衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年04月19日    金曜日     第3 回の開示 合計1444回の開示

如来蔵を証得しなければ我執を断つことができるのか

阿罗汉は如来蔵を証得していないにもかかわらず、我執を断じたのではないでしょうか。辟支佛(缘覚佛)も同様であり、如来蔵を証得せずに執を断じることができます。初禅以上の禅定において、五陰十八界を徹底的に観行透彻し、一切の煩悩を断除すれば、我執は即断じ尽され、三界への留恋なくなり、命終時に必ず人を离去し、戻りません。

大乗菩薩の我執断じは、如来蔵を証得後に、如幻観、陽炎観を経過し、禅宗三関を突破し、如梦観を経過して初地に入れば、我執を断じる能力を得ますが、完全に断じることはできません。もし完全に断じれば、無余涅槃に入ります。

初禅定なく、陽炎観や禅宗三関は考えても無益です。ある人々は第一関さえ实证せず、每日如梦観を観行しても禅定なく、観行中に如梦観を証得したと自覚し、この誤会は如何に大きいでしょう。一般論すれば、首次証悟至如梦観は幾大劫時間を経過必要であり、一生中では修至如梦観不可能、況且禅定も修せず、全ての観行は入门できません。

地に入后即法執を断じ始めます。法執は深細であり、小乗の智慧では法執を断じ無能です。如来蔵を証得した地上菩薩の智慧のみ法執を断じる能力持ちます。各々细微的法が如来蔵出生執持であり、真実なく、無我であると証得すれば、一法執を断じます。

現在皆さんは実修とは何かを理解できるでしょうか。実とは何か、修とは何か。全て人は自身を実修と称しますが、戒定慧の其中之一を离れば、実でもなく、修でもありません。即この様であり、誰不服でも無用です。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

金剛経の唯識深義(一〇〇)

次の記事 次の記事

第八識の了別

ページのトップへ戻る