今の出家者がいなければ、影像仏法さえ維持できず、まして三帰五戒・菩薩戒等を具えた在家修行者の存在もあり得ない。

よって在家者は平等の恭敬心をもって一切の出家者を護持し、安易に誹毀してはならない。もちろん依止に際しては善き者を選び随学すべきである。

出家者が破戒・非行・威儀破壊を行えば、即時に清浄心を観じ、決して誹謗・悪行の伝播を慎むべきである。在家者にとって出家者は尊属に等しく、たとえ過失あっても清浄と観じ、委屈を以て護り、巧みに諫め護持すべきである。助力できぬ場合でも、決してその過失を暴露してはならない。

——生如法師の開示
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